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物言えば唇寒し秋の風 分かるようで分からない意味の変遷

2018.04.20 03:46

https://yaruzou.net/post-1504 【物言えば唇寒し秋の風 分かるようで分からない意味の変遷】 より

物いへば 唇寒し 穐の風(ものいえば くちびりさむし あきのかぜ)

ぼくが初めてこの句を知ったのは、手塚治の『アドルフに告ぐ』を読んだ時でした。

『アドルフに告ぐ』の戦前パートで、小学校の先生に下手なことを口にしないよう注意されたパン屋のアドルフが「『もの言えば唇寒し』言うから余計なことは言わへんよ」と返していました。思想を取り締まる特高警察がうろうろしている時代、下手なことは言えません。

だから戦前の言いたいことが言えない時代、下手なことを口にすると唇が寒くなる=いいことがない=口は災いの元と解釈していました。

事実、戦前はわりと一般的に使われており、めんどくさい時世を表していたようで、この理解は間違ってはいませんでした。

ただ、長じて芭蕉の句だと知った時、この使い方に違和感が生じました。

「物言えば 唇寒し 秋の風」を素直に受け取れば、「(ものを言おうと)口を開くと、秋風で唇で寒さを感じるくらい秋が深まってきたな」となります。

体のほんの一部から感じ取った季節が描写されています。俳句には疎いですが、それでも俳句ならではの写実性が出ていると思います。

寒冷地で厳しい寒さに遭遇していたら、鼻水が凍ることを詠んだかもしれません。

「物いへば~」は芭蕉没後に弟子の中村史邦によって編纂された『芭蕉庵小文庫』に収められています。中村文邦は「春庵」の名をもつ医師で、俳句では芭蕉に師事していた人です。

この句が警句じみたものになった理由を調べてみると、中村史邦が句の前書きとして「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」という文言を付けていたのが原因のようです。

参考 物いへば唇寒し穐の風

「人の短所をあげつらうな、自分のいいところを吹聴するな」というのはもっともなことですが、それを「俳句」で表現する意味があるか、という疑問も生じます。

ただ、この前置きの影響で「道徳上好ましくないことを言う」と唇が寒くなる⇒身体が寒くなるといった流れができたようです。

大辞林でも同じ説明になっています。

〔芭蕉の句。人の短所を言ったあとは寒々とした気持ちに襲われる,の意〕

転じて,うっかりものを言うと,それが原因となって災いを招く。口は災いのもと。

前書きによって「寒々とした気持ちになる」という解釈までは理解できます。

しかしなぜそれが災いに転じるのかがさっぱり分からない。自分の気持ちと外部的な災いに因果関係はありませんよね。

警句的な受け取り方に疑問を持つ人はいても、こころの状態が外部的な禍に転じたことには違和感を持っている人は見たことはないんですよね。疑問を持った人はいないのかなあ。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/monoyu.htm 【物いへば唇寒し穐の風】より

芭蕉db

    座右之銘

   人の短をいふ事なかれ

   己が長をとく事なかれ

物いへば唇寒し穐の風

(芭蕉庵小文庫)

(ものいえば くちびるさむし あきのかぜ)

 貞亨元年から元禄年間ではあるが作句年詳細が不明。『蕉翁句集』では元禄4年とする。なお、この時期の制作年次不明のものとして、58句がある。

物いへば唇寒し穐の風

 「人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ」で他人に口角泡を飛ばして非をなじったり、自分の優れたことなどしゃべらない、ということを座右の銘としたい、というのである。芭蕉が、そういうことをしたことがあったのだろうか?

