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金子兜太作品鑑賞 ⑤

2018.04.16 04:47

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.05.html 【金子兜太作品鑑賞  五】 より

  無神の旅あかつき岬をマツチで燃し      『蜿蜿』

 時代にもよるだろうが大雑把に言って、知性と詩心を持つ若者で、この句を読んで、自由への憧れがざわざわと胸の中で騒がない者がいるだろうか。この日常の堆積物を放り投げて、放浪の旅にでも出てみたいという憧れが、心の中に起こってこない者がいるだろうか。この世のまやかしの価値観や手垢に汚れた神仏の概念や道徳などを放り出して、どこまでも歩いて行ってみたい、という憧れをこの句は喚起する。

  トンネルに風びようびようと鳴り込む旅   『蜿蜿』

 私の場合、二十歳前後の何年間かは殆ど旅をしていたと言ってもいいかもしれない。精神的なものも含めて、さ迷っていたのである。夜の長い長いトンネルをリュック一つで延々と歩いた記憶もある。寒い冬などはそれこそ、びょうびょうとした風が虚ろで不安な心に鳴り込んできた。

  最果ての赤鼻の赤魔羅の岩群 (いわむれ)     『蜿蜿』

 この句には現実の人間の旅というよりは、ファンタジーの主人公が最果ての地で景色をうち眺めているというような雰囲気がある。ファンタジーやアニメーションなどのあるものは、アニミズムに連なっていくものがある気がする。

  眼を開けては光入れ眠り聖者の旅     『暗緑地誌』

 聖者という言葉は受け取る人によって様々なイメージを抱く言葉かもしれない。この句の聖者像は比較的に一般性があるのではないだろうか。煩悩を超越して平和な境地に至った者といういわゆる聖者である。このようないわば美しい聖者像を描き得る兜太が、後年〈荒凡夫〉ということを強調するのは興味深い。〈聖者〉の反対の言葉は〈凡夫〉であるが、〈荒凡夫〉という言葉に〈聖者〉と〈凡夫〉という二つの極の統合という意味を兜太は含ませている感じが私にはある

  あおい熊チャペルの朝は乱打乱打      『早春展墓』

 北海道での句であろう。鳴り響く教会の鐘の音が句から飛び出しそうな威勢で聞こえてくる。「あおい熊」ということで、広々とした青い北海道の原野なども見えてくるし、その原野から教会をうち眺めている熊の姿も想像される。

  海とどまりわれら流れてゆきしかな     『早春展墓』

 ゆったりとしたリズムを感じる句で、口ずさんでいると、とても気分がいい。既に取り上げた「無神の旅・・」は個我の旅である感じが強く、どこか張りつめた自意識の切なさのようなものがあるが、この句ではその自意識が溶けている感じがある。この小さな自我を越えた大きなものが意識されている故に、ゆったりと解放されているのではなかろうか。

  酔い漂い水光無韻の秋の旅          『狡童』

 句を眺めていると、こちらまで酔っぱらってくるような心地がする。旅をするということ、あるいはこの世に在るということ自体に、ある意味、酩酊していたいものである。

  揺れやまぬ夜行列車に紺碧の老師      『旅次抄録』  

 「紺碧の老師」の存在感。旅の途中でこんな存在物に出会ったら、私はどうしたらいいだろうか。人生は揺れやまぬ夜行列車のようなものでもあるが、そこにヌッと現れた存在物である。考えてみれば、金子兜太は私にとって、そのヌッと現れた存在物であるような気がする。

  旅次にして海獣のさびしさのサーフイン  『詩經國風』

 穏やかな孤心とでもいうような感じがただよう。兜太は発行年にして『詩經國風』の四年前の『遊牧集』の後書で、情(ふたりごころ)を深めて行くことがこれからの自分の課題だ、という意味の事を書いている。その情(ふたりごころ)への旅次における一つのたゆたいのような気がする。

  酒吐くように白波吐いて海は晩夏      『詩經國風』

  日本海秋なり星座の唾が降る         『皆之』

 アニミズムということでもあろうし、自然と情(ふたりごころ)を通わせている結果でもあろう。私は自然の中に住んでいるが、百姓をしているので現在殆ど旅はしない。いくら周りの自然が豊かでも、それと馴れ合ってしまっている感じで驚きが少なく、なかなかこの両句のように自然現象を身体で受け止めているような豊かな表現の言葉が出てこない。

  春の河州の家鴨のなかにしやがんでいた   『皆之』

 ことに夢などを見た昼寝などから覚めて、今自分は何処にいるんだろう、となかなか思い出せないで、やっと思い出すことがある。旅をたくさんする人の場合は、そういう事が多いのではないかとも想像するが、この句の場合は、寝ていたわけではないのに、昼寝覚の後のような感覚がある。

  源流なり花サビタひりひり触れる      『両神』

 とても新鮮なものに触れたという感じがする。私はどうしてもこの「源流」という言葉に〈意識の流れの源〉というような意味合いを感じてしまう。そこでは何もかもが常に新しく活き活きとしている。〈魂のふるさと〉というような言い方をしてもいいかもしれない。とにかくこの「花サビタ」が印象的であり、この「ひりひり」も気持ちのよい部類に属する「ひりひり」である。

  燕帰るわたしも帰る並みの家         『両神』

 ある意味での旅の終りの句であると言えないだろうか。いわば自我の旅の終りである。自我とはつまり、自分は並の者ではないと主張するところのものである。おそらく人間は自我がある限りは自我の旅を続ける必要があるだろう。動物には最初から自我がない。人間はまず自我の必要があり、しかして、その自我を落として真の自由に、真の自在に到るという恵みを与えられた存在である。

  頬に張りつく黄葉喜ぶ旅にあり        『日常』

 やってくるものは何でも嬉しいという境地を感じる。そして、黄色は兜太のいわば穏やかに燃えているいのちのエネルギーの在り方を感じさせるくれる色である。そのことは兜太全句のあちこちに読み取れるのであるが、この句に限っても「紅葉」でなく「黄葉」である必要がある。

 「紅葉」に関しては「水の飛騨紅葉心身のごと落ちる」というのが『狡童』にあるが、両句を比較してみると紅や黄の関係性がとても面白い。兜太全句を通して、赤色系は否応なく燃え止まぬいのちを現わしている感がある。

  蜃気楼旅人にフリーターも混じり       『日常』

 何か美しい。旅をする者としての人間存在の認識。現代ではそれにフリーターも混じっているという眼差し。そして、その事の全体が蜃気楼のようであるという感じ方。旅を重ねてきた兜太が到達した穏やかな観照である感じがする。