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デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化 pdf無料ダウンロード

2021.01.03 03:52

デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化

, Morris Berman


によって Morris Berman

4.4 5つ星のうち 14 人の読者

ファイルサイズ : 24.38 MB

内容紹介 17世紀、デカルトとニュートンのパラダイム成立によって、世界から魔術が失われた。 貨幣による資本主義と合理的な科学思考によってできあがった近代的な世界。 魔術は科学に置き換えられてしまった。しかし、科学的に再編成される過程で色あせていったパワフルな知を取り戻すために、今こそ「世界の再魔術化」が必要だ! デカルト・パラダイムに反旗を翻し、1960年代のカウンター・カルチャーの空気をひっさげ、「世界の再魔術化」への道筋を探った知的冒険の書、待望の復刊! オカルト学の山々を乗り越え、たどり着いたひとつのヒントはグレゴリー・ベイトソン。 ロボティクス、アンドロイド、VR的な現実世界の出現を前に、今こそ再読されるべき書。 内容(「BOOK」データベースより) 歴史的なパラダイムの変容を、鮮やかに描き出した名著復刊。近代科学の成立によって、世界から魔術が失われた。大きなパラダイムチェンジを経て登場したのは、資本主義と科学思考によってできあがった単色の近代。しかし、あらゆる方面で行き詰まりが見られる現在、「世界の再魔術化」が必要だ。もっとカラフルでパワフルな、新しい物語を生きるために。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 柴田/元幸 1954(昭和29)年、東京生まれ。1984年東京大学大学院英語英文学博士課程単位取得退学。米文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。翻訳の業績により早稲田大学坪内逍遥大賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳するほか、著書も多数。文芸誌「MONKEY」の責任編集を務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

