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兜太の《今日の俳句》とそれ以後

2018.04.24 05:09

https://note.com/muratatu/n/nb23693b26960 【兜太の《今日の俳句》とそれ以後】より

武良竜彦(むらたつひこ)

1 「存在の純粋衝動」を詠む詩法

 水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 代表句の一つであるこの句の原点には、海軍主計中尉として赴任した南洋・トラック島での戦場体験があった。一年三か月間の捕虜生活を終えて、日本へ帰る船上で詠まれたものだという。死者への眼差しが焼き付いている。その視座を生涯失わなかった。

 銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく

 朝はじまる海へ突込む鴎の死

 彎曲し火傷し爆心地のマラソン

 初期の俳句は社会性が滲む作風である。

 そんな金子兜太には、どんな詩想があったのだろうか。兜太の俳句論の原点ともなり、一般向けに書かれた『今日の俳句』(注1)の中の言葉を振り返っておこう。「まえがき」には次のようなことが述べられていた。

 戦争とその敗戦を体験しながらも、現実と向き合おうともしない伝統俳句派を「既成の権威によって自己主張しようとする者のひよわな利口さえ見えて、醜い」と痛烈に批判し、「この詩形が、つねに、その時その時において人びととともに生き栄え、磨かれてきたこと、そこに、その詩形の意義があり、これを用いて自分の心を表す人たちのささやかな満足と喜びがある」とするこの言葉は、戦後の俳句を切り拓こうとする宣言文のようだ。

 本書では、子規以来唱えられてきた俳句の写生論を、身体性を伴うイメージの創出へと表現手法を転換することの必要性が語られていた。伝統俳句でいう写生論が、俳句内俳句論的な内向きに閉じた手法論に留まっていて、非文学的だったのに比べて、兜太のこのイメージ論は、やがて彼の俳句表現論の核を為すに至る「造形」の詩法として結実する。伝統俳句との決別という側面を持つ俳論である。

 表現の手法を語るとき、その前提として「何か他人に向かって訴えたい気持ち」を表現に向かう出発点と捉えている。その欲求を俳句という表現で実行して得る充足、そして更なる渇望、「そのくり返しのなかに―いや、それをしばしば推進機として、私たちは生きてゆくのだ」という言葉で、俳句は生きることと同義であるという視座が示された。

 さらに散文の論理世界のように明快なものではなく、「わけのわからぬ〈もやもや衝動〉〈言うに言われぬ欲求〉そのものである」と述べている。

また「詩の技法とは比喩を作り出す技術のことである」としている。俳句の中で自然由来のものやものごとが詠まれるとき、伝統俳句ではそれらに自分の境涯的な心情を仮託する手法が取られるが、兜太はそれを素材・題材と見做し、それらを駆使した比喩で表現するという手法を取る。

 以下、金子兜太氏の創作思想が伺える文を抜粋する。

「日常生活というのは、文字どおり日常の生活のことだが、思想生活という言葉があるなら、それも入れて、日常生活を広く受け取っておきたい」

「書いても書いても書ききれないが、それでいて、あるいは、一つの言葉で捉え、爆発させうるような感情の核―その核反応が〈詩〉なのだ」

「〈詩〉とは、私なりの言い方で、〈詩反応〉とでもいうべき、私たちの心的機能(感情を中心とした感覚、意識などの働き)の反応として、まず考えておかなければならないものである」

「詩の本質は抒情である」(抒情は)「二とおりの意味に使われている。一つは〈感情の純粋衝動を書く〉という本質的な意味。いま一つは〈情感本位に書く〉という現象的な意味。/私は、はじめの感情の純粋衝動を書くという本質的な意味のほうを、真の〈抒情〉と考え、これが〈詩〉の本質だと確信している」

「〈詩〉とは、理知の根にあって、やがては理知を燃え立たせる力ともなる〈感情〉に根拠を置く」

「私は、感情という言葉を〈存在感〉という言葉に置きかえたいのである。〈存在〉という概念が強く求められるのは、まさに〈詩〉においてであると私は思うからだ」

 これらの言葉は晩年、「存在者」と述べていた兜太式俳句表現論の根源的なモチーフとなったものだ。

 兜太が提唱した造形の詩法の出現は、それ以前の俳句表現論に欠落していた「表現主体」に対する視座を初めて提唱したものだ。

 兜太はそれを「創る自分」と呼ぶ。

 正岡子規の写生、高浜虚子の花鳥諷詠、中村草田男の抽象などの表現的な言い回しには、文学を含む芸術作品を創っているのは誰かということに対する認識は希薄である。

 彼らの場合、「作者」は生身の「私」に極めて近い。「私」を客観化して表現するという視座はあまりない。

 流れゆく大根の葉の早さかな  虚子

 人体冷えて東北白い花盛り   兜太

 虚子の俳句には大根の葉を眺めている「私」らしい者の存在を微かに感じることはできるが、それを詠んでいる表現主体のことは意識されていないように見える。

 兜太の句の場合は「私」をも客体として取り込んで詠む別次元の意志が感じられる。ここで「人体」と表現されたものの中に生身の「私」も含まれていて、句世界を詠んでいるそれとは別の意志的な作者の存在、つまり兜太のいう「創る自分」である「表現主体」が意識されていることは確かだ。

