Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る!時代を「重ね合わせ、深く味わう旅」「ツイン・タイム・トラベル」とは? 松尾芭蕉、菅江真澄、イザベラ・バードなど

2018.04.26 07:31

https://blog.goo.ne.jp/tanemakuhito1921/e/809306936fc756ec314c4e21fecd3081 【故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る!時代を「重ね合わせ、深く味わう旅」「ツイン・タイム・トラベル」とは? 松尾芭蕉、菅江真澄、イザベラ・バードなど】 より

2020年(令和二年)は、松尾芭蕉の「更科紀行(1688年)」から332年後に当たります。

「ツイン・タイム・トラベル」とは、イザベラ・バード論の研究者として有名な京都大学の*金坂清則(かなさかきよのり)名誉教授が、命名した「新しい旅」の形として言葉であり、「過去の旅行記に描かれた旅の時空と自分が今行う旅の時空を同時に楽しむ旅、つまり、二つの(ツイン)時(タイム)の旅(トラベル)を重ねあわせながら、さらに深く味わう旅」のことのようです。

金坂教授はイザベラ・バードが書いた『中国奥地紀行』という本の翻訳をしていますが、バードが書いた日本や中国の旅を追体験したり、江戸時代の儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)が書いた『京城勝覧(けいじょうしょうらん)』という京都めぐりの本の追体験をとおして、「ツイン・タイム・トラベル」を楽しみ方・味わい方を提唱しています。

*金坂清則1947年生まれ。地理学者。京都大学名誉教授。王立スコットランド地理学協会特別会員、日英協会賞受賞。

訳書『完訳 日本奥地紀行』(全4巻、訳注)で日本翻訳出版文化賞受賞

1688年旧暦8月15日、45歳の松尾芭蕉は美濃から、木曽路、信濃路を経て善光寺に至るという「更級紀行」を記している。

私も、御柱祭の年に、その「更科紀行」の路を辿った経験があります。松尾芭蕉の「更科紀行」をはじめ、田中 欣一さんの「新更科紀行」やすずき

大和さんの「まんが松尾芭蕉の更科紀行」なども読み参考になりました。

信州、長野県姨捨の長楽寺は「お月見」の名所であり、いわゆる俳諧の聖地の一つでもある。「更科紀行」は「奥のほそ道」への旅に出る前年にあたる「紀行文」の一つでもある。

「さらしなの里、おばすて山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の、心に吹さわぎて・・・・・」と姨捨での月を願いながら、美濃から旅立ち姨捨を目指すと「更級紀行」の冒頭に記されている。

江戸時代後期の菅江真澄(すがえますみ)もまた、芭蕉が訪れてから約80年後、19歳の時に信濃、姨捨の地を踏み、長楽寺にてお月見をした。

菅江真澄は今の愛知県東部にあたる三河国(みかわのくに)で生まれました。1783年(天明3年)、30歳のころに故郷を旅立ち、今の長野県塩尻市(しおじりし)を中心に1年余りを過ごしたのち、新潟、庄内(山形県)から秋田、津軽(青森県)を経て岩手・宮城をめぐり歩きました。

1788年(天明8年)夏、津軽半島から当時は蝦夷地(えぞち)と呼ばれた北海道へ渡り、松前を中心にアイヌの人々の風俗を見聞しました。4年にわたる北海道の旅を終えたのち本州へ戻り、下北(青森県)と津軽をおよそ8年間にわたって探訪。そして1801年(享和元年)に再び秋田に入ります。この時真澄は48歳でした。

再度の秋田入りから没するまでの28年間、真澄は秋田に腰を据え、1829年(文政12年)今の秋田県仙北市(せんぼくし)で亡くなりました。76歳でした。墓は秋田市寺内にあります。

紀行文学旅行によって体験したり見聞したりしたことを中心につくられた文学作品で、日記、書簡、詩、随筆のような形式を用いる。

日本の場合、紀行文学は広義の日記文学のなかに入り、随筆文学とともに自照文学の一角を占める。散文を主とするが、とくに古典文学には詩歌を挿入したものも多い。近代には書簡体のものもある。なお、『梁塵秘抄

(りょうじんひしょう)』や宴曲(早歌(そうか))のなかの地名を列挙した歌謡や、主人公が旅行く道程を美文で描写する中世以来の道行文(みちゆきぶん)

