私の骨格自由人 ②
http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/10-1gall.html 【「私の骨格自由人」-1】
震災後、「絆」という言葉が流行りましたが、この現象をどう思いますか。
あれは言葉としていいんじゃないですか。いまのふたりごころだと思いますね。「即物」に富んでいる民族が持っている、お互いをいたわり合うこころ、「ふたりごころ」だと思うから、あれはいいと思いますよ。ただ、ちょっとキザになっちゃったね。世界が被災者の行動を称賛しましたが、日本人とはどういう民族だと思いますか。結局、「ふたりごころ」に恵まれた民族だと思いますね。欧米人のように自然を改造してしまうというような、人間中心型の自然観じゃなくて、自然と共に暮らすという即物的な考え方に恵まれて民族だと思います。ただ、今度の津波で思ったことは、もっと自然を畏れるという考え方があればと、甘え過ぎたんじゃないかと、その点が残念だ。
自然を畏れるという考え方があれば、もっとよかったんじゃないだろうか。これが一つ宿題になるんじゃないかと思いましたね。
奥様(俳人・皆子氏)との結婚は二度目になるんですね。
オレも女房も初めてですよ。
少年の頃、おばさんが媒酌人になってウルシの木と結婚したと聞いていますが。
あなたが言っているのは比喩的に言っているのでしょう。比喩的だったらそうですね。
私はウルシの木と結婚して、おかげでかぶれが収まったわけですよ。だからそういう意味では一度結婚しています。いやなおばさんなんだけどね。
ウルシの気に酒をかけて、オレが酒を飲まされる。そして結婚したわけです。そうしたら不思議にかぶれが収まった。
あとから聞いてみたら、小学生から中学生になる、ちょうど年の変わる頃なんじゃないかと、言っていましたけどね。たしかに、比喩的に言うとそうです。ウルシの木と一度結婚しています。そして、死んだ女房は二度目。
奥様とのファーストキスは挙式前でしたか。
前だったと思いますね。婚約してから結婚までにちょっとありましたからね。それじゃ、今の若者とあまり変わらないですね。いまのやつらもやっているんでしょうけれど、今の若者のキスというのはそんなにきちんとしたものじゃないと思うな。
私らの頃はまだ、戦後まもなくですから、ある程度の節度を考えていましたね。ただそれよりも、カタチとして結婚前にキスするのはまずいんじゃないかぐらいの考えはありましたね。それあありました。
今のやつらのように、のべつまくなしということは考えないですね。最近は人混みでも電車内でもお構いなしなので慣れましたね。あんたの方が若いんだ。私は、ああいうのを見ると、そこへ行って横っ面をひっぱたきたくなる。抑えるのに苦労するときがありますよ。駅のホームなんかでぬけぬけとやっているのがいますからなァ。この野郎という気持ちになる。
トラック島で最初に死者を目の当たりにしたときはどんな気持ちでしたか。
私はトラック島に三月のはじめに行って、四月の終わりに米軍の第二回目の機動部隊の空襲があって、その時に焼夷弾でやられたのが幾人かいました。その死体は見ましたけど、ほとんど無反応。
その後にも各所で爆撃を食って、あるいは機銃照射でやられていましたけど、それほどの感動はないですね。
ほとんどショックを感じなかったですか。
戦場だから当たり前だと思っていますからね。ショックじゃないですね。ところが、サイパン島がやられ、マリアナがやられて、七月になってからは、現地の武器生産と食料を自分で自活する、その二つの課題が出た。その時に武器の代わりに手榴弾をつくった。その実験を私が属していた第四海軍施設部という土建現場の工員さんがやらされたわけです。
あれは触撃をして投げるんですが、触撃をした途端に爆発して一瞬でしたね。腕が吹っ飛んで背中にこんな白い、まだ血も出ない洞(うろ)ができてぶっ倒れた。横にいた落下傘部隊の少尉が吹っ飛んだ。その死体を私たちが担いで病院まで行った。
その現場を見てはじめて、私は戦争の酷さというのを実感した。体に感じた。それまでは体に感ずるという状態までいっていなかった。かなりの死体を見ていますけどね。