 林間を人ごうごうと過ぎゆけり  兜太

 この「人」も「私」を含む人類あるいは人間という存在そのものである。「林間」が自然界を象徴し、そこを「ごうごうと過ぎ」ゆく動的様態を造形している。そのことでここに文字として書かれている以上の、別次元の主題性を獲得している。

 さらさらと竹に音あり夜の雪   子規 

 

 西洋美術用語から借用した正岡子規の写生論には、対象を観察し写し取ろうとする「私」の「意志」の方に、やや比重がかかっているように読むこともできるが、表現主体のことはあまり意識されていないように見える。

 冬の水一枝の影も欺かず    草田男

 玫瑰や今も沖には未来あり   〃

 葡萄食ふ一語一語の如くにて  〃

 中村草田男の抽象はニーチェなどの西洋思想から影響を受け、その思想性を日本的な情感で表現している。私小説的自己表現に拘る「意志」を感じさせる「私」が前面に出てくる表現であるが、表現主体のことは強く認識されていないように感じる。

 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

 兜太のこの句は「私性」を振り切らなければ造形できない。日本の伝統的情感を突き抜けた性(生と死)の土俗的な力強さそのものの表現であろう。

 海流ついに見えねど海流と暮らす 兜太

 この句のように「私」と「表現主体」が重なる表現の句もあるが、私的詠嘆の方に主題性があるのではなく、存在の根底に常に流れている何か大きなものを感じつつ生を営んでいるという思弁の方に重点が置かれている。

「私性」に拘る閉鎖的な自己表現を、兜太は「心(ひとりごころ)」と呼び、それに陥ることを避けるための詩法を、「情(ふたりごころ)」と呼んだ。

 自己の相対化、主客合一、平たく言えば自分の中に他者へ通じる視座を置く、独りよがりを回避する詩法であるとも言えるだろう。

 晩年までの兜太の詩法は、存在感の表現を軸とした存在の諸相を造形的に表現するものであったと言えるかも知れない。

2 「兜太以後」ということ

 何々以後というと、きっぱりとそこで前のものが無くなって、後のものだけになるという意味合いが付き纏うが、現実はその前後のものは同時に併存並行する。

 伝統俳句はずっと存在しつづけているが、兜太の「造形俳句論」の登場によって、伝統俳句「以後」が始まったという意味である。

 同じように兜太の「造形俳句論」の影響下にある流れと並行して、「兜太以後」は兜太の生前からすでに始まっている。

 兜太のように戦時中、大人であり直接・間接的にも戦禍を体験した世代の後、戦時下では子どもであり、墨塗りの教科書で戦後教育を受けた世代を「戦後第一世代」と呼ぶなら、純粋に戦後生まれで戦後教育を受けた世代は戦後第二世代ということになろう。

 この戦後第二世代は70年代に思春期から青年期を迎えている。第二次安保世代以降の世代であり、この世代はさらに団塊・全共闘世代と、それ以後でものごとの捉え方に違いが見られるようだ。

 前者は高度成長期のまっただ中にあり、それ故の社会的歪みの顕在化が同時進行だった世代であり、後者は社会の歪みが決定的な様相で恒常的に存在した時代に思春期を送った世代である。

 この後者の70年代に思春期を過ごした詩人・俳人の意識には、それまでの歴史・文化との不連続的な孤児性がある。表現の上では一元的な主題性の表現に絡めとられることへの、潔癖なまでの拒否感を持つ失語症的な表出となって表れている。既存の価値観・言語表現観への徹底した不信感がある。

この世代の一人で、かつて鈴木六林男の門下にあり、現在は「575」という個人編集発行の俳誌で表現活動をしている高橋修宏氏が含蓄に富むことを述べている。(注2)

 暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男

 暗闇の下山くちびるぶ厚くし  金子兜太

 この二句をめぐってこう述べている。

  ※

「暗闇」をめぐる二つの俳句の隔たりと、その間に広がるものこそ、戦後俳句と呼ばれる荒涼とした領土のひとつであったと、いま差しあたり考えてみることができるかもしれない。

