多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説27
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
——ラン。
と。…タオはそう云って私にだけ微笑みかけた時に、私ははじめて褐色の少女の名前を知り、名づけさえし、タオもまた何度目かに知ったのでした。自分の傍らに沈黙する少女の名前を。
タオがいなくなった時に(彼女が私に残して云った心の、その思いの断片がいまだに匂う氣がした。
彼女は立ち去りたくなかったんですね。
わたしのそばにいたいから。そして、わたしの爲だけに微笑んでいたから、つまり、すまじい貪欲と傲慢そのものとして…)褐色の蘭が窓際に立っているのを見て居ました。
その背後に私は話しかけたのでした。
——何、見てるの?
蘭の向こうに、窓はひたすらに光るのでした。
——何が、見える?
光、と。まなざしはそう初めに認識し、やがてはそこに海の形を見るのでした。
——…ね?
形。…海の形。
——何が、見える?
形のなき物。ふれる事さえできない…いや、ふれはするのだが、つかめない、さわれないわけですね(いま、わたしは觸れるという言葉と触るということばに新しい繊細な意味を付与したのです)。さざ波み、いわば、動きと色彩でしかないもの。
その形、と。
私はその一瞬に気を失ってしまいそうになりました。
私があまりにも多くの錯乱の中にいることを、まさに私の網膜の表皮が、あるいは指先の皮膚そのもが容赦なく実感したのだから。
私は其の時に宇宙を感じたのでした。その昏い空間に停滞する青く、白く、茶色の塊りを所々に散らした惑星。その地表に蔓延る様々な生き物の内の、その一種の、そのまた一種の、そのうちの一人の小さな瞬間の(短い…と?。わたしにとってそれは時間的な短さではもはや無くて、物理的な極小を意味した…)錯乱。
日常的な錯乱。
それがどれほど巨大な錯乱であることか!
わかりますか?
宇宙の総てを飲み込んで倦むことなく飽きもしない、すさまじく巨大な錯乱。
わたしが目舞い、しかも目を(鳥が飛びました。窓の向こう、遠い空に小さく、鳥の影、それが平面的には褐色の蘭の頭十センチ上を水平に横切ったのでした)見開きかけた時に、褐色の蘭はわたしを振り向き見たのでした。
笑みもせず。
はじめてそこに人がいることに気付いたかのように(人?…いや、生き物?…いや、生き物のというものがあること自体彼女はそのときに認識して居なかった。
なら、わたしは人でも生き物でもないひどく抽象的で、あくまでも目の前に存在する具象だったにすぎない。
これに屈辱を感じるべきですか?)
わたしは思いつきました。彼女を描くだろうと。
わたしは彼女を描くはずなのです。実感として…頭の上に止まった蝶がその数本の髪の毛の全体に実感を消し難く残すに似て、わたしは自分の実感を咬んだのでした。
夕方、タオはわたしの頬に口づけました(あなたを傷つける積りはないし、嫉妬を煽ってやろうという穢らしい感情から云うのでもありません)。彼女にとってそれはとても重要だった。初めてわたしの頬にふれたのだから。
まえぶれもなく、蘭をつれて歸るそのドアを開いたときの振り向きざまに彼女は爪先立った。
蘭は見ていた。
まるでそこに植物が存在しているかのように(ならば、わたしが蘭と呼ぶ少女のその一瞬に、わたしたちまでも同じように蘭にもひとしい自生の植物だったのだろう)。
タオは唇をはなした。
ほんの二秒ばかり私を見詰めた。…ごめんなさい、と。タオが微笑んであわてて駈け出るのを、わたしの眼は勝手に見出していた。笑みもせずにタオは私を見詰め、茫然とした、——むしろ自分が侮辱されでもしたかの、そして驚嘆のあまりに侮辱された屈辱さえ感じられないでいる軆の、開いた瞳孔をだけさらしていた。
「歸るね」
タオは云った。その儘に、唇をだけ動かし、喉をだけ震わせ。
「また來るね」
タオは云った。
わたしは瞬いた。
彼女は帰った。(これらの一連は、あなたには隱すべきだったのでしょうか?そのほうがあなたは幸せだったかもしれません。でも、卑劣な、悪意ある幸せだとおもいませんか?卑劣さも、まして悪意などいささかも意図されなかったにせよ、です)
それから今まで、なにもできずにいる。
ただ、雨の音を聞いているのです。
8月15日。
今日朝起きた時のあなたの心がよくわかる。昏い昨日一日中の白濁の空がそこになくて、靑い空のひがるのをみたあなたの…部屋のカーテン越しの明るさに、あなたは心があたたくなるのを感じたんでしょう?
