室町時代
https://www.homemate-research-junior-high-school.com/useful/20100_junio_study/1_history/muromachi/ 【室町時代】 より
南北朝と室町幕府
鎌倉幕府がほろぶと、後醍醐天皇による天皇中心の新しい政治が始まりました。これを建武の新政と言い、武家の政治から公家(くげ)の政治へと転換しました。しかし武士たちがこれに反対し、足利尊氏(あしかがたかうじ)が離反(りはん)して兵を挙げたため、新政は2年程で崩壊(ほうかい)しました。戦いに敗れた後醍醐天皇は吉野に逃げ、尊氏は京都に新たな天皇を立てたため、2つの朝廷ができました。京都を北朝、吉野を南朝と呼んで、争いがくり返されたこの時代を南北朝時代と呼びます。
尊氏は北朝から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いて全国の武士をまとめようとしました。尊氏の孫に当たる第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)のころになると、世の中が落ち着き、1392年に南北朝が統一されました。幕府は朝廷に代わって権力を持つようになり、将軍の補佐役として管領(かんれい)を置き、京都を支配しました。地方では守護が国司の権限を持ち、武士をまとめて国を支配するようになったため、守護大名と呼ばれました。
大陸の動き
14世紀の東アジアでは、元に代わって明が中国を支配し、モンゴル民族を北部へ追いやりました。日本は元の時代から経済的な交流を持っていましたが、明とも貿易を続け、経済や文化に大きな影響を与えました。このころに船を襲ったり、無理な貿易をさせたりする倭寇(わこう)が現れました。義満は倭寇を取り締まるために、貿易の正式な証明書となる勘合(かんごう)を貿易船に持たせ、勘合貿易を始めました。
朝鮮半島では、14世紀末に李成柱(りせいけい)が、高麗をほろぼして朝鮮国をつくり、ハングル文字の開発など独自の文化が発展しました。
琉球と蝦夷地
琉球(沖縄県)では、城(グスク)を本拠地に、按司(あじ)と呼ばれる豪族が勢力争いをしていましたが、14世紀になると北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の3勢力にまとまりました。15世紀には、中山の王である尚氏(しょうし)が北山と南山をほろぼして沖縄を統一し、琉球王国を建設しました。一方、蝦夷地(えぞち=北海道)では、アイヌ民族が生活しており、14世紀に津軽国と交流するようになりました。15世紀なると本州から蝦夷地南部に進出する人も増え、交易がさかんになりました。
室町時代の産業と経済
南北朝の争いがおさまると、社会も安定し、農業や工業が各地でさかんになりました。農業では二毛作が広がり、桑や茶などの栽培が広く行なわれました。工業では陶器や絹織物、鍛冶(かじ)、鋳物(いもの)などの技術が発達し、各地で特産物が生産されました。商業では、定期市が各地で開かれ、経済が活性化しました。商人たちは同業者ごとに座(ざ)を結成し、武士や貴族にお金をおさめて営業を独占する権利を持つようになりました。農村では、惣(そう)をつくり、農地の管理をしたり、おきてをつくったりしました。
北山文化・東山文化
文化では、大陸の影響を受けて新しい独特の文化が生まれました。茶の栽培が広まったことから、茶の湯が流行したのをはじめ、猿楽(さるがく)や田楽(でんがく)を観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)の親子が能として大成させました。義満が京都の北山に建てた金閣は、公家文化と武家文化が混ざり合ったもので、「北山文化」と呼ばれ、室町時代の代表となっています。15世紀後半には、こうした豪華さとは対照的に、簡素で上品さを取り入れた文化が流行しました。第8代将軍足利義政が建てた銀閣は、書院造(しょいんづくり)を取り入れた質素なもので、「東山文化」と呼ばれています。絵画では水墨画が流行し、民衆の間では狂言が話題になりました。