 古来、「何かいうと他人から非難される。クワバラクワバラ」と間違った解釈がなされている。「黙っているにかぎる」というのだが違う。下記「Q&A」参照。

東京足立区千住神社境内の句碑(牛久市森田武さん提供)

Q&A

  はじめまして。突然のメールで失礼致します。こちらは○○市立中央図書館・レファレンス担当と申します。

 現在、当館の利用者依頼による参考調査で、芭蕉の『物いへば 唇寒し 穐の風』の解釈について調べております。色々文献を見たものの、こちらに読み取るだけの力量がないのと、調査事項に関する記載が少ないのとで煮詰まっている状態です。 そのため、勝手なお願いで大変恐縮なのですが、伊藤さんのお力をお借りできればと思い、メールさせていただきました。

 ご存知の通り、『物いへば 唇寒し 穐の風』は、大概の文献では訓戒の句として解釈されています。ところが、この句の解釈の調査を依頼した当館の利用者は、伊藤さんがおっしゃるように、訓戒の句と解釈するのは誤りであると考えています。そこで、裏づけとして、何らかの文献を求められ、探している次第です。

 伊藤さんが、なぜ『物いへば 唇寒し 穐の風』を訓戒の句とするのが適当ではないと判断されたのか、あるいは訓戒の句ではないと解釈されたのか、具体的な根拠がありましたら、ご教授ください。また、訓戒ではない解釈が載った文献等がございましたら、合わせてお知らせください。

 誠に勝手なお願いで申し訳ありません。何卒よろしくお願い致します。

 句の解釈のことで私見を述べます。

① 芭蕉の約890句の中に、教訓を述べた句というのは皆無といっていいと思います。つまり、芭蕉は荘子に心酔してはいましたが、あまり道学者では無かったように思います。

② この句が、教訓の句とされる理由は、一にかかって、前詞「座右之銘 人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ 」に起因しています。これは、『芭蕉庵小文庫』において追加されたもので、同書は元禄9年に上梓されています。したがって、編者史邦の私見が加えられたものと思います。特に時代背景として、綱吉の論語好きも影響があって、教訓色を好んだのも原因かもしれません。

③ しかし、真蹟懐紙には、「ものいはでただ花を見る友もがな」といふは、何某鶴亀<なにがしかくき>が句なり。わが草庵の座右に書き付けけることを思ひ出でて」と前書きしています。これの真贋を一応信ずるとすれば、「草庵の座右に」するという行為はたしかに教訓めいた感も否定できません。それでも、句の初案は急に寒くなった晩秋の朝、実際に口を開いたら寒かったのではないでしょうか。そして、そこから鶴亀の句が想起されて、前詞をつけたから、たちまちにして教訓化してしまい、その後の編者は全てそれを踏襲、今では道徳先生の講和の中にしばしば入れ込まれますから、すっかり道徳的名句?となってしまったのだと、私は解釈しています。

④ これに近い解釈は、加藤楸邨『芭蕉全句』(筑摩書房)がありますのでご参考になさってください。


http://weeklyregister.blog3.fc2.com/blog-entry-45.html 【物云へば 唇寒し 秋の風】より

物云へば 唇寒し 秋の風    芭蕉

前に新聞を読んでいて、「物言えば唇寒しの状況」という表現につまづいたことがあった。意味を調べるためにググったわけだが検索結果が実に興味深かった。

「物言えば唇寒し」をことわざとして捉えた場合、その意味は「場を支配している論理や規範に反した物言いをして、周囲から冷たい視線で睨まれ萎縮している有り様」ということらしい。短く言うと「暗黙の言論統制の様子」、「出る杭は打たれる」か。

が、サイトによってはこれとは全く違う意味を紹介していた。大辞林でも「《芭蕉の句から》人の短所を言ったあとは、後味が悪く、寂しい気持ちがする。転じて、何事につけても余計なことを言うと、災いを招くということ。」としている。どうやら「長所短所をとやかく言うな」という教訓的な意味を取っているようだ。そしてこれは、芭蕉のこの句の前書きに「座右の銘、人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ」と書かれていたことが大きく影響しているらしい。

しかし「唇寒し」でググって出てきた数々のテキストをつまみ読みした限りでは、前者(言論統制)の用法のほうが明らかに多い。知らない人に2つの意味を並べて見せたとしたら前者を選ぶ人のほうが多いのではないだろうかと思う。意味が「転じて」いるわけだ。

しかし話はこれで終わらなかった。

そもそも「唇寒し」でググって先頭に出てくるサイトでの説明がこうだ。

芭蕉DB「物いへば唇寒し穐の風」

「人の短をいふ事なかれ・・・」の前詞は後になって編者が追加したものである可能性があり、芭蕉自身は単純に晩秋の朝に口を開いたら寒かったのをそのまま詠んだのではないか、というのである。