これは昨日の夜中の夢の中に、今朝のあなたが語ってくれた事なのです。
夢通い、というのか(日本の中世の考え方ですね…)どうも、今現在の我々の科学的認識よりも当時の彼等の科学的認識の方が、例えば五百年後の人間の(まだ生き残っていれば、ね?)科学認識に照らし合わせると、結果的には彼等の認識に近かったという事実が判明するのでは?
神秘主義でもオカルトでもスピリチュアリズムでもありません。昨日の夢の中であなたと話し合った結論だったはず。覚えてないよね?それはあくまで私の夢、あなたとわたしが私にだけ捧げた夢だった(ふたりは喩え同じとき同じ場所にいても違う世界を生きたのだ…是は意識の問題じゃなくて。あくまで肉体の問題です。意識には本来私も他もないからね。いかなる固有性も…)。
明かる日差しに目覚めたあなたが羨ましい。妬ましい。朝から雨が降っていた。
雨の中にホテルに来たタオは髮の毛をかすかに濡らしていた。
わたしは心が痛んだ(なぜ?…野に走る鼠は雨の中に川を泳いで渡るというのに?…猫は樹木に登る)。
蝶と蛾が雨に濡れてはならない。
タオの濡れた(かすかに。ほんのすこしだけ)髪の毛に蝶と蛾のかがやきの粉舞う羽根を思った。
ちょっと休んで云ったら?
昨日のことを忘れてわたしは云った。タオはどうだったろう?
覚えてゐたのだろうか?
時間ないよ。
甘えた声を立てた(彼女の日本語に訛はありません。京都に七年いたというのですが、きれいな標準語なのでした。日本では、ほとんど日本人と話す機会がなかったのかもしれませんね。テレビ画像とネットのフォント乃至動画の中に存在してゐるだけで)。
いそがしいの?
いそがしくないよ。
だったらいいじゃない?濡れてるよ
だいじょうぶだよ。行かないとだめだよ。
また、濡れちゃうよ。
しかたないよ。
それらの会話の間中蘭はひとり部屋の奧に入って、勝手に私のタオルで濡れた髮から顏、額から腕、手のひらにいたるまで、彼女はぬぐい取るのだった。
本当は計画があった。例の水浴が…あなたも、磐田くんも、兼安も、だれも。みんながやめろと言った、あれ。
非生産的、とね。けれどもわたしは現代の一瞬の現在に殉じるほど今を愛していない。尤もモナ・リザの永遠をなどもっと愛していない。モナ・リザの、最後の審判の、乃至源氏物語絵巻の、最悪の愚劣はそれらが今だ燃え尽きも滅びもせずにそこに存在してゐることだ。
水浴画のスケッチに海に出ようと思った。蘭を連れて。そして山の方にも、バイクで。蘭を載せて。
今日するべきだったことは以下です。
様々な浪の形をスケッチする事。
様々な飛沫の形をスケッチする事。
耳に鳴る漣の音、それをスケッチする事(是はなにもわざとこ難しく困難なことを晦渋めかして言おうとしているのではない。あくまで、これは具体的で、むしろ具象にかかわることなのです。形而上学談義では決してない)。
樹木の形を手あたり次第スケッチすること。
先ず、その幹の形。
困難な葉についてはまた明日。…か、あさってか。
以上の事柄だけですでに膨大な時間が必要ですから。いつになるのだろう?葉のかたち…
光がすべてをじゃ魔するのです。
おなじ葉にさえかたちそのものをへんようさせる、あれ。われわれにし覚をあたえた(正確に言えば視覚がそれに寄生する事ではじめて自分をあらしめたところの)ひかりこそが。
ぶっ陀のひかりなんていってるんじゃないですよ?い前、あなたをなやませ、かなしませたわたしの「妄想」(…妄想じゃなくて、それは一つの理論的な思考に基づく、比喩だったのです。遂に、比喩を用いなければ語れない事実もあるのです。ヴィトゲンシュタインは云った、語り得ぬもの、と。ニイチェは云った、永劫回歸と(また、優れた指揮者は云うものです、私の棒など見ないでください、とね。むしろ目を閉じていてくれたらいいくらいだ、と。音を聞くでも自発性でも音楽そのものの流れへの忠実でもなんでも、理由はさまざまであれ、ね)。そうじゃない。