わたしたちは、その荒々しい豊饒な領土を、どのように見ればよいのか。語りつづけることができるのか。あるいは、すでに失いつつあるのだろうか。

  ※ 

 戦後の俳句表現における問題点を、この二句の対比で象徴的に指摘する高橋修宏氏だが、たしかに戦後俳句表現には、そのような層的な分裂というか、住み分けのようなものがある。彼は兜太の句については何も言及していないが、兜太の「暗闇」が「下山」する身体的状況だけを覆う、目先の利かなさの中の、自分という存在の確かさを頼りにしている感覚と、六林男の「暗闇」は確かに異質だ。

 六林男の「暗闇」は視界不良の得体の知れない広がりを持って自分を囲繞する情況であり、ただ「泳ぐなり」という意思的ではないぎりぎりの人間的な自己表出だけがある。

 戦後は「身体性」を基調とした「存在」の有り様そのものが、疑われてゆく時代だったという認識の者にとっては、六林男の句の方に深いシンパシーを感じるのではないか。

 この世代にとって、まさに自分を囲繞する情況が、得体の知れない「暗闇」のように感じられているのは頷けることだ。

 近代以降の人間とその社会の存在様式自身が、人間を含むあらゆることに対して加害的になってきていることが認識され始めた時代に、俳句表現のことを考えなければならなかった困難を、最初から引き受けざるを得なかった世代でもある。

 彼等はまず次のように自問することから始めざるを得ない世代だ。

 あらゆる言語表現が、ものごとから遊離してしまう言葉の失効性が顕な時代に、その言語そのもので切り結ぶことが可能なのか。

 地球規模の生命の危機を含む、人間としての存在論的な危機を見つめ、簡単に答えなど得ることができない永遠の問いかけをするのが文学の存立的契機ではないかという思いが根柢にあるように見える。

 兜太が唱えた表現主体論を言語主体論として当然のこととしつつ、言語表現が纏う主題性が直接的な意味文脈に回収されることへの、潔癖症的な拒否感があるようだ。

 彼ら「前衛系」の俳人たちが構築してみせる俳句世界はそれぞれ違うが、ある共通点がある。彼等がそのことに自覚的かどうかは別問題として、最先端の哲学的思潮を反映しているように感じられる。

 たとえば高柳重信が、伝統俳句に対するアンチテーゼとして、もっと多様で自由な表現形式があってもいいはずだという思いから、多行形式俳句などに挑んだときの「俳句は形式が書かせる」という言葉には、まるで哲学の構造主義のような響きが感じられる。

 そして高柳に師事して新しい表現に挑戦した俳人たちのその後の試みには、表現内容の脱・構造主義的な面が感じられる。

 そこからさらに脱構築的な手法へと各自それぞれの表現を切り拓いてきているように見える。俳句の言葉の解体と再構築である。

 そしてそれ以後のポスト・モダン的な思潮が抱え込む、世界にはあらかじめ意味あるものなど存在しないというようなニヒリズム的側面を超克しようとする試みがなされているようだ。

 無意味に意味を見出す逆説的な反転思想ではなく、無意味であることをそのまま受け入れて生きることに生じる諸問題を、哲学的に再考しようとしている思潮の反映が覗えるようだ。

 俳句表現に引き付けて言えば、言葉も含めて既存のあらゆる価値観にも依存しないが、今自分が表現をする限定的な創作行為において、できることを為し、その成し遂げたことも疑い検証するという、無限の営為の中に創造的営為を置き直すという詩法と言えるかもしれない。

 そうなると当然、その表現方法も俳人各自の、言葉との格闘の結果獲得され、獲得された途端に疑われてゆくことになる。

 兜太以後に表現論的な纏まりのある論考が確立さていないという評言に接することがあるが、それをもって兜太の詩論が、後続の世代の俳人にとって、今も有効な表現方法論であることを保証するものではない。

 兜太のように先行する詩法への批判意識に立脚する、統一的な表現論自体が成立しない地点まできているのである。

 後続の特に「前衛」的な位置にいる俳人たちにとって、俳句表現の統一理論など不可能であるように感じられているはずである。

 もはや時代はそんなものを必要としない、多様性の時代の孤独な営みの中にしか、俳句の創造はないという認識のように見える。

 そのような認識と各自の方法の絶えざる模索が、「兜太以後」という俳句 表現の現状であり、とりあえず一つの「新しいかたち」と言えるのではないだろうか。

 個的であること、多様で全体像が捉えにくいことは、必ずしも憂うるべきことではないだろう。

 多様性とは拡散していくような不安の中にある現象ではなく、そこにこそ俳句表現の明日を拓く何かが胚胎している現象だということではないだろうか。                               

注1 『今日の俳句』(光文社一九六五年刊)

注2 「六林男をめぐる十二の章」の編集後記(「575」の「04」二〇一九年九月刊)