キーワード
建武の新政
武家政治から天皇中心の公家の政治へと転換(てんかん)をはかるための政治体制。武士より反感を持たれ2年で崩壊した。
南北朝
足利尊氏に敗れた後醍醐天皇が吉野で朝廷を維持し、尊氏が京都に新しい天皇を立てたため2つの朝廷が成立した。京都は北朝、吉野は南朝と呼ばれた。
勘合貿易
足利義満が明の要請(ようせい)で始めた貿易。倭寇を禁止するために、交易を認めた船に勘合という証明書を持たせた。
琉球王国
15世紀に尚氏が沖縄を統一して建国した王国。
惣
村ごとにつくられた自治を中心とした共同組織。
書院造
寺院の部屋の様式を、武家の住居に取り入れた建築。
水墨画
宋や元で流行していた画風で、墨一色で自然や風景を表現した絵画。雪舟などが有名。
狂言
能の合間に民衆の生活などを表した小芝居(こしばい)。
この時代の登場人物
後醍醐天皇
鎌倉幕府をたおして建武の新政を行なった天皇。その後足利尊氏の離反によって吉野に逃げ、南朝の政権を樹立した。
足利尊氏
鎌倉幕府をたおしたあと、後醍醐天皇を吉野へ追いやり、京都に新天皇を立てて南北朝のきっかけをつくった。北朝より征夷大将軍に任命され、室町幕府を開く。
足利義満
南北朝の争乱をしずめて統一をはかった室町幕府の第3代将軍。京都・鹿苑寺(ろくおんじ)に金閣を建設し、勘合貿易を始めた。
足利義政
室町幕府の第8代将軍で、京都・慈照寺に銀閣を建てた。
観阿弥・世阿弥
猿楽や田楽を、能として芸能に大成した親子。
戦国時代
15世紀中ごろに、守護大名の権力争いがおこりました。その後、足利義政の後継ぎ問題で、有力な守護大名の細川氏と山名氏が対立して、応仁の乱(おうにんのらん)に発展しました。争いは京都だけにとどまらず地方にも影響を与えました。京都南部の山城では、武士と農民が守護大名を追い払う山城国一揆(いっき)がおこり、一向宗(いっこうしゅう)により結びついた武士と農民は一向一揆をおこしました。
やがて将軍の力もおとろえ、天皇や貴族も領地を武士にうばわれるなど、「下克上」が広がっていきました。力を持った守護大名は戦国大名として、城下町をつくったり、分国法を制定したり、産業をさかんにしたりして国の実権をにぎるようになりました。応仁の乱以降の不安定な時代を、戦国時代と言います。
応仁の乱
将軍のあとつぎ問題から、有力な守護大名の細川氏と山名氏が対立し、京都を舞台(ぶたい)に1467年から始まって11年間続いた戦乱。
一揆
農民や武士などが団結して、守護大名や有力者に反抗(はんこう)した活動。
下克上
実力のある者が、武力などで上の身分に立つこと。
分国法
地方で大きな勢力を持った戦国大名が、国を統治(とうち)するために定めた独自の法律。
安土桃山時代
鉄砲とキリスト教の伝来
1543年に鹿児島県の種子島に鉄砲が伝わりました。鉄砲は多くの戦国大名の注目を集め、刀鍛冶(かたなかじ)の職人によって国内でもつくられるようなり、全国へと普及(ふきゅう)しました。
1549年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、キリスト教の布教のために日本に来ました。九州の戦国大名の中には、キリスト教徒になる者もあり、キリシタン大名とも言われました。
その後ポルトガルの多くの商人たちが、貿易のために日本へ来るようになり、平戸や長崎は貿易をする人たちでにぎわいました。生糸や絹織物、毛織物、ガラス工芸品などを持ち込み、日本は銀を輸出しました。ポルトガルやスペインの人たちは南蛮人(なんばんじん)と呼んでいたので、これらの交易を南蛮貿易と言います。
織田信長の台頭
各地の戦国大名は、争いをくり返して領土を広げようとしました。尾張(愛知県)の織田信長(おだのぶなが)は、桶狭間(おけはざま)で今川義元(いまがわよしもと)を破り、将軍・足利義昭を支えて都にのぼりました。実権をにぎった信長は、1573年に足利義昭を京都から追放して、室町幕府は滅亡しました。勢力を広げた信長は、長篠の戦いで鉄砲を使って武田勝頼(たけだかつより)を破り、滋賀県に安土城(あづちじょう)を築きました。
