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Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説29

2021.04.24 23:00


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



——書きたいの?

——描きたい。

——美容院いかないと。

わたしは笑った。そのままでいい。そのまま…と。わたしはささやく。

どうしよう?とタオは謂う。

惑う。彼女の心の中では、彼女以外の誰かの心が惑っているのだ。彼女が夢みた他人の心が、ね。何時にくればいい?と。タオは云った。

十時くらい?

わたしは云った。

どうしよう?

タオは云った。だから、傍らに姉を見詰める付ける蘭をみながら、私はタオに言った。

来るよ。タオは。

蘭はわたしを省みた。

その、そこに自生した蘭をでも見るような目で。

——わからないよ。

タオ。

——くるか、どうか、わからないよ。来なかったら、…来なくても、…ね。怒らないで。

そう云って、タオは歸った。

8月17日。

夢の中で、あなたはバルコニーに出て鉢植えの花に水をやっていた…だから、今日は晴れてたのかな?

すこし、ユニークな夢だった。

その鉢植えの花、何だと思う?

紅のポインセチア?

淡い白のカサブランカ?

黃の?うす紫の?チューリップ?

うす紫の滲んだ百合?

向日葵。

あなたが栽培していたのは向日葵だった。その種なす部分の粒ひとつひとつに夥しい向日葵が花づいていた。だから、そのひとつひとつの種なす部分にもさらに…。

夏の風に夥しい向日葵の花粉が匂う。

あなたは僕に気付きもしないで、鉢に一本立った無際限の向日葵に水をそそぐのだ…

十時にタオが来ることは知っていた。

だからホテルに言って、となりの空き部屋をもう一つ借りた。そこはアトリエにする積りだったのだ。言って、ベッドを片付けさせた。ホテルの人間はしぶしぶ従った。

それから、町の真ん中の画材屋に行って、あとで今ある一番大きいカンバスを持って来いと云った。

2.9×1.8の300號ならあると云った。私は答える、それでいいと。それから絵具。ホルバインの者しかなかったが、それでいいから全種類四本づつ持って来いと。

白もか?黑もか?

全部といったら全部だ。

画材屋が正気とも思わず文句言い云い食い下がるので、最後は怒鳴りつけて遣った。彼には理解できなかったろう。

十時三十分過ぎたころに、ちゃんと化粧したタオが妹を連れて来た。それなりに、良家のお嬢さま風のいかにもかわいらしく、且つ露出のすくない清楚な暖色のワンピースを着て。

タオは明らかに私を意識して、口から心臓を飛び出させそうに見えた。

部屋の中で一息入れて、不意にあわてるように、見つめるわたしに、きれいにかいてね、と。目を剝きながら媚びを売った。隣のアトリエに連れて行った。まず最初にわたしは彼女を失望させなければならなかった。シャワーを浴びて、化粧を全部落とせ、といったのだった。

あたりまえでしょう?

他人が書いた顔をなぜさらに私が書かなければならいだろう?ルーブルで模写しようとしているわけではないのだった。

タオは戸惑っていた。叱られたような顏を、だからわたしは云った、「わがままでごめんね」と。

彼女が笑んで、いいよ、と。そしてシャワールームに消えたときに、画材屋が到着した。

念入りな入浴だったとはいえ、もうシャワーの音が聞こえなくなってずいぶんたっていた。画材屋は二人係だったが、サービスでカンバスを組み立てると謂うのだった。その前に入り口からカンバスが出る者かどうか上下寸だけ量っていた。大丈夫だと笑う。わたしは無理なことに気付いていた。横がながすぎて通路には出れないだろう。出たとして、エレベーターに入る譯はなく階段をまがることも不可能だ。組み立て前の木材の状態でさえあれほど彼等が苦労した事実は彼等にはすでに忘れられていた(ここにきたときにはふたりとも肩で息をしていた。木材を抱えて階段を上ったのだった)。

出ないなら出ないでよかった。

いざとなればホテルごと破壊して仕舞え。

火をつけて。ホテルごと燃やして仕舞え…

タオはシャワールームの壁の向こうで、外の物音を窺っていたのだった。

自分一人でも不可能ではない(…モナ・リザ寸のそれの数倍の面倒くささはあるにしても)。原理的には大きなものも小さいものもすることに変わりはない…

画材屋がお互いに怒鳴り合うように指示しあい文句を言いあいながらカンバスが出来上がった時、時間はすでに12時近くになっていた。画材屋は私まで共に汗水ながしたかにも錯覚してさかんに労い、勝手に労いあいながら歸った。丁度晝だから、返って祝杯でも挙げるのかもしれない。彼等がゐなくなって、壁面一面を占領したカンバスの埃をタオルで叩き落としている時に、タオはようやく外に出て来た。

髮もふたたびあらったのか。

ぜんたいに、かすかに霑れていた(濡れた髮の匂い…それには生物学的な、ひたすら陰湿な、どうしようもないあられもない屈辱がある…そんな気がする)。

蘭はバルコニーで海を見る。…画材屋が来ると同時に逃げ込んだのだった。壁もなにもない自由な空間の中に、ひとり。

出て来たタオは私の背にカンバスを見て、叫ぶ。これに書くの?思わずに大きな声を立てて。笑みさえせずに。

タオは何の飾り気も無く、素直に驚愕だけしたのだった。

カンバスに向かって正面壁際に彼女を座らせた。そこしか場所がなかった。彼女が緊張しているのが分かった。同時に、恍惚?までいかない、低い處にとどまった、横に拡がる高揚。

興奮。性的な、とはいえない。性的な感覚のすべてをまでふくんで、にもかかわらずそれそのものとは形も場所も同じくしないもの…やわらかいひっかき傷のような。

タオの眼は瞳孔を拡げて、そして眼の前の私の方を見ながら私を通り越した向こうに、それでも私をだけ見つめるのだった。

スケッチブックももたずに彼女を見つめつづける私を、タオは訝しがらなかった。

なぜだろう?

