鎌倉・室町時代の府中
https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kyoiku/kyoiku/kankoubutsu/kyodohuchu.files/kyodohuchu2-3.pdf 【鎌倉・室町時代の府中】 より
⑴ 源頼朝と府中
12 世紀に入ると、武士の活躍はめざましく、保ほうげん元・平へい治じの乱をきっかけに源平二氏の争いは全国の武士をその中に巻き込んだ。
1180 年、 源みなもとの頼よりとも朝は全国に号令をかけ、鎌倉を目指した途中、府中に入ったと考えられる。武蔵国のあちらこちらから集まる武士たちの中で有力な者に「武士たちを統率せよ」と命令を下したりしている。このように頼朝は、多くの武士たちに守られて、相
さがみの模国くに入りし、鎌倉で新しい政治体制を確立することになった。
⑵ 鎌倉街道
府中には古い街道が各所に見られるが、中でも重要視されるのが鎌倉街道である。多く
の軍勢が進撃したことから、地元では「陣じん街かいどう道」とも呼んでいる。
鎌倉街道は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、中部・関東・東北など東国の武士団と
鎌倉を結ぶ道であった。
⑶ 分倍河原の合戦
元げんの襲しゅう来らいも終わってしばらくすると、鎌倉幕府を支える御家人たちが経済的に苦しくなり領地を失っていった。一方、朝廷の中でも倒幕の気運が高まっていた。
このような状況の中で、新にっ田た義よし貞さだは、1333 年 5 月 8 日、後ご醍だい醐ご天皇の要請を受け、越えち後ご・甲か い斐・信し な の濃及び関東各地の武士を集めて大軍となり鎌倉を目指した。
5 月 11 日午前 8 時頃から小こ手て指さしがはら原で、12 日早朝からは久く米め川がわで戦いが始まった。
幕府軍は大打撃を受け分倍河原まで退却。幕府は援軍を送り、15 日未明、今度は分倍河原で戦い、新田軍が打ち破られ、堀ほりかね兼(埼玉県狭山市)まで敗走した。
その際、武蔵国分寺を焼き払っていったと言われる。
ところが、15 日の夜、新田軍に相模国から三み浦うら義よし勝かつたちが援軍に駆けつけ、新田軍の士気は大いに上がった。(すでに幕府は自分のおひざ元の人々からもそむかれてしまったことを意味している。)
16 日未明、援軍を得た新田軍は、分倍河原で休息していた幕府軍に襲いかかった。一方前日の勝利で油断していた幕府軍は、この急な攻撃により、総崩れとなり、鎌倉へ敗走した。勝利した新田軍はその後、鎌倉を攻め、21 日ついに鎌倉幕府を滅亡させたのである。
このように分倍河原の戦いは、日本の歴史の中でも重要な意味をもつ戦いであった。鎌倉幕府が滅んだ後も、府中付近では、たびたび合戦が行われた。
⑷ 府中をめぐる武士団の争い
鎌倉幕府滅亡後、南北朝の動乱が14世紀まで続いた。この頃に府中付近を舞台として武士たちの大きな合戦があった。
1335年7月、北ほう条じょう高たか時ときの子、時とき行ゆきの軍が信し な の濃(長野県)から上こうづけ野(群馬県)、武蔵へ軍を進め、府中の分倍河原付近で足あしかが利直ただ義よしの軍を破り、鎌倉に向かった(中なか先せん代だいの乱)。1352年2月には、新にっ田た義よし貞さだの子、義よし興おき・義よし宗むねの軍が足利尊氏の軍と人ひとみがはら見原(府中市)、金かないがはら井原(小金井市)で戦った。この武蔵野を舞台とした戦いには、関東の武士が足利方と新田方に分かれて戦い、多くの人々の命が奪われた。