城下町には楽市・楽座(らくいち・らくざ)をつくり、座や関所を廃止(はいし)して、商工業の発展を図りました。一方で、信長に従わない寺院や民衆には、武力で服従させました。
しかし1582年、信長は京都の本能寺で、家臣(かしん)の明智光秀(あけちみつひで)におそわれ(本能寺の変)、自害しました。
秀吉の政治
信長の家臣だった羽柴秀吉(はしばひでよし)は、光秀をたおして、信長の後継者(こうけいしゃ)となり、大坂城を築きました。秀吉は姓を「豊臣」に変え、朝廷から関白の位を授かると、各地の大名を服従させ、天下を統一しました。
天下を取った秀吉は、信長が奨励(しょうれい)していたキリスト教を、侵略活動と思い込み、バテレン追放令を出してキリスト教の宣教師たちを国外に追放しました。
また、太閤検地(たいこうけんち)として、全国の田畑を調べて収穫量を、全国統一の石高(こくだか)で表し、一揆を防ぐために農民や寺院から武器を取り上げる刀狩り(かたながり)を命じました。
秀吉の領地にいた武士は、大名の城下町に集められ、武士と農民の身分を区別した兵農分離(へいのうぶんり)を進めました。
1592年と1597年に、秀吉は明を征服(せいふく)しようと、大軍を朝鮮に出兵しました。しかし、いずれも失敗に終わり、1598年に秀吉が死んだのを機に、全軍が引き上げました。
桃山文化
信長、秀吉の時代は、海外から多くの文化が入り、権力を持った大名たちは豪華(ごうか)な生活を送りました。安土城や大坂城のふすまや屏風(びょうぶ)には、狩野永徳(かのうえいとく)らのきらびやかな絵が描かれました。また茶の湯は、諸大名の間で流行し、秀吉に仕えた千利休(せんのりきゅう)は、作法や考え方を大成させました。また、南蛮貿易によりカステラや時計など、洋服もなどヨーロッパ文化が次々に入り、南蛮文化として芸術や生活、風俗などにも変化が現れました。
キーワード
鉄砲
1543年にポルトガルから伝わった。火縄銃(ひなわじゅう)は遠くの敵をたおすなど戦いに効果的で、信長が武田勝頼を破った長篠の戦いなどがで使われた。
楽市・楽座
織田信長が経済を発展させるために、城下町で独占権(どくせんけん)を持つ商工業者を排除(はいじょ)して、自由な取引市場をつくった。
太閤検地
全国の田畑の面積や土地の豊かさなどを調べて、農産物の予想される収穫量を石高で表した。これにより全国の土地の統一的な基準がつくられた。
刀狩り
農民や寺院から刀や弓などを取り上げ、一揆など農民や寺院の武力による活動や反抗を防ぐとともに、耕作など自分の仕事に専念させた。
バテレン追放令
長崎がイエズス会から寄進されていることを知った秀吉が、キリスト教を通じてポルトガルやスペインが侵略に動いていると思い、布教活動を行なう宣教師を国外に追放した。
朝鮮出兵
最初の出兵は、1592年に15万人の大軍を朝鮮半島に送ったが、明の軍と朝鮮の義兵によって失敗した(文禄の役〈ぶんろくのえき〉)。1597年に2度目の兵を出したが、苦戦していた中で、翌1598年に秀吉が病死したのを機に、全軍が引き上げた(慶長の役〈けいほうのえき〉)。
この時代の登場人物
フランシスコ・ザビエル
イエズス会の宣教師で、日本にキリスト教を伝えた。
織田信長
尾張の戦国大名で、今川義元や武田勝頼を破って、「天下布武」をかかげて全国を統一しようとした。楽市・楽座を開いたり、安土城を築いたが、本能寺の変で自害した。
今川義元
駿河や遠江(とおとうみ)を支配した戦国大名。桶狭間の戦いで織田信長に敗れた。
明智光秀
織田信長の家臣だったが、信長に対して反逆し、本能寺で信長を自害に追い込んだ。本能寺の変ののち、羽柴秀吉に討たれた。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)
織田信長の家臣として業績を上げ、信長が亡くなったあと、天下を統一した。大坂城を築き、検知と刀狩り、兵農分離などを行なった。
狩野永徳
狩野派の代表的な絵師で、「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」「檜図(ひのきず)」などを残している。
千利休
茶室や作法を創案して、茶の湯を茶道にまで完成させた茶人。