星の林に月の船
http://normanjii.jugem.jp/?eid=151 【星の林に月の船】より
~声で楽しむ和歌・俳句~ 大岡信/編
「万葉集」――
奈良時代に大伴家持らが中心になって編纂したといわれる日本最古の和歌集で、20巻約4500首の和歌を収めている。天皇、貴族から下級役人、防人まで幅広い階層の人びとの和歌が載っているところが、それ以降の歌集とは違うのだという。
そしてこの歌集には、「長歌」「短歌」「旋頭歌」などが、当時はまだ「かな」の成立前で「万葉仮名」で書かれている。そんなことを、代表的な和歌とともに、中学生のころ習ったのだったと記憶している。
本書の編者で、詩人の大岡信さんは若いころに、そんな「万葉集」を通読したことがあったそうだ。退屈するどころか、「こんなおもしろい歌が古代にもあったんだ」と、目がさめるような気持ちにさせられることもたくさんあったとそのときの感想を書いておられる。
日本語の詩歌はみな定型によって作られており、声に出して読むことによって、その美しさが、いっそうよく伝わるはずだと書く。詩歌を楽しむということは、ことばの世界への探検旅行であると思うとも“まえがき”に記してある。ならば、われらも“ことばの世界”へ探検旅行に出かけることにしよう。
まずは、この名高い和歌2首から。
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖振る(額田王)
紫の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我恋ひめやも(大海人皇子)
いきなりこの贈答歌2首で本書の幕を開けたところが素晴しい。作者2人はかつて夫婦であった間柄でありながら、この時、額田王は皇子の兄、中大兄皇子(=天智天皇)のおそばに召していたという事情があった。それを前提に、狩りの宴で詠んだ和歌だったのだ。どちらも好きな和歌。
“むらさき”は純白の可憐な花。夏の暑い盛りに開花の時期を迎えるのだったろうか。実際に目にする機会はあまりにも少ないが。教科書と同じような和歌で始まらないところがいいね。
天(あめ)の海や 雲の波たち 月の船
星の林に 漕ぎ隠る見ゆ(柿本人麻呂歌集)
中国の漢詩文からの影響やヒントがあったそうだ。本書の題名はこの和歌からきている。天空の豊かさを幻想的に描いた傑作だと大岡さんは書く。そういえば、もうすぐ旧暦の「七夕」だなあ(ちなみに24日がその日になる)。万葉人たちは旧暦で七夕をしていたのだから、私 たちも星合いの空を今一度見上げることにしよう。
君が行く 道の長手を 繰り畳(たた)ね
焼き滅ぼさむ 天の火もがも(狭野弟上娘子)
作者は伊勢神宮の斎宮に仕える下級女官であったが、中臣宅守(やかもり)と密かに恋し合ったことがばれ、宅守が流刑の地に向かうときに詠んだという慟哭の和歌である。本書は小学校高学年以上を読者の対象にしている割に、相聞歌が多く見られる。なんとも好ましいではないか。
相思(あいおも)はぬ 人を思ふは 大寺の
餓鬼の後(しりえ)に 額づくごとし(笠女郎)
大伴家持に24首の恋歌を贈った作者の「絶縁状」がこの1首。都が京都に移ると……。
しののめの ほがらほがらと 明けゆけば
己が衣々 なるぞかなしき(よみ人しらず)
平安時代当時の男女は、ふたりの衣を重ねて夜着にして共寝していたところから、「己が衣々」は別れの意味になるという。そしてまた「衣々」は「きぬぎぬ」と読み、「後朝」と掛詞になっている。「きぬぎぬ」について、本書に載っていないということは、 さすがに小中学生にはまだ早いということだな。
月をこそ ながめ馴れしか 星の夜の
深き哀れを 今宵知りぬる(建礼門院右京大夫)
