詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る ①
http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51563508.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(7)】より
IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>
詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語るの第7回より、コスモス忌の集いの会報『「コスモス倶楽部」N-ro26』に記録された講演録より、以下に抜粋編集したものをを紹介する。
原満三寿「金子兜太の戦争ー運動体から存在体へ」
本日は、俳人金子兜太さんが今年二月二十日に、九十八歳で他界しました。そこで、兜太さんの戦争体験とその後の軌跡を兜太さんの俳句に添いながらご一緒にみていただければと思います。話の順序は、まず「金子兜太ブームについて」触れ、ついで兜太さんと「私との関係について」述べ、それから本題に入っていきたいと考えております。
ーー金子兜太ブームについてーー
金子兜太さんの生涯は、俳人としてまれにみる輝かしい存在でした。さらに晩年は、「アペ政治を許さない」のボスタrの揮篭者として、戦争反対の先頭にたって活躍し、その豪放嘉落な性格から一般人にも慕われ、金子兜太ブームが興ります。ーー各地の句碑の写真でもその人気の 端を窺うことができます。旬碑は正確な数はわかりませんが、八十基くらいはあるのではないでしょうか。句碑は全国に何千とあり、兜太さんより句碑が多い俳人も数人はおるでしょうが、存命中にこれだけの句碑をもったのは、兜太さんが一番のように思われます。
いずれも豪快な句碑ばかりです。故郷の秩父には十二基の句碑があり,「兜太句碑巡り」なんていう観光コースもあります.。
basyou sora<芭蕉と曽良像。新庄市ホームページから>
また、芭蕉で有名な最上川には、景勝地の八向神社の側に川を背にした兜太夫妻の句碑が立ち.近くの芭蕉の渡舟場には、芭蕉・曾良の像があり、そこまでのわずかな通りを、兜太さまがお通うになった記念の「兜太通り」というネーミングがついたものもあろほどです。芭蕉もびつくりでしょう。生前の人気は、その俳句や生き様を著した多くの本に紹介されていますが、その死とその後の賑わいを紹介します。
(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51563888.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(8)】より
.まず、金子兜太の死は、「朝日新聞」、「東京・中日新聞」をはじめ各紙、ほぼすべての俳句誌がそれを報じ、特集を組みました。
三月二日には,フランスの日刊紙「ルモンド」が、五千文字、カラー写真入りの追悼記事を掲載しました。
そしてその死後からのブームを紹介します。
二月、兜太さんの揮毫による「俳句弾圧不忘の碑」が長野県上田市の戦没学生慰霊美術館「無言館」近く「槐多庵」の敷地に建立されましたが、序幕式の五日前に兜太さんの急逝にあいました。
. 八月I十二日には、八〇〇人が参加した「お別れの会」(有楽町朝日ホール)がありました。
回覧の一頁の『あの夏.兵士だった私』(アマゾン青眼訳)が仏語版で出版されました。
兜太を語りTQTAと生きるという趣旨をかかげた雑誌「兜太TOTA」が創刊され、兜太の句碑数十基をおさめた写真集「金子兜太産土秩父の足跡』が出版されました。
来年(二〇一九)二月から半年ごとに、六十年分の日記「金子兜太戦観俳旬日記』(全三巻、白水社刊行予定)が出版されます。
以上が主に死後の兜太ブームの様子です。ついで兜太さんと私の関係を述べさせていただきます。これより敬称はぬきにして.すぺて兜太ですすめます。
ーー私との関係についてーー
私が兜太とはじめて逢ったのは、兜太五十九歳、私三十六歳の時です。兜太が中心でやっていた俳句の同人雑誌「海程」への入会にはじまります。
「海程」は、兜太が四十三歳の時.創刊同人三十名ほどで船出します。兜太には結社の主宰性に疑問があって同人誌としたのです。
私が入会した頃にはすでに兜太の名前は前衛俳句の旗手として俳界に轟いていましたから、それまでの俳句にあきたらない俳人たらが全国からぞくぞくとあつまり、前衛俳句作家の梁山泊の感を呈しておりました。ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51564209.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(11)】 より
まず「兜太の戦争体験について」を兜太の戦争俳句に則しながら話し、次いで「運動体の兜太」を.最後に「存在者・兜太について」の順序で話してゆきます。
【兜太の戦争体験について】
これから私は「戦争俳句」という言葉を使いますが、反戦・非戦俳句、戦意昂揚俳句などをひっくるめて、広く戦争にかかわる俳句を言います。
兜太の父親は医師で、かつ伊昔紅という俳号をもつ秩父の有力俳人でした。ですから家はいつも俳人たちの喧騒の場であったようです。それを見ていた母親は兜太に俳人にだけはなるな、と日ごろ言っていたようですが、門前の小僧の兜太には早くから俳旬の薗が感染していたようなのです。
水戸高校で、先輩に俳句を勧められ、「白梅や老子無心の旅に住む」などという老成した句をつくります。以来、兜太は俳句から離れられない生涯を送ることになります。
