Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

金子兜太作品鑑賞 ⑭

2018.04.16 05:24

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.14.html  【金子兜太作品鑑賞  十四】 より

  山陰に狼の群れ明くある             十六

 狼達は山陰にくつろいで、いわば〈われらの時間〉を過ごしている。彼らは自分たちの絶滅の運命を察知していただろうか。私は人間達も原始の世界においては、この狼達のように山陰に肩を寄せ合って明くあったのではないかと想像するし、未来においても、環境が人間の存在を許さないものに成りつつあれば、このような場面が再来するかもしれないなどとも想像する。

  狼の往き来檀の木のあたり            十七

 まだ、狼が存在し得ていた時の狼の日常が見える。

  狼墜つ落下速度は測り知れぬ           十八

 死というものは突然にやって来る。生きてある時間の流れとは比べる術もないほど、その落下速度は測り知れない。

  狼や緑泥片岩に亡骸                十九

 狼は死んでしまった。その亡骸は緑泥片岩に化石のようにへばり付いている。

  ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり       二十

 この句だけ片仮名を使っているのは種としての二ホンオオカミを強調したかったのではないか。二ホンオオカミは去って行ってしまう。気高い野性は存在し得ない時代になってしまった。君はわれらを残して何処に行こうというのか。すでに山頂にある灰白のその身体は空の白に溶け込んでいるようだ。さようなら。君のことは絶対に忘れない。

 狼の連作を読んだ余韻が私に強く残っていて、次に書くべきことがなかなか思いつかない。しかし気を取り直して、日常的な句に戻ろう。

 病気の時の句を何句か。病を得た時の兜太の句も素敵である。負の状況さえも俳句の種にして、作品を成すという正の状況に変化させてしまうという創作者魂が素敵である。

  痛てて痛ててと玄冬平野に腰を病む     『皆之』

 腰を病んだ時の六句のうちの一句。詩になっている。生きるということは、詩を生きるということだ、という大きな目で見れば、腰を病むのもまさに一つの詩に違いないのであるが、なかなかそういう意識にはなれないものである。「痛てて痛てて」と唸っている自分を、大きな目で見ている客観的な意識があるに違いない。

  酒止めようかどの本能と遊ぼうか      『両神』

 人間がゴロンとそこに在るような味わいとでも言おうか。骨太な人間観である。この句は〈痛風抄 六句〉の五句目の句である。一茶の「ことしから丸もうけぞよ娑婆遊び」(この句の前年に一茶は中風に見舞われたが、快癒したらしい)が連想される。「天地大戯場」というような観念も想像されるが、単なる観念だけに味付けされた句でなく、兜太の実存あるいは肉体がそこに在る。

  初花や麻痺の右顔は固蕾           『日常』

 〈突然右顔面麻痺〉と前書。この顔面麻痺は私の義父も長い間患っていた症状である。どういうものかというと、この句のように顔の半分の筋肉が委縮してつぼむような感じがあるのである。かつてビートたけしが交通事故で顔を手術し、顔が麻痺したことがある。その時の記者会見で、記者の「顔面の麻痺が直らなかったら芸能活動はどうしますか」との質問に「顔面マヒナスターズというのをやります」とギャグで返したことがある。その時は芸人として大したものであると思ったものである。この兜太句にしてもそうである。自分の顔面麻痺を「初花」の「固蕾」に譬えておどけるなどというのは、まさに俳諧人の面目躍如たるものではないだろうか。

 句集『日常』の後書に・・母は長寿し、小生に健康な遺伝子を遺して呉れた。餅肌も呉れた。小生の元気は母のお陰と言っても過言ではない・・とあるように、概ね兜太は健康そうである。しかしどういうわけか最近は尿瓶を使うようだ。そしてその尿瓶を詠んだ句にもまことに佳い句がある。

  ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな      『日常』

  いくつかある尿瓶の句の中でベストの句だと思う。兜太全句の中でも十指に入ると言いたいくらいである。「尿瓶」という卑近なもの、どちらかと言えば汚いもの、どう考えても美ということとは関係ないものを主題にして、宇宙的ともいえるスケールの大きな景を描き出している。俳諧美であると同時に、あえて言えば、軽みということの究極であり、スケールが大きい故に神話性さえ帯びている。例えば七福神の一人が尿瓶を洗っている景などと見ても相応しい。

  春闌けて尿瓶親しと告げわたる        『日常』

 芭蕉が自句「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」について、五月雨の中をわざわざ鳰の浮巣を見に行くという酔狂・風狂の心自体に俳諧性があると言ったそうであるが、この兜太句も同じような見方ができる。わざわざ自分は尿瓶と親しいなどということを告げわたるということ自体が俳諧である。敢て言えば、芭蕉句の方はいわば風雅人というエリートだけに通用する狭さがあるが、兜太句は人間すべてに通用して大きい。兜太という人間自体が俳諧性を帯びているとも言える。

 さて、今までは私の思いつくままに句を取り上げてきた。私の意図としては、句に現れた人間兜太を私なりに概観できるように句を取り上げてきたつもりである。これからは、今まで取り上げた句は抜かして、有名な句や自選句や私にとって印象的な句を句集順に紙面のゆるす限り拾ってゆきたい。

  富士を去る日焼けし腕の時計澄み       『少年』

 太陽にあぶられて長時間山歩きをした後などの意識の澄みということが想像される。そのことを「日焼けし腕の時計澄み」と書いたのであろう。〈物で書く〉という兜太の言葉がよく解る句である。この意識の澄みは、後で鑑賞する「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」などにも暗示されている。

  真葛野に晴雲繁し音もなく           『少年』

 しーんと明るく静まり返った映像である。この映像の中で雲が湧き、流れ、また湧き、また流れている。時間が流れているようだが時間が無いようでもある。永遠ということを感じる。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は聴覚から入ったが、この句は視覚から入っている。

  階下の人も寝る向き同じ蛙の夜         『少年』

 他者への意識。あるいは他者との共生感。これは兜太の生を貫くものである。それが自然を背景になされているところが、また豊かで楽しい。