金子兜太作品鑑賞 ①
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.01.html 【金子兜太作品鑑賞 】 より
白梅や老子無心の旅に住む 『生長』
これは金子兜太が十八歳の時に作った、初めての句であるという。美しいし大きい。あまりに大きいので却ってエネルギーの現れを感じないくらいである。例えば夜空全体のようかもしれない。ある星雲をクローズアップして眺めればそこにはエネルギーが溢れているのを感じるだろう。しかし夜空全体を眺める時にはそこにはただ調和と平和のみがあるような感じがする如きである。
この句は兜太の句全体を理解する上でのマスターキーのような句であると私は思っている。白梅・老子・無心・旅、これらの言葉の総合から受ける感じが兜太の全句業、すなわち兜太の生を貫いているように思うのである。
老子・・私の理解では老子は生の全体性をそのまま生きた人物である。生へのイエスマンと言ったらいいだろうか。ありのままを認め受け入れ、しかも覚醒していた。そういう人物である。
無心・・無心ということは人間の在り方の最高のものである。しかし実に理解しにくい言葉であることも確かである。「自分は無心である」とか「自分はエゴが無い」という人は既に無心ではないし、微妙で頑固なエゴがある。また「自分は無心を目指す」という言い方の中にさえ既に無心にはなれないものが含まれていると私は思うのである。私が金子兜太の句業全体を眺める時に、無心とは実はこのような現れをするのではないかと思うのである。率直で豊かに感じ、あらゆる事を自分さえも勘定に入れて考える態度。全的に自由であり、それゆえに全体に対しての責任感がある。
無心の旅・・兜太おいては〈定住漂泊〉と言い換えることができるかもしれない。単なる〈旅〉という言葉よりはもっと全体的である。定住がやってくれば定住、漂泊がやってくれば漂泊という自在さがある。これに比べれば芭蕉の〈旅〉は直線的であり、時には悲壮感さえ漂ってくる。
白梅・・気品と野趣があり、大らかで繊細で無垢である。滋養と薬効豊かな実を付けるのも好い。殊に老木には格別の趣がある。
実はこの句は、いわゆる兜太らしい句ではない。一般的にもそう思われているかもしれない。他の句によく見られる兜太独特のエネルギーや情感の表出、肉体感やアクが無いからである。これをどう説明しようか。全てのエネルギーが干渉しあってしまえばエネルギーは消滅したように見える、という説明はどうだろう。すべての要素を含んでしまえば要素が無いも同然である、という説明はどうだろう。あるいは壮大な交響楽の演奏の仕方を指示する楽譜のようなものだという譬えはどうだろう。楽譜から音が聞こえないように。とにかくそのようにこの句からは兜太独特の音がしないのは事実であるが、この句が金子兜太を理解する上での楽譜であり、マスターキーであるというのも事実である。私にとっては。
この句が実際にはどのように出来たかの状況的ないきさつはあるだろうが、それをあれこれ言っても多分あまり本質的な意味はない。優れた芸術作品は作者自身も手の届かないところからやって来る天啓または天恵であるという事実があるからである。そういう意味でも金子兜太の一番最初の作品であるこの句は素晴らしい。とにかく、この句から兜太の全句業が始まった。そして、この句が全ての句を照らしている。
私はこの一連の鑑賞文の句を、ある程度年代順を意識しつつも、取りあえず思いつくままに並べることにした。
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』
私は、この句があるからこそ全面的に金子兜太を信用できる。「白梅」の句は、もしかしたら私が騙されている可能性も有る。「白梅」の句はどこかの学識者が偶々捻らないとも限らない内容である。しかし、このマラソンの句は学識などは遥かに及ばない地点で作られている。この真摯、このエネルギーの純粋、生というものの真っ只中に存在する感じ。私はこの句があるからこそ、躊躇無く兜太句を読み始めた。
「白梅」の句が夜空全体を眺めたときの調和や平和の感じだと書いたが、その言い方からすればこの「爆心地のマラソン」は一つの銀河の爆発の中心に自己が存在するような感じである。その爆発の中心点に在ってその爆発のエネルギーを感じながらも冴えた覚醒の中に居るという感じである。正に「このように生きろ」と言われているような句なのである。
人間の最も愚かで悲惨な原爆というものが題材になっていることがこの句の価値を高めていることも事実である。人間の愚かさや悲惨さから目を逸らすな、それとともに生きよ、しかも覚醒していよ、と言われているようである。私が感じるこのような示唆はこの句の何から来るのか。それはとても高い質の美から来る。この美を何と表現しよう。自然界を見たり聞いたり嗅いだり触ったりして感じる美ではない。人間存在の尊厳の極限の美、とでも言ったらいいだろうか。美というだけではなく、真善美の結晶体とでも言いたい。
とにかく古今東西こんな句は他にないだろう。俳句という範疇を超えて、人間の発し得る言葉として屹立している。
純粋に生き生きぬかむ秋袷 『生長』
こういう句を作った人だからこそ、後に「爆心地のマラソン」のような強靱なエネルギーの塊のような句を作るに到ったのだということで、うなずける。どこか斜に構えて、策略をもって生きてゆかねば生き難い世であれば、生きてゆく上で、このような心意気を持つことは難しい。たまたま感情が高ぶって、こんなふうに思うことは多分誰にもあるかもしれない。この句の「秋袷」は、日常的にこんなふうに思っていたということを示唆していないだろうか。秋袷を着る日常的な所作の中でもこんなふうに思っていたということである。
ところで、〈純粋に生きたい〉という願望は往々にして孤の心に執し過ぎて、狭い道に迷い込む危険性を孕んでいることも確かである。しかし、兜太はそうならなかった。最近の兜太の言葉に〈荒凡夫でいきたい〉というのがあるが、この〈純粋に生きたい〉ということと〈荒凡夫でいきたい〉ということが共存し得ている兜太は、懐が深いとしか言いようがない。私が抱いている大雑把な感じで言ってしまえば、兜太の中には芭蕉も一茶も居るのである。
強く生きたし電車朝日に埋れ去る 『少年』
純粋に生きるためには、当然、強くあらねばならないだろう。この句、「強く生きたし」という思いを「電車朝日に埋れ去る」が美しく支えて感動的である。映画のラストシーンにでも使いたいような映像である。
蛾のまなこ赤光なれば海を恋う 『少年』
純粋に強く生きたい。何の為。「海を恋う」からである。海に象徴される何かを恋うからである。
文脈の流れを切っても、独立した一句として鑑賞したくなる句である。先ずその色彩感に魅かれる。そしてずっと見ていると、絵画的というよりはむしろ彫塑的であると感じてくる。オブジェとしての「蛾」がまさにそこに居るのである。