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霧の村石を投らば父母散らん

2018.04.22 13:11

https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/8f27c2517fa64682e1f61d633fb8bd0c 【霧の村石を投らば父母散らん 兜太】より

金子兜太の一句鑑賞(十一) 高橋透水

 兜太の生まれ育った秩父盆地はときおり霧に包まれる。久し振りに兜太が訪れたときも霧のなかだった。そんなとき「ポーンと石を投げたら、村も老父母も飛び散ってしまうんだろうな」という感慨をもった。

 昭和十二年、兜太は故郷を離れ水戸高校に入学、俳句を始める。浪人後東大に進学すると、「成層圏」に参加し、「土上」などに投句する。就職したものの、戦況悪化のなか戦場に駆り出された。帰還後、日銀に復職し秩父の女性と結婚。妻の皆子に「あなたは土に触れていないとダメな人間になる」といわれ熊谷に住むことになる。故郷にはすぐに行ける距離だが、しょっちゅう帰るわけでない。

 掲句について『兜太百句』では次のように述べられている。「ちょうど郷里の皆野の駅に降りた時に出来た句なんですけどね。やっぱり私に映像が留まってたんでしょうね。ほっと出た、まとまったんです」「両親も歳とってきたし、高度成長期で都市に人が出てるときでしたから、田舎は駄目になってきてるでしょ。父母がかわいそうだということと、集落そのものも石でもなげたらなくなっちまうだろうと。時代への思いと父母への思いとが重なってましたね」。都会の成長に比し、山間からは人口が流出し、農村と都市との格差がますます広がってゆく。これからの日本はどうなるのかと、日銀に勤めていた兜太は、高度成長の危うさにも敏感だったのだろう。

 また『定住漂白』のなかで、「外秩父の山を越えて平野にでると、しばらく丘陵地帯がつづくが、そこにある小川町で生れ、戦争で南の小島にゆくまで、秩父の皆野町で育った」「そのごは県外の学校に学んだが、休暇にはかならず帰って、土蔵のなかで寝起きしていた。夏は荒川で泳いだ。秩父は、まぎれもなく私の故郷である」とある。ちなみに兜太の父親は開業医で母親は小川町から嫁いできた。あれほど反対したにも関わらず俳句を始めた兜太を、母親は生涯可愛がった。この句はそんな郷土への思いの素直な心情が現れてる。

  俳誌『鴎座』2017年6月号より転載


https://plaza.rakuten.co.jp/iyomantenoyoru/diary/201208060000/ 【霧の村石を投らば父母散らん  金子兜太 (3)】より

カテゴリ:俳句

子と親の関係は時代、地域および階層によって差異がある。

が大抵の親たちは、自分は失敗者だけど、わが子だけは成功させねばならぬ、と思い込んでいるのではあるまいか。そんな負担に耐えかねて、子は親に叛逆する。

山国秩父に育った作者を連想すればリアリスティックだが、典型ともいうべき親子関係だろう。霧は変化の一局面を象徴し、混沌たる状況をいう。

石をぶつければ父母の固着観念を打ち砕ける、という勇ましい一句だ。

(季語  霧)(「けさの一句」村上護)


https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.10.html 【霧の村石を投(ほ)うらば父母散らん 】より『蜿蜿』

 人間が生長して自立した自由な大人になる過程で、親との決着が如何についているかということは重要なことである。依存であっても、反撥であっても駄目であろう。親も一人の弱い人間に過ぎない、と見做せるかどうかである。この句はその辺りの心理を描いたものに思えてならない。親というものも、石を投うれば散っていってしまうような頼りないものに思える、というようなことである。そしてニュアンスとして、作者には〈石を投うれば父母は散るだろうけれど、私は投うらない〉という心理が感じられる。その辺りの微妙に自分を律しているところに、作者の、自由に生きるという事はどういうことかという把握がある気がする。また、社会そのものも実に曖昧模糊としたものだという感じ方が「霧の村」という言い方に内在されているのではないだろうか。


http://www1.odn.ne.jp/~ccw84010/haikunituki210627.htm 【霧の村石を投(ほ)うらば父母散らん   金子 兜太】 より

 俳誌『海程・第2号』(昭37年6月)所収。

 この俳句は「海程」創刊の昭和37年に発表された句であり、主宰・金子兜太の新たな心意気が伺えます。

 兜太が生まれ育つた秩父は、山峡なので秋から冬になると霧が深い!。

兜太は小学校まで5キロはある道を、山の迫る谷川の橋をわたり、独りで通学した思い出がある”という。

山国を出ることなく暮らす老いた父母には「石を投うらば」と書く。

また、父母の背後には、山峡の人々の貌も見え隠れする。この句に込められた兜太の思いは、故郷への愛情であり、一度は故郷を出た、兜太だから詠める俳句である。       <本田 日出登 鑑賞>

 ↑秩父夜祭が今年も12月3日、埼玉県秩父市で、 予想では約17万人の観客の中で繰り広げらる。 夜祭では、彫刻と金糸銀糸で飾られた6台の山車が 目抜き通りを練り歩き、、、尺玉など6000発の花火が冬空に華を添える。

参考)秩父と云えば、夜空を焦がす「冬の打ち上げ花火」がある。

 浜芳女さんと私が、熊谷の新宅を訪問した折に頂戴した短冊「霧の村・・・・」には「秩父夜祭の日・昭和42年12月3日」とある。

 「霧の村・・・・」の俳句は、「秩父夜祭の想い出”」と無縁ではなさそうだ。