ぐたい的なひかり(あなたを哀しませたわたしの佛陀の光はもちろん、わたしの悲しみの発露でもありました。わたしは多くを失っていましたから。もちろん、あなたも知る例の母の一件もむくめて。いずれにしてもあの頃あなたが私を愛してくれていなかったら、それが職務倫理からいえば御法度だったには違いなくとも、ですよ?わたしは多分今頃肉と骨と血を持つ磐になっていたでしょう。花咲く春先の奇跡的なただ一夜の雪さえ梅雨の雨にひとしかったはずだ)。
ともあれ。
他にすることがないので部屋で蘭をスケッチしたのだ。
そのときに私は今日の雨が寧ろわたしに蘭をみせる爲に降ったに違いないとさえも確信させることになった。
それはかならずしも美しいとは言えない顏だった(美しいというとき、そこにはかならず放棄がある。具体性をはなれ、乃至特異性をはなれ、その一言に墮してしまう放棄、まなざしの絶望的なまでに驚嘆しているそれを、眼差しに放棄させること…)。
何が悪いと謂うのでもない。それぞれは正しい位置に正しくあるのだが、見つめるうちにそのそれぞれが、又全体としても怪物じみて見えてくる。異形の奇形のなにか、に。
蘭の顏を見ていると、性欲というものの視覚における意地汚さがよくわかるようになる。つまり、発情するというのは見得たものをかすめるだけであって、眼差しがそれを執拗に捕え続けている限り維持できないということ。指先がふれるものだと一瞬に匂わされればいい、文字通り単なる発火罪に過ぎないと、ね。
事実、あなただって多くの場合、目を閉じた暗闇に私を愛したはずです。私を見もしないで…
いずれにせよ蘭を窓際にすわらせた。
光の入り込むにまかせた。
斜めの光はたしかに刻一刻と(——北向きではないので)あざやかなほどに色彩も、形態も、おそらくそもそもの骨格自体さえ変容させていく。
そのなかに彼女の(此の、おさない褐色の少女の)かたちはすさまじい怪物的な相貌を見せつける(——わかるでしょう?なにも鼻が二十センチあるとか口に牙があるとか目が三つあるだとか、そういう怪物性ではないのです。
その目が、その色、形、あるいはもはやそれがそこにあるという事実自体が、すさまじい怪物性をもって、…怪物其のものとして、わたしに咬みついてくるのです)。
ひるむ?
まさか。
怯える?
まさか?
迯げる?
まさか。
わたしはただ見蕩れて仕舞ったのでした。その怪物性そのもの。例えば本当に一凛の蘭があったとして、その蘭の葉そのもの、花びらの潤いのそのもの、莖のかすかな毛羽立ちのそのもの、それが怪物化する現状…わたしが心奪われたのはそれです。
夕方、タオが帰って來た時には心身共に疲れ果てて居ました。
ドアをあけるなりタオが——どうしたの?
そう云ったくらい。
——綺與宇さん、顏色わるいよ。
蘭はなんということもない。ただ座っていただけだから。
タオが歸ったときには立っているのも不可能に感じられた。だから、ベッドに倒れ込んで少しの間、たぶん、失神したのかもしれない…眠った。その時にあなたの夢をもう一度見た。
けれど、それはここに書きません。
わたしの爲じゃない。私にとって不愉快だとか、書きにくいとか。そういうことじゃなくて、むしろあなたのプライヴァシーをまもる爲。
あなたが此れをやがて誰かに見せることはわかってる。だから、あくまであなたの爲。
私が書くのは、あなたを傷つけないですむ事、のすべてなのです。