Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

古代女性の舞と踊り

2018.04.17 07:42


Facebook・清水 友邦さん 投稿記事 古代女性の舞と踊り   より

傀儡(くぐつ)は平安時代よりもはるか昔から、定まった家を持たずに各地を渡り歩いた日本最古の神事芸能集団です。

のちに猿楽や能、歌舞伎などの伝統芸能に影響を与えました。

大江匡房の『傀儡子記』にその様子が出ています。

「傀儡(くぐつ)は客に呼ばれた代価として、高価な刺繍の服、錦の衣、金のかんざし、螺鈿の箱などを受け取るが、すでにほとんどの品物はもっているのだ。

彼らは一反の田も耕さず、一枝の桑も摘むことはない。すなわち県の役人の支配をう受けず、土着せず、流浪人にひとしい者どもである。

朝廷ともかかわりなく、国司も恐れぬ。義務や役務はなく、一生を楽しんで過ごすのである。夜になると百神を祀り、鳴り物入りで舞い、騒いで幸運を祈っている。」

傀儡の集団は昼は噴水が噴き上がる舞台で驚かせ、魚や竜などの面をつけた者が歌い踊って観客を魅了しました。夜は神社境内の神舞殿で神がかって、禊祓いの奉納の舞をしていました。

傀儡(くぐつ)達は課役・交通税を免除されて誰からも支配されず諸国を自由に放浪して舞い歌い楽しく暮らしていたようです。

傀儡(くぐつ)のルーツは九州の、おおわたつみ族(海人族・安曇あづみ族)にありました。

宇佐神宮の最古の祭祀儀礼、放生会(ほうじょう え)は744年に隼人の祟りを鎮めるための傀儡子舞を奉納したのが始まりといわれています。

おおわたつみ族の海幸彦の末裔が隼人です。

隼人は大和朝廷に服従し宮中で隼人舞と隼人相撲を演じたと言います。そうして、隼人の服属儀礼が芸能として八幡信仰と結びつき傀儡などの芸能集団になったといわれています。

宇佐神宮の末社に百太夫殿(現在の百体神社)がありますが隼人族の霊を祀る首塚に建てられていました。白拍子、歩き巫女、遊女、傀儡が信仰する神が百太夫でした。

傀儡たちが信仰する百太夫神は八幡信仰の広がりとともに西日本に広がって行きました。

百太夫はえびす神と習合して傀儡子の神から芸能漂泊民の神となって兵庫県西宮市の廣田神社の摂社・夷(ヱビス)社に鎮座しました。広田神社の末社だった西宮神社は現在ではえびす神社の総本社として本社を凌ぐ賑わいを見せています。

西宮神社の傀儡子たちが「えびす廻し」「えびすかき」と呼ばれる「えびす舞」を全国各地で公演する事で、えびす神は各地に普及しました。大阪の今宮戎神社のえべっさんは、京都八坂神社の氏子が今宮に移り住んだとき、祇園の蛭子社をお祀りしたことに始まります。

西宮神社では「蛭子祭」と綴ってエビス祭りと読ませているように「えびす神社」の主な主祭神にヒルコとオオクニヌシとコトシロヌシが祀られています。

イザナギとイザナミが最初に産んだ子がヒルコです。しかしヒルコは不完全だったので海へ流されてしまいました。

祝詞の後半で浅瀬にいる禍津日神(まがつひのかみ)=瀬織津姫がこの世のあらゆる罪穢れを引き受けて大海原に持ち去っていくと語られています。

これは海に流されたヒルコの話と同じです。

海に没した隼人を供養するように八幡神が宣託して傀儡たちの放生会が始まった事とヒルコの話が重なります。また海中の石となった和多都美(ワタツミ)神社の御神体「いそらえびす」は八幡縁起で語られる海中の石舞台となった海人族の祖、阿曇磯良(あずみの いそら)=百太夫神と同じです。

出雲族のコトシロヌシもまた国譲りの後、海の彼方に去っています。

ヒルコが不完全だった理由が女性のイザナミが声をかけたからだとされているのは男性原理が優位になる前の母系の先住民、海人族のことにも思えます。

ここでヒルコ=えびす=あずみのいそら(安曇磯良)が繋がります。海に流されたヒルコは母系の先住民のことを表していました。

ヒルメを先祖とする天孫族に国を譲ってヒルコを先祖とするわたつみ族は海中に没して精霊となったのでした。

罪、穢れを背負ったヒルコは海に流して祀ることで、罪が祓われ人々に福がもたらされました。

傀儡たちは祭礼の時に「えびす舞(傀儡舞)」を舞うことで人々の穢れを引き受け、それを神に捧げる舞で神様にお渡して、罪穢れを祓ったのです。

傀儡(くぐつ)は誰からも支配されず諸国を放浪する神事芸能集団でした。

昭和初期まで筑紫(九州の北半分)を本拠地とした芸能集団「くぐつ」の一大ネットワークがありました。

傀儡(クグツ)族が残したといわれる筑紫舞は跳躍や旋回の多いのが特徴です。日本舞踊にはない「ルソン足」「鳥飛び」「波足」「水けり」「砂けり」など海辺にまつわる海女族の伝承を思わせる名のついた足使いがありました。