そこから自分の考え方がはじまるわけですけどね。反戦になるわけです。
もうすでに戦地で反戦の意識が芽生えたということですね。
戦争はやるんだという思いなんだ。よくない戦争だけど、そして負ける戦争なんだけど、郷里の貧乏な連中を救うためにやるんだという、その矛盾した考え方が混在していた。
そういう状態ですから、行ってすぐ反戦なんていう都合のいい状態にはならない。ただ、ひでェもんだと。これじゃ日本は負けると。それぐらいの思いはあった。
その後の死者を見てもそれほどの反応はなかった。これが戦場だと思っていた。だけど、目の前で吹っ飛んだ。オレは無傷だった。
しかも、その血の匂いのする死体を担ぐやつの横にくっついて病院まで行ったんだ。
それをやってはじめて、戦争はやっちゃいかん、残酷なことだと。私が、ほんとに殺戮死というものがひどいもんだということを痛感した初っぱなでしたね。
その後もいろんな死骸に出会っていますけど、その第一印象がもの凄く強い。
東日本大震災が起きて強く感じたことは。
広島、長崎に落とされてあれだけの大被害を与えたあの原爆、あれがまたこういう形で起きてしまったと、そう思った。広島、長崎で爆発していっぺんに人が死んだ。
今度の場合あ、ジワジワと、家を追われた人たちが死んでいく。同じことだと思います。福島の現状をみればよくわかる。そう思っています。
これは二度目の原爆の被害、放射能による大被害だと思って、こういうものを平気で使っているやつのツラが見てェと、そう思ってますね。
だから、原発がねェと電気が足りなくなるなんて言っているアホがたくさんいるってことが、私にとっちゃ腹立たしいですね。いろんな屁理屈を並び立てて、原発は必要だと躍起になっている。そういうことですね。実に瑣末な考え方だ。
命と電力、どっちが大事だということです。それは全然、本末転倒なんだ。
逃げ回って、詭弁を弄しているでしょう。東電の幹部どもは、福島の第一原発の、あの辺の住民のことを本当に親身に思っていたら、あんなことはできないはずだ。大犯罪ですよ。
昔だったら、社長なんか腹切ってもいいくらいだ。それをやらないでケロッとして、噓をついてやっている。大詐偽ですよ。あんなことは認めるわけにはいかない。
東大の学生時代は、「俺は最後の自由人だ」と威張っていたそうですが。
目立ちたいという気は私にはほとんどなかった。それは旧制高校に入って、出澤珊太郎という先輩にくっついて句会に行った。そこからオレの俳句は始まったんです。
その出澤珊太郎、それから英文の教授で長谷川先生と、吉田先生、この三人がみんな自由人なんです。
水戸は陸軍の連隊があったところで、街には年中、軍人がいるわけだ。
そんなのは糞くらえで、長谷川先生は奥さんを連れて日立の海岸に行って石っころを拾ったりして遊んでいた。
夜になると、「ルバイアート」といって、ペルシャの快楽主義の詩人がいるんですが、その詩集をコツコツ訳している。
世は軍靴の音が響き渡っているなかで、平気な顔でやっている。その姿は自由人だと思った。
権威におもねない。自分の思うことをやっている。こういう自由な人間になりたいと思った。出澤も全くそうですからね。学校なんかほとんど行かなかった。それから吉田先生は、英文学者のくせに、中国の詩人の研究をしていたんですよ。立派な本を出した。
そんなふうに、全く自分の考える通りに、ご時世がどうあれ、周りがどうあれ、問題にしないで生きている。こういう毅然とした男になりたいと。
私は東京に来てからほとんど大学に行ってない。ときどき吉原へ行ったり、出澤に連れられてあっちこっち飲んで歩いていた。そういう生活の中で、常にオレは自由人という言葉を頭の中に刻みこんでいましたね。
とにかくオレは最後の自由人だと自分で豪語していた。世は軍国主義であると、その中でオレは最後の自由人だと。
大学の助教授ぐらいでも、そんなこと言ったらすぐ捕まるんだよ。
だけど、ろくに学校へも行かねェでさ。そういう不良学生ですから誰も相手にしない。それでこっちはいい気になって最後の自由人だと。
