金子兜太作品鑑賞 ⑥
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.06.html 【金子兜太作品鑑賞 六】 より
『暗緑地誌』に〈古代胯間抄〉という次の連作がある。
泡白き谷川越えの吾妹(わぎも)かな 一
雉高く落日に鳴く浴みどき 二
胯深く青草敷きの浴みかな 三
森暗く桃色乳房夕かげり 四
髪を噛む尾長恥毛(しもげ)に草じらみ 五
陰(ほと)しめる浴みのあとの微光かな 六
黒葭や中の奥処の夕じめり 七
唾粘り胯間ひろらに花宴(はなうたげ) 八
谷音や水根匂いの張る乳房 九
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな 十
瞼燃え遠嶺夜空を時渡る 十一
この題材を、これだけ赤裸裸に、躊躇無く、格調高く書けた人が他にいただろうか。それは浅い知識の私には分らないが、私は今、インドのカジュラホにある寺院のミトゥナ像(男女交合の場面の彫刻群)を思い浮かべている。私の中でこの句等と同じ赤裸裸さと格調のものを探すとしたら、あのあたりまで行くのである。言うまでもなくこの連作は性愛の場面である。それが古代の自然を舞台にして描かれている感じがする。全体から受ける雰囲気は神話的である。この主人公は人間の女性と交わっているのであるが、実は精霊とあるいは自然そのものと交わっているという雰囲気を持っている。〈古代胯間抄〉の胯間は股間つまりまたぐらである。そしてこれは女性の股間である。この前書はいかにも俳諧的で思わず笑いたくなるが、書かれているものから受ける感じは詩的である。老子も自然の本質を〈谷の精〉〈神秘なる女性〉というような言葉で表現しているが、これら一連の句には、女性の神秘はすなわち自然の神秘であるという事を感じる。
一句目。「吾妹」という女性を親しみを込めて呼ぶ古の言葉が印象的である。そしてこの「吾妹」という言葉で、何となく舞台が古代であるという感じを抱く。白く泡立つ谷川を越えてゆく吾妹、これからどんな場面が展開するのか、どきどきと胸が高なるものがある。
二、三、四句と、周囲の自然も共鳴してだんだんと雰囲気が高まってゆく。
五句目で少し滑稽味を出して雰囲気を抑制している。
六、七、八、九句などは、まことに直接的な性の表現である。本来、性とは美しいものだが、それが現代において扱われるときは隠微なエロになったり、軽薄に扱われることが多いのではないか。この連作では、舞台が古代であることと、大自然の中での営みであるということが、性本来の美しさと詩性を表現しえたのであろうか。いや、何よりも作者のプリミティブな資質がこれを可能にしたに違いない。
十句目の句はこの連作の他の句の流れとは違う趣を持っている。いわば流れが切れたような趣である。これはオーガズムの句である。オーガズムというものは、他の性愛に関する様々な行為や状況とは異質なものである。他の行為は場合によっては、計らいの範囲内にあるが、オーガズムだけはやって来るものである。自分の意志ではどうにもならない天恵の質を本来持っている。永遠を垣間見るような至福の質を持っている。そういう事実が、タントラ密教などで、男女交合図が涅槃の象徴として使われる理由だといわれる。そういうオーガズムの状態は言葉で表現し切れるものではないが、かなりのニュアンスを含めることが出来たとすれば、それは当然他の状況的な句とは異質なものになるに違いないのである。
十一番目の句は、これまた雰囲気のある句である。存在に合一した後の静かな火照りと安らぎ。永遠性というものを自覚する時でもある。
さて、これから暫く妻の句を取り上げたい。
朝日煙る手中の蚕妻に示す 『少年』
神話だ、という感じがある。結婚というものが始る時に、自分達が主人公の一つの神話の場面に立ち会っているのだと感じたことは無いだろうか。条件から結婚相手を決めがちな現実の状況においては、そのような感じを持つことはあまり無いのかもしれないが、幸運にも、もしそのような感じで始まりうる結婚に出会えたとしたなら、その結婚は結果がどうであれ祝福されたものだと私は思うのである。
この句に於ける神話の場面は、どちらかといえば東洋である。養蚕の起源の場面であるような感じもする。この句を思う時に連想されるのが、草田男の「空は太初の青さ妻より林檎うく」であるが、これはまさに西洋の神話、ずばり旧約聖書の世界のものである。この二人の俳人の個性の違いといえようか。
妻みごもる秋森の間貨車過ぎゆく 『少年』
私にはこの「秋森の間貨車過ぎゆく」が遠景のように感じられるのであり、妻がみごもった時の夫の感じというのはこのような感じだったのではないかと思いだしている。確実に何かが起っているのであるが、それが手にとれる実感としてあるのではなく、遠い秋の森の間を貨車が通り過ぎていくような感じだったのではないかということである。多分、妻の側の感じとしては自分が貨車そのものに乗ってしまったような感じを受けるのではなかろうか、などと想像している。
皆子句に「新緑めぐらし胎児(あこ)育ててむわれ尊(とうと)」がある。
独楽廻る青葉の地上妻は産みに 『少年』
青葉の地上で独楽が廻っている。新鮮な心の弾みであろうか。独楽の不安定さということから、心配の気持ちも当然混じっている気がする。
皆子句に「夫の絣汚れしままに産みに行く」がある。
雪山の向うの夜火事母なき妻 『少年』
〈義母二十七年十二月逝く〉と前書。
義母の死。その死は多分妻を通してうっすらと実感することしかできない。実母の死よりは遠くのものと感ずるのだ。不穏な感じが漂う。夫としては妻を見守るしかない。
皆子句に「春山の底なる母の骨思う」がある。
屋上に洗濯の妻空母海に 『少年』
平和と戦争という問題意識である。平和の為の戦争とはよく聞く言葉であるが、その理屈は通るものであろうか。そういう理屈を子を産み育てる母なる性が許すものだろうか。少なくとも人類の母なる地球そのものが飽和して病んできてしまっている二十一世紀の現代においては許されまい。
当時、皆子さんは洗濯を屋上でしていたのであろうか。皆子句に「屋上より沈まんとコスモスに降りる」がある。
妻よ厨に水音高く塔を望む 『少年』
理想を持って地に立ちつづけようとしている女性像が眼に浮かぶ。「水音高く塔を望む」に理想を見ている姿、「厨に水音高く」に地に立つということを感じる。
皆子句に「青くるみ学ばんと思いつつ歩く」、「天平の甍見放つ春空へ」等がある。