菊邑検校によって一人の少女が伝承者として選ばれました。昭和十一年の秋、舞人が十三人集まり古代の石室で不思議な舞を舞いました。

それは昭和に入り「くぐつ」の芸の伝承者が少なくなってしまった筑紫舞の奥儀を伝える最後のイニシエーションでした。

不幸な悲劇的な生涯を送った皇子や皇女の物語を伝える「語り舞」というのがあります。

「男女の恋でも、成就した話は、舞って語り伝える必要はない。それは単なる色恋にすぎない。結ばれなかった恋を舞って、死後は離れ離れにしないで下さいと神に祈る、舞って語ることによって後世の人々に『ああ、こういう恋もあったのか』と思ってもらうことが、その人々をおなぐさめすることになる。」菊邑検校(筑紫舞伝承者)

「語り舞」は魂をなぐさめる「鎮魂」の舞でもありました。

筑紫舞が伝える七福神は世にいう福の神とは全く異なる不幸を背負わされた神でした。

傀儡が伝える七福神は皆、人々の苦しみを背負わされて不完全な不具の姿をした神でした。

鈴鹿先生は次のように述べています。

『不完全なるものに神性を見る思想は世界的にある。日本にも、近世までは、不具の子が生まれると、その子は、家を栄えさせる“福子”として皆で大切に守り育てた。

神から授かった子、神から選ばれた子として共同体がその子を大切にすることで、その共同体に福がもたらされる。芸能を演ずることで、共同体の罪、穢れを自ら背負い、さすらいという生活を余儀なくされた彼等の生み出した神々の姿であった。 こうした伝承は、傀儡子が独自の神話体系を確立していたことを語っている。』

筑紫舞は二百数十曲伝えられていますが、舞の種類は大きく神舞(かんまい)・巫女舞(きねまい)といった神に捧げる神舞と、 くぐつ舞という祭礼の時に人々に見せる舞とに分けられます。くぐつ舞は全ての所作が「祓え」としての意味を持ち、体を極限まで駆使して舞うことによって全身で人々の穢れを引き受けました。

そして、その穢れは人知れずに舞う神舞(かんまい)で神様にお渡して祓ったのです。

筑紫舞は日本神道の神事である禊祓いを行う真性の神事芸能だったのです。

踊りは身体言語ともいうべき非言語コミュニケーションの手段です。

舞は言葉によって伝えられない情報を伝えることができました。巫女舞や神楽や傀儡舞は自然と一つになって平和に暮らしていた神話時代の神々の姿を今に伝えるものなのです。

身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。

古代は禊祓いの鎮魂儀礼をすることを「遊び」といいました。身体を依り代として神の言葉を託宣する巫女のことを遊女(あそびめ)といいました。その中に信仰の伝道師として各地を旅から旅へと歩き回る歩き巫女がいました。万葉集では遊行女婦(うかれめ)や傀儡女(くぐつめ)とも呼ばれています。

傀儡は男女の芸能集団のことで女性だけの芸能集団を遊女と呼んだようです。

万葉集で詠まれた遊行女婦(うかれめ)の遊行とは浮かれ騒ぐことではなく、諸国を歩いて芸能を演じる女性集団のことで売春を伴うことはありませんでした。

平安時代中期に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると芸能を生業としたのは遊女で夜を待ちて淫売をするのは夜発といいました。

遊女(あそびめ)は売春婦の意味になってしまいましたが、遊女(あそびめ)は旅をして神社や寺社で神事芸能を披露する教養のある女性たちのことで、平安の頃には天皇や貴族たちの席で即興で歌を詠んだり舞を舞ったりしていました。

後白河法皇は、遊女・傀儡女・ 白拍子などを御所に呼び寄せて今様(平安時代の歌)を吟じ、歌いすぎて喉を痛めるほど芸能好きでした。

ついには70歳を超える傀儡女・乙前(おとまえ)を歌の師と仰ぎ御所に住まわせています。乙前(おとまえ)がこの世を去ると後白河法皇は命日にいつも歌を謠って傀儡女を弔ったと伝えられています。

傀儡女たちの共同体は母系相続でした。

古代の母系社会は母から娘へ財産が受け継がれたので女性は経済的に自立していました。暮らしのために性を売る女性はいませんでした。結婚制度がなく男性は子供の養育義務がないので、男女が自由に別れることに経済的な抵抗がありませんでした。

そして、古代には相互に求愛の歌謡を掛け合う歌垣(うたがき)という男女が出会うことができる祭があったので、誰もが容易に異性を見つけることができました。万葉集で「歌垣の日は昔から神に許されている日なので他の誰と通じても咎められることはない」と歌われています。

