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きょうの潮流

2018.04.19 03:53

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-09-27/2014092701_06_0.html 【きょうの潮流】より

 世界最大規模といわれる旅行の見本市が東京ビッグサイトで開かれています。47都道府県すべてのブースが並んで日本の魅力を売り込み、国内外からの観光客を誘おうというものです

▼行楽の秋。日常とはちがう景色をもとめて旅立つ人も多いでしょう。詩人の正津勉(べん)さんは「旅とは空間の移動だけではない。時間の往還でもある」と論じています。歴史や人生をたどりながら、時を行き来することもまた旅人か

▼「定住漂泊」の俳人、金子兜太(とうた)さんは訪れていない所がほとんどないほど列島の各地をめぐってきました。北海道から沖縄まで、句作の旅のくり返し。このほど全国津々浦々で詠んだ句をまとめた『日本行脚俳句旅』を刊行しました

▼妻と連れ立った北の大地では〈アイヌ秘話花野湖水の藻となるや〉。転勤で福島に滞在した当時をしのんで〈人体冷えて東北白い花盛り〉。南島から最後の引き揚げ船で復員し、俳句の社会性を追い求めた東京では〈地下鉄出る髪ずぶ濡れのデモに向い〉

▼金子さんは本紙で語っています。無謀な戦争の体験者として、無残に死んでいった人たちに代わって伝えたい、と。〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉(広島)、〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉(長崎)

▼日常すべてを旅する95歳の俳人は「定住しつつ、漂泊しているのが人間の、今の生きている姿なり」といいます。〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉。そこには、時や場に安住せず、つねに時代の変化を感じ取る気構えがあります。


http://kuuon.web.fc2.com/TOTA/TOTA.273.html 【海とどまりわれら流れてゆきしかな】 より

 とても好きな句である。平明な言葉がゆったりとしたリズムで連なり、マントラのように口ずさんでいると、とても気分が良い。そして深い意味がだんだんと掘り起こされて来る。

 私はこの『早春展墓』で一句を挙げるとしたら、この句を挙げたい。「骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ」や、あとから取り上げる「光の中に腕組むは美童くる予感」においては、とても研ぎ澄まされて高みに飛翔したような感覚の冴えがあり、しかも美しい映像を伴っているので、こちらの方をこの句集の代表作に挙げたい人もいるだろう。だからこれはもう好みの問題なのだが、私はこの句を挙げたいのである。あえて言えば、好みの問題だけとは言えないものもある。たとえば兜太は、その生きる姿勢として「定住漂泊」ということを言うが、私はこの句を読んで「定住漂泊」というのはこのようなことなのではないか、という実感を得るからなのである。つまり、この句には兜太の生きる姿勢が表現されているのではないかと思う節もあるのである。そういうことになれば、この句は『早春展墓』の代表作というに留まらずに兜太全句の代表作の一つとさえ言える。

 そして更に付け加えさせてもらえば、これだけ平明でしかも深く広い真理を譬えとして含んでいる句は歴史的にみても、とびきり第一級の名句であるとさえ言える。

 確かに漂泊感があるのだが、放浪感ではない。たとえば「無神の旅あかつき岬をマッチで燃し」に代表されるような個我の旅ではない、ということである。「無心の旅・・・」では胸のあたりがツンとするような自我のせつなさのようなものが感じられるのであるが、この句においてはもっと大きな流れに身を任せた“大安心”を伴った漂泊感のようなものが表現されている。

 「人生は旅である」、これは紛れもない事実である。しかしこの言葉は往々にしてセンチメタルな無常観を伴って使われる事が多い。そして「漂泊」という言葉も右へならえでセンチな感じで使われる言葉である。たとえば「漂泊の人生」などと言うと、どこか不安定で儚い感じを伴う。私は兜太の「定住漂泊」という事を、このような目で見たくはない。“大安心”の流れに乗った感じ、そう見たいのである。この句がそのことを証明していないだろうか。

 「海とどまりわれら流れてゆきしかな」の「し」を私は単純に強めの言葉と取っている。私より古典文法に詳しい息子に聞くと、そのような使い方はないという。これは過去を表わす助動詞「き」の連体形である、という。調べてみると文法的には確かにそうなのである。つまり「海はとどまりわれらは流れていったのだなあ」という意味になる。私の最初の感じ方では「海はとどまりわれらは流れていくのだなあ」という意味になる。そして私は自分の感じ方をあえて曲げないことにした。詩は文法をはみ出す事があるということで了解したい。これはたとえ作者の意図と私の解釈が違っていたとしてもかまわないとさえ思っている。それならはじめから「海とどまりわれら流れてゆくかな」とすればどうか、やはりこれではつまらないのである。

 「し」を過去を表わす「き」の連体形ととると、句が理屈っぽくなり、句柄が小さくなってしまう。一方私の解釈で読んでいると、雄大でスケールの大きな句となる。

 「海はとどまり」そして「われらは流れてゆく」のであれば、普通に考えればそこに分離感があるのだが、この句にはそれがない。「われらは流れてゆくけれどもやがては帰ってくる」という感じがするのである。この句では海が主体であり、われらはわき役であるという感じがする。海はいつでもここに在る。われらはかつて流れていった、そしてこれからも流れてゆくだろう。しかし海はいつでもここに在り、われらは必ずやここに帰ってくるだろう、という感じがするのである。海は絶対の異名であり、われらは相対の異名である。