論語読みの論語知らず【第82回】 「桓魋(かんたい)其れ予を如何せん」
敵がどのような行動をとってくるかを3つに絞りこみそれぞれに対する作戦を練る。しかしながら、敵は予測してなかった4つめの行動をとってきたとする。こうなるとこちらは奇襲を受けたのも同然となるのだ。他方、『戦争論』を書いたクラウゼヴィッツは奇襲についてそれほど簡単ではないと喝破している。
「奇襲・・・この努力はあまりに一般的であり、あまりに不可欠であり、それが全然成果を生まないということはあり得ないので、逆にまたすばらしい成功を収めるということも稀である」(『戦争論』第3部第9章)
兵法の上で実際それがどうなのかを深く論じたい気もするがそれは改めてのことにしたい。それよりも、予測できなかったような奇襲や攻撃を受けたときに、どのような精神性を人は持ちうるのかについて少しだけ言葉を紡ぎたい。
孔子という人は若いころなかなか日の目をみずに50代でようやく祖国である魯の大臣として立つことができた。勇んで政治改革に邁進するが、それがある程度達成する目前で佞臣たちの反撃にあい失脚した。そして、50半ばにして弟子たちとともに13年にもおよぶ長い流浪の旅に出た。出立から数年して宋の国に赴いているとき、孔子を妬み憎んでいた宋の国防大臣であった桓魋は、孔子とその弟子たちが大樹の下で儒教の礼楽の稽古をしているとこを襲ってきた。桓魋はその大樹を切り倒して倒して孔子一行を亡き者にしてくれようと凄み、弟子たちは逃げることをすすめたが、孔子はつぎのようにいったという。
「子曰く、天 徳を予(われ)に生ぜり。桓魋 其れ予を如何せん」(述而篇7-22)
【現代語訳】
老先生の教え。天はこの私に世を徳化する資格をお与えになったのだ。桓魋ごときが、いったいこの私をどうすることができるであろうか(加地伸行訳)
この天が与えた徳とは、他人を道徳的に感化することのできるものであり、これを持つことで世の中を導いていく資格があると孔子は信じていた。そうである以上は桓魋と兵士たちごときが私の命を奪うことなどできるはずがないとしたのだ。天命という言葉は今どきあまり使わないだろうが、孔子は天命というものを強く意識していたと思う。徳のある者が政治の上に立つことを理想として、自らを恃んで一度はその舞台に立つも失脚し、流浪の旅に出てからもその天命を深く信じて行動している。
ただ、天はそれほどスムースかつストレートには理想を実現させてくれない。それどころか孔子一行は何度も困難に直面するのだ。平穏無事の中において人は何かを信じる、或いは、信じていると思うのはそれほど難しくない。だが、肉体的精神的苦痛が負荷としてのしかかり、その局面で命の危機が迫った時に信じていたはずのものが、脆くも崩れ去る如き感覚に揺らされやすくもある。その瞬間にパニック、茫然自失、自暴自棄、思考停止、遁走などのパターンに陥るのはよくあることだ。たいていが、時間の経過とともに冷静さを取り戻してゆくが、それに要する程度には個人差がある。私個人としては人間の因果関係や相関関係をつかみ取る力などは多寡が知れていると思っている。だからどれほどの危機管理をしても予測しえなかったことは起こる。そのようなことがときに天の配剤なのではないかとも思う。(もっとも責任ある立場の者が簡単に想定外や想像を上回るなどの言い回しは使うべきではないと思っている。ときにはそれは何もしていなかったことの言い訳にすぎないからだ)
さて、今回の論語の一文だが、この場面の孔子は桓魋に対して立ち上がり大きな声で叫んだのだろうか。それとも、浮足立つ弟子たちに冷静かつ自然な感じで吐き出すような言い方だったのだろうか。おそらく後者だったのではないかと思うのだ。後天的に信じることを刷り込まれた者と、先天的に信じることを知っていた者、どこかこの差異のような感じがしているのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。