そうしているうちに、自分もまた自由人という俳人になっちゃった。
学生時代から一貫して自由を求めてきたわけですね。
いまでも。自由人というのは貴重な言葉です。これは私の骨格です。だから変な小理屈言ったり、偉そうな顔するやつが大嫌いなんですよ。
自由人でありたい、そう思うと自由人と思える方に出会うね。今でも出会ったときに、これは本物の自由人か、本物じゃねェか、ちょっとばかり自由人か、そういう感覚的な識別をしてるんですな。
まさにこれこそ江戸末期の自由人、一茶だったわけですよ。
それが「荒凡夫」という言葉の姿ではないかなと、こう思ったわけですよ。
「俺は最後の自由人」だと威張った延長線上で、「荒凡夫」に出会った
わけですね。
出会ったということですね。だから、山頭火の場合、そういう意味で彼は自由人ではあったんですが、世間で生きていくのはめんどくせェと。
人間関係がイヤだと。「原郷」というか、アニミズムの世界にすみたいという思いが基本にあった。それで放浪ろうという姿を生み出したわけですね。
一茶の場合だと、社会の中に生きて、おのずから「原郷」を求める。
山頭火の場合は、「原郷」を求めるために社会を捨てていた。その違いがある。どっちも自由人の姿だけど、私は山頭火より一茶の姿のほうに惹かれる。
なんとしても、いじめで自殺する子供たちを救わなければなりませんね。
とにかく私の場合は、あの子たちをなんとか救いたい。私の気持ちのなかでは、むしろ逆に、いじめるやつらをひっつかまえてこん棒でぶっ叩いてやりたい。
昔、中学生の半ばころでしたかね、「ああ玉杯に花つけて」って、佐藤紅緑が「少年倶楽部」に書いた小説を、私たちの年齢は熟読したものです。単独でいじめるやつらと闘ったという男の姿が中心なんですよ。
あれは感動的でしたね。
それはもうひどい目に遭って闘うわけですけれども、ああいう男っていないのかね、今。そういうものを待望しますよ。
私は、そういうふうにいじめられて、いま自殺しようとしているんだったら、それは待てと、オレはもうこんな年齢だから、どっちみち向こうにやられちゃうけれども、もっと若かったら、それこそオレはこん棒もってそいつと闘いたいという気持ちですね。
だいいち卑怯じゃないですか。一人でやらないんだ。二、三人で組んでやっているんだ。あの卑怯なやり方は許しがたいですね。
人生の最終章を迎えた今、これだけはやりたいということはありますか。
オレがやってみたいと思うのは、今のいじめ退治だな。新聞とかテレビを見るたびに、腹立ってますよ。なんと大人たちがだらしねェと。逃げてますね、先生方は。けしからん。
まず、学校の先生からぶん殴りたくなるんだ。それ以外に何もないですわ。そいつがオレにとっては、今の大問題ですわ。
遺句を用意したいと思っていますか。
そんなものは全く用意しません。だいいち、いつ死ぬのかという予定がない。そのもっともらしさが大嫌いだ。そんなカッコつけなくていいんですよ、死ぬ時まで。
さっきのオレの言い方に従えば、それは死ぬ「場」を無理して自分で用意しようとしているんだ。カッコいい条件を用意するなんてしなくてもいい。
それよりコロ往生がいいですよ。だから、自分で頭でもひっぱたいて血管をぶっつぶして、それでコロッと死んじまえば、それが一番いい。そう思ってます。
金子さんの名句が生まれた場にも興味がありますが。
例えば、「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」はここ(自宅)に立って見て、あっと思った。
一帯が青い海の底みたいな感じで、梅が咲いていて、ああ春だと思ったら、鮫があとから出てきた。そういうのがフーッとできた。
「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」も痛風で、特効薬があるんですよ。注射を打ってくれて痛みが取れて、酒飲むなとか何とか言われているうちにできた。
時間がかかったからいいものができるというわけでもないですね。