一九四一年、東大の経済学部を繰り上げ卒業し.日銀へ入行しますが、三日いただけで海軍経理学校に短期現役士官として入校し、海軍主計中尉に任官します。大卒のままだと一般兵士として動員されるので、将校の肩書きが欲しかったのでしょう。そして本人の希望もあって、超危険といわれていた赤道に近いトラック島・夏島の第四海軍施設部に赴任します。
トラック島は現在のミクロネシア連邦チュ:ク州の州都だそうで、その地勢は、回覧の1頁目をご覧ください。
サイパン、グアムの南、ニューギニアの北に位置します。島は七曜諸島と四季諸島からなる環礁で、兜太は四季諸島の夏島、春島と関わります。「四季諸島」とか「夏島・春島」などと,辞句めいたのんびりした名前ですが、地獄の一丁目だったのです。
ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51564775.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(15)】 より
「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」.を見てみましょう。
この句は、兜太自身が自分の代表旬だとしてとりわけ大事にしてきた句です。捕虜生活}年三カ月を終えてトラック島から帰国する最後の復員船での作です。
南の島にあこがれてやってきた程度の人たちが、戦争よりは飢餓との戦いの中で死んでいった、その「非業の死者」たちが哀れでならない。トラック島では八千人を超える戦死者が出、彼らのために墓碑をこしらえた。その墓碑を置き去りにして帰還することへの漸梶と鎮魂の思いで墓碑に向かつて船の上から合掌をすろ。航跡が別れのテープのように白い水脈を曳いて行く、そんな兜太の哀切が伝わる句です。
ここで注意したいのは、「墓碑.を置きて」のくだりです。
兜太は『、あの夏,兵士だつた私』の中で、「彼らのために墓碑銘を建てました」と書いていますから、素直に詠むと、海に向かって建つ墓碑が自に浮かびますが、事実は違うようなのです。墓碑は立ってはいなかったのです。墓碑は刻んで実在はしていたのですが、まだ立てられてはなく、放置されたままだったらしいのです。
墓碑は、日本人を憎んだ島の酋長が立てずにほったらかしていたらしく、いまでも藪に捨てられたままのようです。そう兜太自身があるインタビューで語っています。
ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51564942.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(18)】より
日銀時代の初期の句で私が目に留めたのは,掲出の「原爆の街……」など四句です.
・広島にて二句より
原爆の街停電の林檎つかむ
墓地は焼夷弾蝉肉片のごと樹樹に
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
犬一猫二われら三人被爆せず
どれも原爆への憎しみと怒り、すく.伝えている旬です。悲滲さを生生しく分かりやすく伝えている句です。
兜太を支えた三番目の「俳壇の保守返り」とは、次のようなことであったかと思います。
兜太はなんせ暇なんですから.地方の赴任地で、古色蒼然とした本店旧館の奥で,新しい俳句と論を書き上げてゆきます。そして神戸時代には、俳句専念をこれからの人生と決めたといいます.
俳句の伝統派の句集を見ますと、飯田蛇笏をはじめ多くの「俳人たちからは今度の戦争がほとんどすっぽり抜け落ちています。まるで戦争なんか日本には無かったみたいにです。
兜太は、「古池の(わび)よりダムのく感動>へ」というスローガンを掲げ、伝統俳句の花鳥諷詠の美意識を否定し,造型俳句といわ九る斬新な俳句世界を開拓してゆきます。
造型俳句とは、ごくごく簡単に言えば、「〈創る自分)を活動させて、暗愉たり得る映像(イメージ)を形象すること」と兜太は言います。兜太の斬新な捷唱に各地の作家たちが呼応します。それらはひっくるめて前衛俳句とよばれることになります。
それにしても兜太を支えた三つとも兜太の一種のルサンチマン(恨み)から来ているようじゃありませんか。
兜太の日銀の神戸時代の戦争俳句を見て見ましょう。
朝はじまる海へ突込む鴎の死 『金子兜太句集』
この句は、神戸港の埠頭で鴎が餌を捕るために海に突っ込むのを見てできた。その姿がトラック島で零戦が撃墜されて海に突っ込む景を想起させた。鷗は生きるために海に突っ込むのであるなら、自分は、死をかけた特攻兵ではなく、〈生きる搭乗者>でありたい。〈死んで生きる>でありたい、と。
そんな思いを噛みしめた句だと兜太は言います。伝統俳句では決して実現しない旬です。
また、「銀行員ら朝よら蛍光す鳥賊のごとく」の句のように.俳壇を驚かせた斬新な職場俳句もこの頃の句です。
そして長崎時代には、兜太にとつてというよりは、戦争俳句の記念碑的俳句が誕生します。
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』
まず兜太の自句解説は.
「神戸から長綺に移って三年いた。被爆から十三年経っていたが、爆心部の山里地区一帯はいまだに黒焦げの感じで、天主堂は被爆時のまま崩壊してそこにあった。黒焦げの大地に人は逞しく暮らしをばじめてはいたのだが、痛ましかった.、私のなかに映像が動き出す。それは周辺の峠を越えてマラソンの一団が走って来たのだが、爆心部に入ったとたん、たちまち躯が歪み、焼けただれて、崩れてしまった。そういう映像。その映像を追いながら辞書を,なんとなく繰っていたとき、((彎曲〉の語に出会い、この映像がことばになった次第。」
ーーー(原満三寿氏2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)