武蔵国の国府があった府中は、古代から重要な道路が集中していたので、このような歴史上に残る合戦がたびたび行われたのである。足利尊氏・直義兄弟は、戦いで亡くなった人々を弔うために全国に安あん国こく寺じを建てることを計画した。片町の高安寺はその一つと伝えられている。府中付近で行われた合戦では、ハケの上にある高安寺が地形の上で守備に適していたので、たびたび本ほんじん陣が置かれたと記録されている。
16世紀、戦国時代に相模(神奈川県)、武蔵など関東一円を手に入れたのは、小田原を本拠地とする戦国大名の小田原北条氏だった。高安寺には北条氏が寺の屋敷地にかける税を免除した朱しゅ印いん状じょうが二通残っている。
北ほう条じょう氏うじ照てるは滝山城・八王子城の城主だった。
⑸ 板いた碑びと庶しょみん民の信しんこう仰
矢崎町2丁目にある「三さ ん ぜ ん に ん づ か千人塚」の上に、阿あ み だ弥陀三さんぞん尊を刻んだ1256年(康こう元げん元年)銘の板いた碑びが建っている。1256年というのは多摩地方最古の板碑であり、日本最古の板碑が作られてからわずか20~30年後のものである。
板碑は死者を弔とむらうために建てられるのが一般的であるが、時代が下るに従って、月つき待まち
※1の行事など、民間信仰に伴って建てられたものも多くなっていった。板碑は、鎌倉から室町時代に盛んに建てられた中世特有の遺産である。 この板碑には、阿あ み だ弥陀如にょらい来を刻んだものが多く、当時仏教各派を超えて、阿弥陀信仰が盛んであったと思われる。市内にも鎌倉・室町時代の仏教信仰の広がりを示す文化財が残っている。
※1 月待ち 特定の月齢の日に小集団で行われた集まり。現世・来世の幸福を祈願。
金銅蓮華形馨 都指定文化財
市内妙光院に伝来した、読経台の側に吊って打つ楽器で、南北朝時代の作である。
宝徳の結衆板碑
民間信仰的な月待ちの行事に際して、村の人々が共同で造った板碑。庶民の宗教意識がうかがわれる。
阿弥陀如来立像 重文 複製
染屋不動に伝わる金銅仏。背銘から、 年(弘長元年)に造られたことがわかる。
金こんどうれん銅蓮華げ形がたけい馨 都指定文化財
市内妙光院に伝来した、読ど経きょう台の側に吊って打つ楽器で、南北朝時代の作である。
宝徳の結けっ衆しゅう板碑 民間信仰的な月待ち※1の行事に際して、村の人々が共同で造った板牌。庶民の宗教意識がうかがわれる。
阿弥陀如来立像 重文 複製
染屋不動に伝わる金銅仏。背銘から、1261年(弘長元年)に造られたことが分かる。
三千人塚(矢崎町2丁目)
⑹ 室町時代の銅銭の出土
1998 年(平成 10)に、府中市宮西町1 丁目から、室町時代ころに埋められた銅銭のぎっしり詰まった二つの大甕かめが出土した。銅銭の多くは中国から輸入されたものである。
当時の日本では、活発な経済活動が行われていて、広く銅銭が流通していた。
★いったい何枚入っていたの?
甕の重さは、小さい甕が 60,026 枚(275㎏)、大きい甕が 90,427 枚(410㎏)あった。
二つの甕の銅銭の合計は、約 15 万枚になる。
★全部でいくら?
当時の銅銭 1 枚(一文)を今のお金に換算しておよそ 75 円とすると、75 円× 150,000 枚= 11,250,000 円
★なぜ埋めたの?
銅銭が多量に出土した例は、全国で 200 件以上報告されているが、なぜ埋められたのかよく分かっていない。
少しずつ埋められたのではなく、一度に埋められ、550 年以上もの間、掘り出されることがなかったのは謎である。
★埋めたのはいつ?
それぞれの甕の中には、約 100 種類の銅銭が入っていた。最も古いものは古代中国の「貨泉」(14 年)、最も新しいのは李氏朝鮮の「朝鮮通宝」(1423 年)だった。
銅銭と甕の形などから、15 世紀に埋められたものと考えられる。