見つめられている事自体にしか、もはや彼女は気付いてさえゐなかったのだろうか?

私がしたのはただ彼女を見つめるだけだった。

タオがしたのはただ、茫然の内に時に瞬くだけだった。

三十分ばかり…ないし、一時間近く、私は見つめ、彼女は見つめられた。私は我を忘れることはなかった。すでに昼食にも遅くなりかけた時間であることは気付いていた。ベランダのタオにパンを買ってくるように金を渡した。彼女が一人で買って来れるかどうか、わたしは知らなかった。タオはそれにも気づかないように見えた。

左り肩の際に立って、私がいた方の壁を見詰めるタオを見た。

斜めに見下ろして。

白い肌のきめの細かさ、及び、不意の、吹き出物迄いかない生き物の皮膚であることのあざやかな証明、ひと肌の白さのもつ様々な色彩夾雑…雑多で、収拾不能な…贅肉の、微妙な波立ちのような、…目を凝らさなければ見えない、息吹のような気配。

それら。

やがてタオのつま先のさき、タオの影がふれる寸前に留まる。

わたしは蘭を見た。

蘭は私を見ていた。

言われたのとは違うものの、彼女は手のこんだ菓子パンを、わたした10萬ドン紙幣で買えるだけ買い込んでいた。

紙袋から一つを取って、そして殘りは蘭に遣った。

タオの唇に、千切ったパンを当てた。

——お腹すいた?

何か言いかけたタオに、わたしは云った。

あわてて。

——動かないで。

わざと、ことさらにあわてて。

右の方で、壁にもたれて座り込み、容赦なく貪る蘭の、すすりあげる音が聞こえた。犬がミルクを急いで飲んでいるような、そんな騒音。

タオは恥をかかされたかの、陰湿で、惨めな色を眼差しと眉間に一瞬、曝す。

——じっとしてて。俺が、食べさせるから。

タオは私に言われるままに、わたしの与えるパンを咥え、咀嚼した。軈てグラスに注いだ水を、私に与えられた儘に吸い込んで霑う。

此の日はそれで終わり。ふたりは5時半には帰った。

彼女がしたのはわたしに見つめられること。私がしたのは見つめる事。蘭は貪った。パンを。そしていつものように暇を。昏い獸じみた眼で床に座り込んだままに。

歸り際、タオは一人で疲れ切った顏をしていた。いまだに麻酔注射が醒め切っていないかの。

彼女たちをエレヴェーターにまで送って、それから部屋に(寝室に)帰って、そうしたら自分が空腹を感じているのに気づく。

それから、一度だけ窓の外、昏む海を見た。

靑みを濃くした海は浪のせいで色を澄ませはしないのだった。決して。海の色は常なる狂騒と混乱、破綻と破壊と破滅の連鎖なのだ…

外に出た。角を曲がった時、まっすぐ一直線の通りの、やがてのカーブの木立に盡きた向こう、何かの翳りのぎざつきの上の一面、空の夕焼けの撒き散らした紅蓮を見た。

それはすさまじい色彩だった。

あらためて言葉をうしなうのだった。

8月18日

空の上に…雲の上に、たたずんで下を見下ろすあなたを見た…下は、晴れ?

それとも東京にいないのかな?

ともかく。

今日のタオは朝の九時に來た。蘭を連れて。

彼女がノックした時、わたしは実は今日彼女が來ることを忘れていたのだった(…なぜだろう?そのくせ、描いている絵の事は忘れるどころか…下塗りさえしていないにも関わらず、私にとって大作はすでに私にとりかかられているのだ。そのことしか考えて居なかった。繪、水浴画のこと以外、一切考えられてはいなかったのだ…)。

彼女はいつにもましておじけづいた顏をしていた。緊張と恍惚を解きほぐす術は私にはなかった。

タオは云った。呆れたように。冗談めかしながら、最初、アトリエの方にいったのだと。

居なかったね?行ったのに…居なかったから、こっちに来た。

鼻水を咬むような甘え聲で。

彼女にとって、私は已にカンバスに没頭しているはずだったのだった(或は、事実としてそうだったのだった)。彼女はなにも失望していたのではなかった。寝室にいた私に。ただ、自分が体験した事実に軽く驚いていたのだ。

私は彼女をアトリエに誘う。

蘭もついてきた(彼女は時に私の匂いを嗅いだ。前からそうだった。最初に逢った時から。

彼女は鼻のかぎとる匂いに何をみているのだろう?)。

椅子に座らせると、最初からスケッチブックを手に取った。

メイクは何もして居なかった。

少しだけスケッチを…何枚か。途中で中断した後に(描き上げることに意味などあるのだろうか?)タオが髪を束ねていたので、そのゴムをはずして、そして指にといてやった。

ありがとう、と。やや遅れてタオは云った。目を伏せもせず、私を見詰めて。

唇がなにか云おうとした。

なにも云わなかった。

立って。

と。わたしは云った。

ダナンはその日も雨だった。もう何日続けて雨が降り続けるのだろう?

治水の劣悪な國だった。どこかの鄙びた山際で、土砂でも崩れているのではないか?

ホイアンは水没しかけているに違いない…水害が名物なのだ。

立った姿の斜めに日が差した。

朝の日が、ながく床に翳をなげた。

私は膝間付いて、彼女のシャツのボタンをはずした。