「カエルの楽園」と沖縄
沖縄県うるま市にある勝連城跡から、3~4世紀ごろのローマ帝国の銅貨4枚と17世紀のオスマン帝国のコインが見つかったと、ことし9月、地元の教育委員会が発表した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160926-00000028-ryu-oki
勝連城は13~14世紀の築城と伝えられている山城で、「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として首里城跡などとともに世界遺産に指定されている。珊瑚礁の石で築いた城壁が優雅な曲線を描いて何層も山の頂上まで続き、その一番高い城郭跡に立てば、海風の薫りとともに三方に青い海を望める。うるま市には、このほか縄文時代の貝塚跡や洞窟遺跡があり、古くから人々は海を糧に暮らしてきた。そして、今回見つかったローマ帝国やオスマン帝国のコインは、この地の人々が遠く南シナ海やインド洋を越え、ヨーロッパや中東とも何らかの交流をもっていたことを示している。
その沖縄から南へ遠く海を渡り、現在のカンボジアやベトナム南部のメコン川下流域に古代クメール人が作った「扶南国」という王国が、紀元1世紀から7世紀にかけて存在した。「扶南」とはシナ人がつけた漢字名で、クメール語では「プノム」(「山の王国」という意)と呼ばれた。「山の王国」といっても山岳地帯という意味ではなく、山をご神体として崇める民族だったようだ。実際は、人々はメコン川やトンレサップ湖など水の恵みに頼って農業や漁業を行ってきたほか、巧みに船を操り、海を縦横に行き来して交易を行ってきた。扶南の人々が船を巧みに扱い、シナ大陸までやってきたことは、紀元2,3世紀の漢籍にも記録されている。
そのプノムで最も賑わいを見せた港町としてオケオがあった。オケオは、今のベトナム南部、メコン川の河口一帯にあったいわゆる「港市国家」だった。1940年代、フランスの考古学者がこのオケオの遺跡の発掘調査を行ない、その発掘品の中にはクシャーナ朝ガンダーラの青銅の仏頭などとともに、ローマ帝国のマルクス・アウレリウス金貨も発見された。これらの発掘品は「オケオ文化」と名づけられ、ホーチミン市のベトナム歴史博物館の展示品となっている。
銅貨と金貨という違いはあるが、ともに3~4世紀ごろのローマ帝国のコインが沖縄の勝連半島とインドシナ半島南端のベトナム・オケオで見つかったのである。ローマ帝国のコインが、沖縄・勝連城にいつ、どういうルートで運ばれたのかは分からないが、オケオの人々も勝連の人々も、船を巧みに操り、海を自由に行き来できる海洋民族であったことは間違いない。
オケオ文化圏がクメール人のプノム(扶南)に属していたのは1世紀から6世紀、その後はチャム人のチャンパ王国の支配地になって17世紀までつづく。チャンパは7つ程度の地域政権(=港市国家)の連合体であったと考えられているが、そのチャム人は南シナ海を渡り、フィリピン・スールー群島にまで貿易拠点を作り、シュリーヴィジャヤ(いまのインドネシア)やマレー半島を含めた交易を担った(「東南アジアの歴史 人・物・文化の交流史」根本敬他著、有斐閣2003年)。
そのチャム人と沖縄・日本との交流の歴史を示すエピソードを「Cafe Saigon 」のブログが紹介している。「チャンパ王国と日本は意外なところで触れ合っている。それは、ろくろっ首の伝説がチャムから来たことや、沖縄琉球王国の王女がチャンパ王国へ嫁いでいった話など、様々な話しが海のシルクロードを通じて日本にまできているのです」http://homepage1.nifty.com/Cafe_Saigon/histr03.htm
沖縄は、明・清の時代を通じて大陸シナの王朝に朝貢し、冊封体制と呼ばれる関係に組み込まれたことは間違いないが、それはあくまで大陸シナとの貿易関係を維持し、それによって利潤を得ることが目的であったに過ぎない。交易といえば、大陸シナだけに限った話ではなく、プノムやチャンパ王国、あるいはタイのアユタヤ王朝などとも交流していた。今回、勝連城跡から古代ローマの銅貨が見つかったことは、その交流の環は西洋にも達していた可能性を示している。まさに、船をもって万国の「津梁」(架け橋)となし、珍しい宝はいたるところに満ちている(「以舟楫為万國之津梁、異産至宝充満十方刹」)という言葉をそのまま体現しているかのような発見でもあった。この「万国津梁」こそ、琉球王国が東アジア海上ネットワークの中心に位置するという、その地の利を生かして、万国との交流・交易でもって国を運営しようとした矜持を示すことばでもあった。つまり、琉球王国は大陸シナとの朝貢貿易だけに依存してきてわけではなく、逆に、海禁政策によって海から遠ざけれらた大陸シナの人々に代わって、彼らの物産を東南アジア各国に運び、交易の仲介の労をとったのが沖縄のウミンチュ(海人)たちだったのである。
いま、共産中国の政権は、「琉球はもともと中国の属領だった」として、沖縄独立に向けたさまざまな工作を行い、米軍基地を沖縄から追い出し、いずれは沖縄や南西諸島、さらには九州までを占領支配しようと目論んでいる。その先にあるのは、チベットやウイグル、南モンゴルの人々が味わったのと同じ悲惨な運命だ。日本人には到底考えられないような方法で陵辱・殺害し、死してなお遺体を弄ぶといった大量殺害、民族浄化が実行される・・・・というのが、石平・百田尚樹両氏の近著「『カエルの楽園』が地獄と化す日」(飛鳥新社2016・11)が描き出す戦慄の未来図だ。
まさか沖縄がそんな運命をたどることはないと思いたいが、普天間基地の辺野古移設や高江ヘリパッド建設に反対し、米軍の沖縄からの撤退を望む「民意」がどこまで拡大するのか、さらには琉球新報や沖縄タイムズの反日・親中的な論調がどこまで支持を得るのかにかかっているような気がする。沖縄の人々には、共産中国が過去にチベットやウイグル、南モンゴルに対して行ってきた弾圧の歴史を真剣に振り返り、南シナ海の領有権を主張し着々と軍事拠点化してきたプロセスに目を向けてほしいと願う。沖縄・尖閣に、チベットやウイグル、さらには南シナ海と同じ運命を辿らせるわけにはいかないのだ。