絶対にないですね。これは短詩型の強さだし、小説家に聞いても、いいアイディアというのは考えてできる場合だけじゃないと言ったな。ひらめきでいいアイディアができる場合がある。嘘八百が出てくる場合があるらしいね、アイディアとして。その嘘だらけの着想というのが面白いという場合もある。
これから俳句をやろうとする人たちに俳句の魅力をどう伝えたいですか。
感覚。初心者に向かって、感覚を大事にしてくださいって何べんでも言ってるつもりです。やってる人にもやってない人にも。私は人生全体がそうだと思ってるぐらいですからね。
私には
るでしょう。むしろ花鳥諷詠は、理屈で出てきた俳句の作り方でしょう。自然に従い、自然と合い睦んでつくれというわけですよね。
これは、どこか田舎のおっさんの言っている野暮な寝言としか聞こえないんだけどね。
そうじゃなくて感覚でつくりゃいい。ボタンの花があったらボタンの花を感覚したままにつくればいい。私はそう思っている。それが一番大事。野暮な考え方は持つなと。
九十歳を超えると旧知の多くが他界して、無常観みたいなものを感じませんか。
無常観みたいなものを感じることはもちろんあるけれども、わりあいにそういうものをすぐ捨てちゃえるというか、忘れられる、転換できるということでしょうかね。
そういうときに、俳句の選をするとか、なにか単純なことをやるようにしておりますから、すぐ転換できます。そっちへ乗っちゃいます。
昨年、ガンと宣告されたとき、どう受け止めましたか。
忘れもしません、慶応病院の外来へ決められた日に行って診てもらった。皮膚科の関係で内科でも診てもらった。ところが、血糖値は問題じゃない、ただ肝臓の数値がちょっとおかしいからと診てもらった。
そしたらすぐレントゲンに行けと言われて、れんとげん、CTをやって、それで入院。なんだと言ったら、ガンだと言う。
翌日だったかな、外科の先生が来られて手術するのか、しないのかと。胆管の辺にできている、初期ガンだけれども取りますかと言われた。ただ九十二歳というのは手術には向かない年齢ですと。
だいたい、こういう手術というのは七十代でおしまいです、それでもやりますかと、こう言うんです。そこで私は、こういうおっちょこちょいだからね、いまでも憶えています。
とっさに、「やってください。オレは戦争で人死を目の前に見てきているから、生死に対しては、わりあいに腹ができているから、先生、死んでもいいから取ってください」と、えらい啖呵を切ったんですよ。そしたら先生が、ニヤニヤしていたのを憶えていますよ。
また、翌日か翌々日こられて、やっぱりいいですかと念を押すんだ。また二日ぐらい経ってから、これはよっぽど徹底的にあんたの体を、九十二歳でやれるかどうかを調べないと、こっちが自信が持てないとこう言いだした。
その背景に、私の皮膚科の担当のお医者さんが非常に優秀な医者で私はその人を尊敬しているんですよ。
その人がたまたまその外科医と慶応の同級生だったもんだから、ぜひ切ってやってくれ、治してやってくれと言ったらしいんだ。親友から言われる、私は啖呵を切っている、やらざるを得ないかな、だけどもどうかなァというので、それから半月、オレの体を手術に向いているかどうかを調べた。
結局、最終的にやりましょう、と言ってくれたんです。それでやった
先生の口から初めて「ガン」と聞いたとき、内心は動揺したのでは。
全然驚かない。あ、そうか、とにかく取ってください。取れば治ると思っちゃった。
オタオタしませんでしたね。そういう点は戦中派のいいところなのかな。人の生死を見てきていますからね。生死というのはそんなにこたえないですね。ショックでも何でもないですね。
入院中、金子さんは医師や看護婦さんに、素直な子供のような姿が非常に印象的でした。
うれしいですね。私は、それは考えてはいたんです。お任せするという気持ちね。これは絶対に甘えなきゃいかんと。自己主張しちゃいかんと、そう思った。
九十二歳なんて無理だという条件のなかでやってくれるわけですから、これはもうお任せすると。
絶対生きたいという強い気持ちが、普段とは全く違った姿になったのかなと。