私にこのことを確信させたのは以下のサイトだった。

進級式俳句「5つの違反」

ここでは芭蕉のこの句が「思い込み違反」の例として挙げられ、さらにこのように叩かれているのである。

例1: 物云へば唇寒し秋の風 芭蕉

「物云へば唇寒し」は作者の勝手な考え。人口に膾炙されている句ではあっても思い込み違反の句。従って俳句としての価値は低い。

なるほど、「物云へば唇寒し」を「作者の勝手な考え」と解釈する場合は俳句としての価値が低くなるわけである。しかし逆に言うと、この句が秋の情景をありのままに詠んだものであれば、この違反にはあたらないことになるわけだ。実際そのように芭蕉は詠んだのではないか。そのほうが話としてスッキリする。

(まとめ:「物云へば唇寒し」の変遷)

芭蕉が秋の情景をそのまま詠む

編者がこれに「人の短をいふ事なかれ・・・」との前書きを付ける

人の悪口を言うとやがて災いとして返ってくる、という教訓になる

出る杭は打たれる的な意味合いに転じていく


http://blog.livedoor.jp/furongfeng/archives/102095.html 【物言えば唇寒し秋の風】より

物言えば唇寒し秋の風、芭蕉の詠んだ句とされます。

もともとは、人の悪口を言ったあとは何となく後味が悪いものだ、という意味だったようです。

確かに人の悪口を言うと嫌な気分になるものです。

人の悪口はなるべく言わないように、確かにそのとおりです。

ふとここで、私はもしかするとある国の悪口を言っているのではないかと自戒の念に駆られました。

ただ、すぐにその考えは打ち消されました。

これは悪口ではありません。

私が目にしたことをそのまま述べているだけです。

また、腹が立ったことを黙っていたら、物言わぬは腹ふくるる業なりで、病気になってしまいます。

ただでさえPM2.5がうじゃうじゃ飛んでおり、どんな肉を食べさせられているのかもわからない状況の中、身体に悪いこと間違いありません。

ただし、ここで、すぐにこの芭蕉の句が警告を発します。

物言えば唇寒し秋の風、現在は、なまじ物を言えば禍(わざわい)をまねく、という意味で使用されます。

まさに口は禍の元です。

この口は禍の元、本来は、口は禍の門(かど)と言ったようです。

同じ意味です。

最近の中国、なまじ物も言えません。

正直恐ろしくなってきました。

先日も、甘粛省張家川の16歳の「初中生」(chu1 zhong1 sheng1/チュージョンション)が、ウェイボでデマを流したということで捕まりました。

「初中」(chu1 zhong1/チュージョン)は「初級中学」(chu1 ji2 zhong1 xue2/チュージョンジョンシュエ)で日本の中学校に当ります。

なお、日本の高校に当たるのは「高級中学」(gao1 ji2 zhong1 xue2/ガオージージョンシュエ)で、通常「高中」(gao1 zhong1/ガオジョン)と言われます。

どうして16歳が「初中生」なのか不思議ですが、こちらの人は年齢を数え年「虚歳」(xu1 sui4/シュースイ)で言う場合があります。

また、原則小学校入学は6歳からですが、地方では、家庭の事情で7歳、8歳と遅れて入学する場合もよくあります。

こちらでは、16歳が「初中生」であることについて誰も触れていないので、私もこれ以上の詮索はやめることにします。

最近、ウェイボにデマ「謡言」(yao2 yan2/ヤオイェン)が500回以上転送されると刑事処罰の対象になるという通知が出ました。

しかしながら、何が本当で何がウソかわからない中国で、デマかどうかは政府が判断します。

政府に都合がよければデマも事実です。

政府に都合が悪ければ事実もデマになります。

今回16歳が拘留され、さすがにやりすぎだろうということになり、刑事処分ではなく、行政処分で終わらせることになったようですが、見ている人間は、明らかに「こりゃ滅多なことは言えないな」と思います。

本当に、滅多なことは言えない世の中になってしまいました。

それにしても中国政府、自分に不利なことが流れるのを相当恐れているようです。