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天の川  小林一茶

2018.04.23 07:32

https://kanekotota.blogspot.com/2019/06/blog-post_33.html 【「小林一茶」 ひとりなは我星ならん天川】 より

ひとりなは我星ならん天の川

歴裏句稿(1802年)――40歳

はるばると空をながれる天の川。そのそばにいっもひとりでいる星。ぼんやりと、にぶくいる星。あれがおれの星なんだ。いや、あれがおれの姿なんだ。

 よき先輩立砂につづく父の死。そのあとの遺産相続問題、そして、40歳になる一茶。

一茶の〈修業時代〉は終った。

 この1年間、一茶の消息はよくわからない。江戸に帰っていたことには間違いないが、なにをしていたか定かではない。この作品も古暦の裹に書き連ねてあったものの一つで、

一茶はこころの荒みに耐えていたのだろう。

 そのため、古暦裹の句句は、孤愁に沈んでいて、それまでの、なんといっても、どこと

なく弾みがあり、哀寂といっても感傷の甘さを主調にしていた時期とは違ってくる。じっ

と見るすがたがあらわれてくる。この句も、陋居にあぐらをかいて、上眼づかいに江戸の

夜空を見つめている感じがある。むろん、やもめ暮しで、茶碗が膝の辺に転がっていたろ

う。あるいは、ひとり巷に出て、頭の上の天の川を追いつつ、歩いていただろう。そのと

きも、眼は妙にしっかりしていて、ひとつの星を見定めていたのだ。

 正月早早、一茶はこんな句を作った。「門松やひとりし聞けば夜の雨」。七夕のとき、たまたま洪水があった。「助け舟に親子落ちあふて星むかひ」。私の好きな次のような句もある。「有明に躍りし時の榎かな」、「鴫どもも立尽したり木無し山」。みな、中年にして肉親を失った、ひとりものの句だ。

 星といえば、一茶には星の句が多く、「わが星」も多い。この頃から小動物や昆虫たち

の句も増えるが、星への関心にも似たものがある。わが星の句を並べてみよう。

  我星はどこに旅寝や天の川         (41歳) 

  我星は上総(かづさ)の空をうろつくか   (42歳)

  我星はどこにどうして天の川       (50歳)

  我星はひとりかも寝ん天の川       (60歳)

 このうち、第1句の「どこに旅寝や」が、第3句の「どこにどうして」に改められたら

しい。義太夫節の一節が入ってきて、すっかり余裕をつけた印象である。第4句の「ひと

りかも寝ん」も、冒頭掲記の「ひとりなは我星ならん」を改作したもので、万葉集巻11

゛異本゛の゛足引きの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む」からの本歌どりである。

 なお、大正から昭和期に活躍した高浜虚子に「われの星燃えてをるなり星月夜」という

作品があるがヽ一茶の作品と対蹠的である、自信と気力があるから、天の川の流離感では

なく、星月夜の絵画的な空間を好むのである。一茶は終生、この虚子の句のような、ぐっ

と構えた作品を作ろうとはしなかったようだ。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12544154495.html 【天の川  小林一茶】 より

わが星はどこに旅寝や天の川     小林一茶

やはり体調が悪くなってしまった。今日は食事以外、どこにも出かけず、時々、寝た。

咳が止まらない。

最近、小林一茶の本ばかり読んでいる。

一ヶ月前、信州柏原の小林一茶記念館へ行き、一茶関連の本を数冊買った。

一ヶ月も前に買ったのに、忙しさにかまけて、まだ読み終わっていないのである。

「旅の詩人」というと、俳句に於いては、なんと言っても松尾芭蕉である。

しかし、「旅をした期間」は芭蕉より与謝蕪村や小林一茶のほうが圧倒的に多い。

蕪村の人生は謎が多いが、絵師や俳諧師として一人前になるまで、大半は旅をして修業をしていた、と考えられている。

一茶は、一度も江戸や故郷に戻ることなく、関西、中国、四国地方などを巡り、なんと7年間も旅を続けている。

芭蕉は40歳の時、「野ざらし紀行」の旅に出て、46歳の時、「おくのほそ道」の旅に出た。

約7年間、旅をしていたわけだが、一つの旅の期間は長くても「半年」程度のものだった。

では、なにゆえ、芭蕉のみが「旅の詩人」と呼ばれるのだろう。

私はこう考える。

蕪村、一茶、そして多くの俳人(俳諧師)の旅はすべて「食べるための旅」「生活のための旅」だった。

近代以前、一芸に秀でた人は、定住するより、「旅」をしたほうが稼げたのである。

旅役者や武芸者などがそうである。

特に江戸時代、庶民も(それ以前と較べると…)全体的に生活も豊かになり、地方でも趣味を楽しむ人が多くなった。

そういう時代背景があった。

一茶も、

蕉翁の臑をかじつて夕涼み

(しょうおうの すねをかじって ゆうすずみ)

と詠んでいる。

「蕉翁」とは「芭蕉翁」のことで、

芭蕉様のおかげで、今日も「おまんま」が食える…。

ああ、ありがたい。

という意味である。

これなぞは、各地で俳諧好きの人たちに指導をして、謝礼を貰い、旅を続ける一茶の姿が浮かぶ。

「俳諧」は「おまんまの種」なのである。

また、

月花や四十九年のむだ歩き

(つきはなや しじゅうくねんの むだあるき)

という句もある。

「月花や」は「月や花や」という意味で、桜月夜のことを言っているのであろう。

一茶49歳の作で、「むだ歩き」というのは「生きんため」「食わんがため」旅を続ける、一茶の人生感懐である。

芭蕉の旅はそういう旅ではなかった。

芭蕉の旅には明確に「文芸としての目的」があった。

各地の歌枕を訪ねながら、詩歌の世界に遊ぶことを目的とした。

もっと言えば、おのが句と天地自然との「一体化」を夢見た。

そこが他の俳人(俳諧師)とは違う所である。

こういう俳人は過去にも現在にもいない。

古今東西を見ても西行法師と芭蕉だけであろう。

それはともかく…。

この句は宇宙を詠んだ壮大な句ではあるが、上記のような「喰うための放浪生活」の悲しみを帯びている。

俳諧の素晴らしさはそこを嘆きで終わらせず、「もどいて」みせることである。

「もどき」とは簡単に言えば「転換する」…、つまり「ひねる」ことである。

「孤独」を「悲しさ」ではなく「気楽さ」に転化したところに、この俳諧の意義がある。

「悲しみ」は遥か天空の彼方に置いてあるのである。