ファイル名 : デカルトからベイトソンへ-世界の再魔術化.pdf

以下は、デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。

かつて私たちは、山川草木のすべてが息づき、個人と宇宙の運命が融合した世界に住んでいた。近代になるとデカルトらの科学的思考が、世界は自分の意識とは関係なく独立して存在すると捉える意識を芽生えさせた。本書は前者を「参加する意識」、後者を「機械論的な意識」と呼んで比較していく。「機械論的な意識」は、テクノロジーと経済に浸透することで瞬く間に広がり、現代はこの意識が支配的なものとなっている。しかし、そもそも人間が何かを「知る」ときには、「参加する意識」によってなされる「ミメーシス」(ある概念を理知のみで考察するのではなく、心理的・感情的に自らをイメージと同一化すること)が不可欠であり、意識から切り離されて存在する「客観的な現実」などは原理的にありえない(cf.ハイゼンベルク「不確定性原理」)。にも関わらず、「機械論的な意識」は意識の外側に「客観的な現実」があると想定し、その把握だけに努めるという矛盾を内包している。したがって、その意識が支配する社会で暮らしている私たちは、R・D・レインが「ひき裂かれた自己」として示すとおりの自己分裂におちいるしかなく、これが資本主義の破綻、生態系の破壊、精神疾患の増加といった諸問題を引き起こしている。これを乗り越えるには、「機械論的な意識」が規定する「文脈」を横断し、それよりも高次の視点で世界を捉えることが求められる。ベイトソンの概念によれば、人間、他の生き物、無生物を含むあらゆる事物の関係のなかに<精神>が生じるという。私たちの捉えている自我とは、こうしたより大きな恒常性をもったシステムの一部に過ぎないのだと認識することによって、その束縛から自由になることができる――。――と、本書の内容を無理やり整理してみましたが、著者バーマンは要約では伝わらないメッセージこそが重要だと言っています。もとよりそれは言語への翻訳不可能なものですが、あえて書くならそのメッセージは、「この狂った現実認識をひっくり返し、抑圧によって生じた自我の檻から抜け出そう」という、中二病的でロックンロールなものでした。私にとっては。たとえば上の概要をこう書き直してみたらどうでしょう。“あなたがいま生きにくさを感じているのであれば、それは社会から偽りの自己を強制されているからに過ぎず、より高次の現実認識に至ることができれば、あなた本来の生を取り戻すことができる”いじめられっ子の福音になるような、甘美でカルト的な響きが最高です。まるで、キリスト教の規定する世界を邪悪で偽りに満ちたものだと断じ、本来の善なる世界への回帰を目指した古代グノーシス主義のようです。実際に本書のなかでは、こうしたロックンロールな表現も多々出てきます「この世界は本質的に多面的で、狂わんばかりに流動的である。しかし近現代の社会はあなたに、その混沌とした流動をひとつの秩序に収め、自己をひとつに固定せよと説くだろう」「現代における『現実』システムは、実際にはたえず違反せざるをえないような論理への忠誠を要求している(略)それは誰が見ても誤りなのに、我々はみな、これらのルールに従って生きることを強制されており(略)それに言い及ぶこともままならない」……などなど。こうした現代社会をバーマンは「上下さかさになった世界」と表現しています(まさにグノーシス主義で語られる、愚かな創造神デミウルゴスがつくった粗悪な世界!)。そんな本書をもし、デカルトやベーコンといった近代科学思想を批判し、これを乗り越えるものとしてユング、ライヒ、ベイトソンらを紹介する思想史としてのみ読んでしまうと、それはあまりに退屈でしょう。ここにあるのは、生き方を根本的に変質させうるなにかで、読み終えた後にやるべきは、とてつもなく素晴らしい小説や映画やマンガや音楽に触れたときと同じように、これまで当たり前のように眺めてきた古く固定化した自分の世界観を殴りつけることだと思うのです。そう捉えたとき特に面白いのが、スマホによるネット常時接続環境、SNSや様々なWebメディア、VR技術の急速な広まりなど、ここ最近の情報技術が個人の意識を大きく変容させている状況が、本書の内容と響き合っているように見えるところです。原著の刊行は1981年ですが、本書の示す道筋は古びるどころか、いま新たな、しかもより重要な意味合いを帯びているように感じられます。たとえばここには、ニューギニアのある部族には男女が服装や立ち振る舞いを逆転させる「ナヴェン」という文化があって、社会的に抑圧された人格を一時的に解放してストレスを和らげているのではないかという話が出てきますが、これはいまVR界隈で起きている現象(「バ美肉」など)と強くリンクしているのではないかと。また社会において、攻撃性と服従性のような相補的関係が互いの行動によってその習慣をそれぞれ促進し過度に肥大化させてしまう現象を、ベイトソンは「分裂生成」と名づけており、本書ではそれは夫婦関係から階級間、人種間の反目などで顕在化すると書かれています。SNSでエスカレートする様々な議論や炎上騒ぎの根っこではないでしょうか。では実際、本書を閉じたあとに、自分の古い世界観を殴りつけるにはどうすればいいのか。バーマンは、西洋的工業社会においては、「抑圧」と「性的疎外」によって人間の精神バランスを崩し、「硬直した自我構造を生産すること」が要請されているのではないかと考え、「現代における自我とは、愛なき世界にあって、支配することによって愛を得るために進化した構造ではないだろうか」と推察しています。またライヒを引いて、「われわれが『人格』とか『性格』とか呼んでいるものそれ自体がひとつの神経症にほかならない」とさえ書いています。つまりいま一般的に自我と呼ばれるものは、単に近現代の社会が無理やり構築させている偽りの(それが言い過ぎなら「仮の」)人格であって、まさしく足枷であり、束縛である、と。ベイトソンによれは、この束縛から逃れるには、こうした大きなパラダイムそのものの本質を理解することが必要で、それには「性格の大掛かりな再編」が伴うとされています(現代社会においてそれが実現されるのは、狂気と芸術的創造においてだというバーマンの指摘は鋭い)。ベイトソンは、彼固有の概念である<精神>を想定していて、それは単独の物体のなか(例えば人間の脳)に「ひそむ」ようなものではなく、諸現象が結びつく大きなネットワークが「帯びる」ものとしています。そして私たちが普段「自我」とみなしているものは、諸部分が相互に反応しあうこの大きなシステムの一部であって、システムの一部または全体に対して一面的な支配力を持つことはそもそもできないのだと。このことを踏まえて本書が示しているのは、たとえば自我を平面から一部をのぞかせた円と捉えたとき、円のすべてを変面の上に引き上げようとすることは不可能であり、それよりも平面の透過性を高めて大きな円のなかの一部として自我を認識すること、つまり全体を捉えて意識の支配力の限界を悟ることが重要である、ということです。私の「自我」は、決して私を含む<精神>の全体を知ることはできないし、できるのは「全体」に身を委ねることだけ……。これは簡単なようですが、「他人に打ち勝つことを目標とし、世界を機械のように整理し、自己を徹底的に管理する心性」が正常とされ、「自我力の強さが精神の健全さの指標」となっている現代社会では、ある意味で自殺にも等しいことだと思えます。このあたりが(私にとって)本書のクライマックスで、文章もいちいち響きます。自分の生を本当にコントロールしたければ、つくりもののアイデンティティ、硬くてもろい自我を捨てろ。自己をひとつに同定しなくては生きていけないと思う迷いを振り切れ。やるべきことは、「自分のパーソナリティの束縛から自由になること」というわけです。「真の正気が訪れるとき、いままでの自我は消滅する。うつろな現実に染まりきった偽りの自己が消滅し、太古の元型的な層に潜んでいた、聖なる力の媒介者がよみがえる。死を通して生まれた新しい自我は、やがて新しい役割を果たすようになる。それは、聖なるものを裏切るのではなく、それの僕(しもべ)となる自我である」(R・D・レイン、本書で引用される)そして最後に示されるバーマンの理想の未来像は、稚拙な妄想のようにも見えますが、これは未来予想図というより祈り、もしくは決意表明のようなものとして読むべきかと思いました。「未来の文化は、人格の内においても外においても、異形のもの、非人間的なものをはじめ、あらゆる種類の多様性をより広く受け入れるようになるだろう」いまの「上下さかさになった世界」に安住するのでも、原初のアニミズム的、錬金術的世界に回帰するのでもなく、未来のこうした理想世界を思い描き、そこへ進もうとすること。少なくとも私はこのような未来の到来を心から希求します。