それは不思議なんです。生きたい、「たい」というきもちがないんです。「生きる」と思ったんです。これは自分でも不思議なんです。当然、取ってもらえば生きるんだと、そう確信していた。ただ、取るのに条件がいるということだったら、それは徹底的にお調べください、どうぞ、と。そこであなたが見た甘えの状態が出ていたんじゃないか。そこは不思議なんですね。
「大地震が起きたらオレは死んじゃうよ」と言って、東京の俳句教室をやめたのは、自分の命は自分で守るという気持ちからでしたか。
間違いないですね。無駄死にしない、したくない。これは戦争体験もありましたね。
危険なことには近づかない。守れるかたちで守るということですよね。わざわざ自身の心配のある東京に行く必要はないわけですよね。そういうふうに割り切ったんです。
東大から日銀に就職を決めましたが、日銀のどこがいいと思ったんですか。
便宜主義です。中央銀行というのは、戦争に負けても勝ってもなくならないんです。社会主義国に日本が負けて社会主義国になったとしても、中央銀行は残るんです。
だから、ここに巣をつくっていれば食いっぱぐれがないってことですよ。
内務省や大蔵省の役人になることは考えなかったんですか。
官僚は大嫌いです。ああいう威張った野郎は嫌い。特に東大法科というのは、ぶっつぶしたかった。東大の法科というのはほとんどの者が、高等文官試験を受けて役人になるわけですよ。それを目指すわけですけどね。それでなれなかったやつがみんな、会社に入るわけですからね。あの法科のやつらは本当に虫酸の走るような、威張りくさって、腹の傲慢な男というのが多いんですよ。
東大法科のことをみどり会と俗称しているのです。そのみどり会のやつらを、われわれは蛇蝎のごとく嫌ってね。だから学部を選ぶにしても、法科にはいかない、経済学部に行く、というのが、ちょっと心ある連中の常識だった。
官僚の体質は今も変わっていないと思いますか。
今の官僚はみんな、そうつらの残党ですからね。恐らく今の法科の連中もそうでしょう。権威主義で、結束が強くて、そして自分の子分、弟分を育ててつないでいく。だから、定年がきてやめたってあぶれないんですよ。どこかに入れるのです。この網の掬い方なんか上手いもんですよ。それで国家のためになんて、偉そうなことを言っているけど、政治家を鼻の先で使って、自分たちはいい思いをしているんですよ。
戦後、日本人のこころが高度経済成長に向かう過程で、どう変わっていったと思いますか。
こころの問題が非常に薄くなっちゃったと。こころを大事にするという考え方がモノのほうい傾いちゃって、日本人を貧しくしたということが言えるんじゃないですかね。これは、あとでまたバブルがきますよね。バブルが弾けて、それでさらに倍加されたんじゃないですかね。やはり、高度成長というのは、物質的に豊かなものを与えてくれて、戦後復興を痛感させてくれましたよね。また、その基礎もつくってくれた。同時に、こころを失わせましたね。「即物」なんていうこころを非常に遠のかせてしまった。その状況は、さらにその後十年ぐらい経ってバブルになった。あのバブルによって、よけい経済主義になり、モノモノ主義に傾いていった。ますますこころは失われてきた。その現象が今でもずっと続いているというか、むしろ募っている。経済中心になってきている。
それが今の原発再稼働なんてことになるわけでしょう。経済主義が募って、人間のこころを非常にお寒いものにしちゃった。「即物」を失うわけです。
何か危機的な状況が来ると本性が戻ってきて、あなたが言うような絆なんて言葉で言われるようになるわけですけども。
普通の生活においては、経済主義中心がますます募ってきた。だから弱いものがいじめられるとか、そんなことは関係ない、強いものが勝つのはしょうがないんだと、きわめて物質的な考え方になってしまっている。
人間の関係までがそうなってきたんじゃないでしょうか。
結局、戦後がモノ中心で回復してきたということに問題があると思いますがね。
こころの問題がだんだん、だんだん遠ざけられてきた。いま言われているこころの問題というのも、何かお涙ちょうだいみたいな言い方が多いですね。それからすぐ、能率主義で語られたりね。