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南北朝時代

2018.04.17 04:45

https://tyottonow.com/nantyo-kurokigoyso/  【【南朝黒木御所跡と供養塔】 天河大弁財天社のすぐ後ろ。南北朝時代を簡単に説明】 より

【天河大弁財天社】の主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)ですが、他に、熊野坐大神、吉野坐大神、南朝四代天皇の御霊(後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)、神代天之御中主神より百柱の神が配祀されています。

御祭神を見てわかるように、天河神社は南朝と関わりの深い神社です。

ここで、「南朝って何?」と思われる方がいるかもしれませんので、簡単に説明します。(学校で習いますが、忘れている方も多いと思うので)

今年(2018年。平成30年)は、皇紀2,678年・・・つまり、神武天皇が橿原で天皇に即位してから、その子孫がずーーーーっと皇位に就いて2,678年です。

こんなに長い王家の歴史を持つのは日本のみで、今上天皇(平成天皇)で、125代目天皇です。

しかし、その長い年月の間は、ずっと穏やかだったわけではなく、天皇家の身内同士での争いや、その取り巻きの争いなど波乱に満ちており、明治天皇の玄孫である竹田 恒泰さん著書の「怨霊になった天皇」という本によると、天皇の自殺が二例(弘文天皇、安徳天皇)、暗殺が二例(安康天皇、崇峻天皇)、事故死が一例(四条天皇)、特殊な例として神の怒りに触れて殺された例や、神の呪いによって殺された例(仲哀天皇、斉明天皇)もあり、島流し、幽閉、追放などの憂き目にあった天皇は多数います。

以前、【奥琵琶湖 菅浦の湖岸集落散策】の記事で淳仁天皇(じゅんにんてんのう)、【「怨霊になった天皇」を読んだ】の記事で崇徳天皇(すとくてんのう)の皇位争いについて書きました。

それらもかなり荒れていたのですが、特に大荒れだったのが「南北朝時代」と言われるもの。

通常、天皇は一人ですが、南北朝時代は、京都の北朝(ほくちょう)と、大和(奈良)の南朝(なんちょう)の、それぞれに天皇が即位する(つまり二人の天皇がいた)という、異常事態。

そのきっかけとなったのが、天河神社の祭神の一人でもある「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」。

後醍醐天皇が活躍した鎌倉時代、天皇家は「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂し、揉めていました。

このころ、朝廷以上に力を持っていたのが武士政権である鎌倉幕府。源頼朝から始まったこの幕府は、良い働きをした武士に褒美として土地を与える(御恩と奉公)ことで統率し、150年間も力を有していました。

幕府の権力は大きく、天皇は、幕府の承認なしでは皇位継承者を決めることができませんでした。

そこで後醍醐天皇は、天皇中心の政権を作るため(自分の子供を次の天皇にしたかったので、口出ししてくる幕府が邪魔だったこともある)、楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞(にったよしさだ)、足利高氏(あしかがたかうじ)などの鎌倉幕府に反感を持つ武士を味方につけて、鎌倉幕府を討ちました。(一度失敗して、後醍醐天皇は隠岐の島に流されたが、復活してからの倒幕だった。パワフルな天皇ですね)

余談ですが、源頼朝から始まった鎌倉幕府ですが、後に頼朝の子らは次々と殺され、頼朝直系の血脈は途絶え、頼朝の妻・北条政子の実家である北条家が仕切り、この時の幕府のトップは北条高時でした。

鎌倉幕府倒幕で武勲を立てた足利高氏に、後醍醐天皇は諱・尊治(たかはる)から、「尊」の字を与え、高氏は尊氏に改めました。

足利尊氏(あしかが たかうじ)・・・、後に足利幕府(室町幕府ともいう)の初代将軍になる人物です。

さて、北条を討ち、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、公家と武家を統一した政治を目指します。

それが、「建武の新政(けんむのしんせい)」。

天皇中心の政治を作ろうとした後醍醐天皇ですが、後に尊氏が幕府(武家政権)を作ったということから見ても、建武の新政が上手くいかなかったことがおわかりになるでしょう。

その大きな原因は、後醍醐天皇が、民から土地の所有権を取り上げ、新たに土地所有権や訴訟の申請などに関して、天皇の裁断である「綸旨」を必要としたことでした。

これで武士らが混乱。

また、後醍醐天皇は、楠木正成らを武家でありながら初めて朝廷の要職につけるなどしましたが「天皇中心の政治を取り戻す」ことが目的であったため、武家を大事にしませんでした。

そこで、足利尊氏のもとに不満だらけの武士たちが集まり、尊氏は天皇の許しなく武士たちに土地をあたえ、さらに武家政権樹立の構えを見せたために、後醍醐天皇は激怒。

両者は、対立することになります。

はじめは後醍醐天皇側が有利で、尊氏は九州の大宰府にまで逃げましたが、「後醍醐天皇に没収された土地の返却を約束する」と武士を集め、さらに後醍醐天皇と対立する光厳上皇を味方につけ、大軍勢で京都に攻め入りました。

この京都の湊川の戦に敗れた後醍醐天皇側は、【比叡山】に逃げました。

京都に入った足利尊氏は、光厳上皇の弟である光明天皇を即位させ、北朝(ほくちょう)を成立。

後醍醐天皇は、後に比叡山を降りて、足利尊氏と和睦し、光明天皇に三種の神器を渡しました。(なんと、後に後醍醐天皇は、渡した神器は偽物だよ、と混乱させる事を言う!)

これで、天皇は後醍醐天皇から光明天皇へと引き継がれたのですが、後醍醐帝は諦められない!

幽閉されていた京都の公家の屋敷から、女装して逃走。

大和(奈良)の吉野に、南朝(なんちょう)を開きました。

南朝の初代天皇は、もちろん自分、後醍醐天皇です。(天皇の象徴である三種の神器はありませんが、後に取り返す)

このようにして、朝廷が、京都の「北朝」と、大和(奈良)の吉野にある「南朝」の二つに分かれ、同時に二人の天皇がいるという異常事態が、60年ほども続いたのです。