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飯島 愛 ちん Benz Royce

演出されたポジティブ

2016.11.27 14:37

日テレ24時間テレビがやっぱりおかしい

障害者の姿を映し出して感動を押し付ける「感動ポルノ」という言葉がある。今年も放映された日本テレビのチャリティー番組「24時間テレビ」の直後には、この言葉がネットの検索キーワードで急上昇したという。障害者蔑視や商業目的との批判が止まない日テレの看板番組。いつもやり玉に挙がるのはなぜか。


どんな障害者の姿なら納得するのか? 「感動ポルノ」批判の傲慢

赤木智弘(フリーライター)

 僕は24時間テレビ批判に端を発する「感動ポルノ」の論理には極めて強い違和感を感じる。

 元々ネットにおいて、24時間テレビは常に攻撃に晒されてきたと言っていい。

 「募金額より、番組制作費の方が高いのだから、それを寄付しろ」とか「マラソンは100キロ走っていないヤラセだ」などという批判の声が毎年のように上がっている。毎年この時期になると、ネットは常に24時間テレビ叩きのネタを探している。

だから、感動ポルノも、24時間テレビを叩くための単なる道具にすぎない。そしてこの道具は極めて使いやすい道具であった。これを持って叩けば「24時間テレビは障害者の人権を損なっている」と、番組の趣旨そのものを直接叩くことができる。だからネットはこの「感動ポルノ」という言葉に飛びついたのである。

 ところで、この「感動ポルノ」という言葉はどこから生まれたのだろうか。

 いくつかの記事を見ると、この言葉の由来は2014年12月に亡くなったコメディアンでジャーナリスト、そして自身も障害を負っていたステラ・ヤングが、TEDで語った内容にあるという。

 彼女は周囲の人たちや様々なメディアで、障害者が「障害というマイナスをはねのける、ポジティブな存在」として特別扱いされ続けていることを指して「感動ものポルノ」と称した。ポルノという言葉を使った理由は「ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱いしている」様子を指したという。

 ネットでは感動ポルノというものが、一方的に報じる側、すなわちメディア側だけの問題にされているようだ。しかしテスラはポジティブなものとしてしか障害者を受け入れられない「周囲の人達」の態度も問題にしていた。感動ポルノの論理は、決してメディアという報じる側だけへの批判ではなく、障害者を受け入れる周囲に対する疑問でもある。

それを踏まえたうえで、24時間テレビの感動ポルノを批判している人たちは、どのような障害者の姿であれば納得するのだろうか?

 障害の辛さに耐えかねて、周囲に八つ当たりする障害者だろうか?

 障害を利用して女性を口説いて不倫をするような障害者だろうか?

 目が見えないふりをして作曲をゴーストに丸投げする障害者だろうか?

 特定のモデルがいるような気もするが、そうした人間的で善悪だけでははかることのできない障害者の姿を、本当に感動ポルノを批判している人は欲しているのだろうか?

 そして何より重要なことがある。そうした障害者に対して我々は募金をしたいと思うだろうか?

 もし「障害をものともせず、何かに常に挑戦しようとしているポジティブな障害者」と「障害があるからと、開き直って酒ばかり呑んでいる障害者」がいるとして、我々はそのどちらに募金したいと思うだろうか?

 障害者が普通の人と同等の生活を行うためには、たくさんのお金や支援が必要だ。五体満足であれば、他人をにらみつけ雑言を吐くようなクソオヤジだって、大手を振って道を歩くことができるが、障害を持つ人は車いすや義手義足などの特別な器具を使い、さらに周囲の人に手伝ってもらい、何度も何度も頭を下げながらでないと、道をも満足に歩くことができない。

 寄付という形式で、そうした器具を買い保守するためのお金をもらい、周囲の人に手伝ってもらうためには、周りに対しておもねるしかない。感動ポルノとは周囲から好意的な関心を持ってもらうための、手段なのである。障害者は肉体的にも金銭的にも、多くの人たちの「善意」に頼らなければ生活できない。だからこそ障害者は感動ポルノを演じるしかないのである。

では、問題を解決する手段はあるのだろうか?

 ある。

 多くの人たちの善意に頼らなければ生活できないことが感動ポルノの原因なのだから、障害者がなるべく他人に頼らなくても生活できる社会を実現すればいいのである。

 それにはもちろんバリアフリー化ということもあるのだが、最も重要なのは、障害者に対してシステマティックに富を分配することのできるような、社会保障の充実である。

 社会保障は国に頼ることであり、頼らないことと矛盾するように聞こえるかもしれないが、障害者の人権を守るのは国の義務である。その義務を国に達成するように要求することは、法治国家においては当然のことであり、頼る頼られるという関係性は存在しない。

送検のため相模原・津久井署を出る車の中で笑みを浮かべる植松聖容疑者=2016年7月27日

そもそも、障害者が感動というポルノを見せなければならない理由は、障害者や支援の団体に回るカネが少なく、危機をアピールする必然性に迫られているからだ。分配が足りていれば、障害者がわざわざ他人相手に感動を売る必要もないのである。

 もちろん社会保障というものが「固有の権利」であるという社会的合意も必要不可欠である。それがなければ社会保障自体が「持つモノからのお恵み」として認識され、生活保護受給者バッシングと同じ批判が障害者を襲うことになるだろう。

 今年7月に相模原市の障害者施設で発生した19人殺傷事件の植松聖容疑者は友人に対して「産まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障害者は果たして人間なのでしょうか?」 「人の形をしているだけで、彼らは人間ではありません」(原文ママ)というメッセージを送っていたという。そこには五体満足の人間を標準とした、機能性でしか人間を選別しない傲慢さがあると僕は考える。

 こうした傲慢さに対して、これまで障害者を「ポジティブな姿勢を見せる」という機能性でしか受容できなかった私達の社会は、ハッキリと対抗の意思を示すことができるのだろうか。

 あまり楽観視できないと、僕は思う。