好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた縄文時代は自由恋愛だったので売春がなかったのです。

春をひさぐ女性が増えてきたのは嫁取り婚が出てきた平安時代の中期ごろからです。母系から父系に変わり婿取婚から嫁取り婚になり男性が経済的な支配を強めると女性の経済的自立は弱まってきたのです。

一夫一妻制が定着して自由な男女間の関係性が失われると婚姻の外に性の捌け口を求める男性が現れました。暮らしのために性を売る女が増えてくるとやがて遊郭が現れて経済的に自立できない女性たちは大規模な売春組織に飲み込まれて行ったのです。

武士が台頭して男性原理が強くなった十三世紀後半から十四世紀を境として女性の社会的地位は劇的に低下しました。

天皇や貴族たちの宮廷行事で即興で歌を詠んだり舞を舞っていた傀儡女、遊女、白拍子たちは河口に位置する江口(えぐち)(大阪市)や神崎(かんざき)(兵庫県尼崎市)に根拠を置いて全国(主に西日本・関東)に遍歴のネットワークをもっていました。

古代は神事を司っていた女性ですが十三世紀後半に遊女の地位は聖なるものから転落してしまいます。

女性は罪深く「不浄」で穢れているという見方が強くなり聖地での女人禁制が現れたのです。

大和朝廷樹立以前の古代の女性は神の声を聞き、託宣を行なう女性リーダーでした。

神事芸能の祖はアメ(アマ)ノウズメ(天宇受賣命、天鈿女命)と言われています。

アメノウズメが天の窟戸の前 での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らし、鉾で槽を衝いて神懸りする所作は、 宮中祭祀の「鎮魂祭」で「猿女君(さるめのきみ)」に受け継がれました。

神楽では大地を踏む所作を反閇(へんばい)と言います。反閇は《翁》《三番叟》《道成寺》などの猿楽、相撲の四股、歌舞伎の六方に見られます。

反閇は邪気や悪霊を祓って土地を清める呪法という説明が一般的ですが、巫女は舞を舞うことでシャーマン意識状態に入り、そして、神がかりした時の跳躍が反閇となったのです。

閉じていた下のチャクラが解放されたときの状態が反閇になったのです。

旋回しながら舞をしていると大地から螺旋状にエネルギーが上昇して来ます。

そのエネルギーは恐怖を伴うことがありますが、恐れずに虚空に明け渡しをすることで、人は自我を超えた神となるのです。

鎮魂法で旋回運動を「まい」といい、跳躍運動が「をどり」で、その神事を「遊び」と言いました。

古代は神事を司っていた女性ですが十三世紀後半に遊女の地位は聖なるものから転落してしまいます。女性は罪深く「不浄」で穢れているという見方が強くなり聖地での女人禁制が現れたのです。

遊部 ( アソビベ )という鎮魂の神事を司る役職は女性の比自岐和気 ( ヒジキワケ )が代々受け持っていましたが、のちに、神事の役職は女性にはふさわしくないとされて、その家系の女性を娶った男性の円目王(つぶらめおう)が行なうようになりました。

婚姻が母系から父系に変わり祭司長が女性から男性に変わったのです。

律令制が輸入されると巫女は正式の官職ではなくなり、宮廷神祇官の男性神職の下にされてしまいました。

天の窟戸の前での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らした故事は鎮魂祭の「宇気槽(うけふね)の儀」として七世紀の天武朝で儀式化され、十世紀の平安中期に編纂された『延喜式』では神職の数や行事作法が細かく制定されて形式的になり、十五世紀半ばには宮廷の鎮魂祭儀は完全に廃れてしまいました。

女性シャーマンから男性の祭司へ、アメノウズメから猿女君へと引き継がれた神事芸能が女面をつけた男性による舞手になり、社寺や霊場、祭場などへ女人が禁制となって修行が男性主体となった事は女性原理から男性原理が優位になったことを意味しています。

古代は母系で家に父親がいなかったので女性がリーダーでした。

現代の女性首長は一割に満たない人数です。中世に転換した男女の条件つけは現代の大学の女性の合格率が低いように現代まで引きずっています。

世界経済フォーラムが発表した「2018年世界男女格差レポート」によると、調査対象の142カ国のうち、日本の順位は110位になっています。

「男性が優れていて女性が劣っている。あるいは女性が優れていて男性は劣っている」の性差は優劣ではなく違いです。

物事に優劣のランクをつけている自我は境界線という障害を作ってエネルギーの流れを阻害します。

自分と他者を切り離して見ている間は分離があるので葛藤がやむことがありません。

ランク付けは外から植え付けられたマインドの思い込みです。

それは平家物語の冒頭にある春の夜の夢のようなものです。

夢から目が覚めると風の前の塵のように滅びてしまいます。

神事芸能、鎮魂法や魂振りはタマとむすんで全体と一つになる古代の呪術行為のことでした。(清水友邦著『よみがえる女神』ナチュラル・スピリット刊より)