愛する人、平資盛を失った悲しみ、つきあげてくるなげきに耐えぬいた末にたどりついた静かな1首だ。
遊びをせんとや生まれけむ
戯(たわぶ)れせんとや生まれけむ
遊ぶ子供の聞けば
我が身さへこそ動(ゆる)がるれ(梁塵秘抄)
平安時代末期に、後白河院が編ませた『梁塵秘抄』の歌。この歌を遊女の歌だとする見方があるそうで、そう読むと無心に遊ぶ子どもの姿に自分の流浪の人生を重ねた切ない歌となる。いきなり時空を「エイヤッ」と飛び越えることにしよう。
憂きことを海月に語る海鼠かな(黒柳召波)
召波は与謝蕪村の1番弟子だった人。おれには心配ごとがあってね、とクラゲがナマコがうちあけ話をしている句。もう少し続けさせていただきたい。
春みじかし 何に不滅の 命ぞと
ちからある乳(ち)を 手にさぐらせぬ
与謝野晶子のこの短歌は、大胆不敵な歌と、当時容赦ない悪評で迎えられたという。それにしても、中3ぐらいの男子生徒がこの歌を詠んだら、却って照れてしまうかもしれないなあ。
わがこころ 環(たまき)の如く めぐりては
君をおもひし 初めにかへる(川田順)
「老いらくの恋」と騒がれた作者の切実な恋の歌で、ういういしい吐息まで聞こえるような歌だと大岡さんは書いておられる。
石に腰を、 墓であったか(種田山頭火)
定住をきらい漂泊の思いにかられ、食を乞い、野宿する。山中、疲れて、ふと腰をかけた石が、墓石だった。何がそこまで山頭火を突き動かしたのだろうか。
枯れ枝をほきほき折るによし(尾崎放哉)
自由律俳句の代表が偶然並んだ。「ほきほき」というこのことばで俳句が生き生きとする。大岡さんはからっとした明るい気持ちを感じると書く。
竹馬やいろはにほへとちりぢりに(久保田万太郎)
「竹馬の友」だって、成長とともに散ってゆくのが世の習い。「色はにほへど散りぬる」ように散ってゆくさみしさを感じる編者がここにいる。編者が言う「散ってゆく」ということばには「距離的」な意味のほかに、今1つのそれがあるように思う。
ほとんどに 面変りしつつ わが部隊
屍馬(しば)ありて腐れし 磧(かわはら)も越ゆ
中国の河北省などに兵士として動員された宮柊二の作品。
黄泉に来てまだ髪梳(す)くは寂しけれ(中村苑子)
死んでもなお髪をすきつづける女のすさまじさを詠んで、それを「寂しけれ」と否定しているところに孤独感がにじみ出ていると。
うつくしきあぎととあへり能登時雨(飴山實)
「あぎと」とはあごのこと。能登の時雨と美しいあごを持った女と。旅の情感があふれ、落ち着いたふくよかな余裕が感じられると編者は語る。
万葉以降現代までのあまた歌のある中から、大岡さんは194作を選んで掲載している。この中には有名な歌人、俳人たちが出ているが、「のるまんじい的」な独断と偏見でそこからまたわずかばかりを選んでみた。何より歌人「大岡信」という人の「眼」の鋭さ、確かさを感じたことを改めてここに書いておきたい。まだまだ載せたい作品がいっぱいあるのだが、それよりも本書をお手に取って読んでいただけたらと思う。
岩波少年文庫の1冊ということで、小学校高学年を読書対象層と岩波書店では考えているようだ。だからといって、「なんだ小学生向きか」では、あまりにももったいない1冊である。中学校の教科書で習う短歌や俳句に比べて、本書の方が内容が深くずっと幅広い。そして“恋の歌”をこれほどまで選んであるのは何よりうれしい。のるまんじいとしては、中学生諸君にはどうしても読んでほしいと思い、「中学生向け」にしてみた。そしておとなのみなさんにも一読をお薦めしたい。
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星の林に月の船
~声で楽しむ和歌・俳句~
大岡信/編