浮遊するQ
空中に問題が浮遊している。問題は問われることを知らずあてもなく漂う。問題としての存在が明らかにされていない。存在の地位が与えられずにいるから、問題であっても問題と呼ぶことはできない。問題の顔を一瞥できるのは、それが何者かによって問われるときである。ただ、問われていない問題群を想定することはできる。問題はあくまでも問題であって解決されたものではない。問題と解決の関係には順序があり、問題のあとに解決があるはず。問題をQとし解決をAとしよう。すると(Q→A)という流れになる。いまだ問われていない問題まで図示すると(×→Q→A)となる。しかし現実には問われていないのであるから(×→×)となる。これはみえない存在(問題)を表現している。問いが成功すれば、(×→Q)に転換を可能にする。(→=問い)がなくては決して問題であるQは現れない。一概に問いと言っても、見当外れな問いはある。問題Qが、的だとするれば、的に向かって放たれた問いのみによって問題Qはその姿を暴露するだろう。気の遠くなる話である。まだまだ、解決Aの出番どころではないからだ。(ところで解決や解答は、問題の整理の仕方にも左右される。問題が明確ではっきりしているなら答えるのに労力が省ける。曖昧な問題に答えるのは難しい)。問題の形式にする、又は問題を限定することと、問うことの関係はまた難しい。というのは、問題というカタチを通過することなく直接、解決に跳躍することもあるからである(×→A)。この場合、問いが直接解決となる。さらに問題と解答の関係性も一義ではなさそうだ。解答を単純に問題の子供と考えてもいいのだろうか。道草を中断しよう。言いたかったことは、問われずにいる問題の未存在である。問われなければ問題は立ち現れないのだが、次いで解決もないことになる。私たちは解答の分かっている問題に時間を費やすべきではない。それなら、新たな問題を見つけるか、若しくは複雑で混乱している事象に問題という形式を与える作業に専念すべきなのだ。問うことの方向性についてもっと詳細に語るべきなのだが、これについては保留にしておきたい。問題は対象ではなくて、問いによってつくられるものかもしれない。問題があらかじめどこかに存在しているだろうという仮定は、「問い」とはどのようなものなのか、その本質に依拠するのではないか。