(軍記物語、謡曲、浄瑠璃(じょうるり)など)、さらに主人公の旅を全部もしくは一部のモチーフとした『竹斎(ちくさい)』(富山道冶(とみやまどうや)

)、『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』(十返舎一九)、『金色夜叉(こんじきやしゃ)

』(塩原の景など。尾崎紅葉)、『旅愁』(横光利一)などは、創作文学という点で紀行文学ではないが、関連はある。

発生・上代

日本における紀行文学は次代の『土佐日記』に始まるが、上代にもその萌芽(ほうが)はある。一つは、記紀歌謡の八千矛神(やちほこのかみ)のものや仁徳

(にんとく)天皇の后(きさき)磐之媛(いわのひめ)の旅を叙したものなどで、後世の道行文の原型といえる。もう一つは、『万葉集』のなかの柿本人麻呂

(かきのもとのひとまろ)(巻2)や高市黒人(たけちのくろひと)(同)の旅の歌群や、遣新羅使(けんしらぎし)

の歌群(巻15)などで、地名と感情を詠み込み、紀行文学の原型といえる。

中古

平安時代に入ると入唐(にっとう)僧の紀行『入唐求法巡礼行記(ぐほうじゅんれいぎょうき)』(円仁(えんにん))、『行歴抄(ぎょうれきしょう)

』(円珍)などがあるが、構想や自照性その他から紀行文学の祖とすべきは、紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記』である。この時代には、ほかに『増基(ぞうき)

法師集』(別名『いほぬし』、成立年時未詳)があり、『更級(さらしな)日記』の冒頭部も上総(かずさ)から都へ上る紀行文学となっている。また平安貴族の物詣

(もう)で(社寺参詣(さんけい))の習慣を反映して、『蜻蛉(かげろう)日記』や『更級日記』にも初瀬詣でその他の部分がある。

中世

鎌倉時代に入ると、院政期からいっそう盛んになった寺社参詣の流行を背景に『高倉院厳島御幸記(いつくしまごこうき)』(源通親(みちちか))、『伊勢(いせ)

記』(鴨長明(かものちょうめい)、散逸)などが書かれ、また京都と鎌倉を往復する文化人も多く、『海道記』(作者未詳)、『東関(とうかん)

紀行』(同)、『十六夜(いざよい)日記』(阿仏尼)なども出た。また、平安後期の能因や西行(さいぎょう)に始まる歌枕(うたまくら)

探訪と漂泊の旅を行う隠者も現れ、『問はず語り』の後半などはそうした紀行である。南北朝・室町期には社寺参詣や風流漂泊の旅のほかに、戦乱や地方大名の勃興

(ぼっこう)による文化人の移動も多く、また将軍への随行や武将の出陣、遠征などの旅もあり、多数の紀行文学が書かれ、現存するものでも約50に上る。とくに宗祇

(そうぎ)ら連歌師のものが注目される。

近世

文化人の旅はいっそう盛んになり、芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』その他はとくに有名・重要であるが、賀茂真淵(かもまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)

、菅江真澄(すがえますみ)ら国学者や荻生徂徠(おぎゅうそらい)、貝原益軒など漢学者にも作品がある。

近代

近代にも正岡子規(しき)、長塚節(たかし)、高浜虚子、若山牧水など歌人・俳人系統のものがあるほか、明治には大和田建樹(たけき)、大町桂月(けいげつ)

、田山花袋(かたい)らの美文による紀行文学の流行があり、また幸田露伴(ろはん)、小島烏水(うすい)らの写実的なものもある。大正期以降にかけては徳冨蘆花

(とくとみろか)の『日本から日本へ』、島崎藤村(とうそん)の『海へ』『エトランゼエ』など海外旅行を素材とするものや、木暮理太郎(こぐれりたろう)

、田部重治(たなべじゅうじ)(1884―1972)ら登山家のものも注目される。さらに現代には記録文学の姿勢による紀行文学が多くなっている。

1958年(昭和33)、『現代紀行文学全集』(修道社、全10巻)が刊行された。ここには日本各地域編、山岳編、詩歌編などで構成された膨大な量の紀行文が掲載されている。また1959年から1961年にかけては『世界紀行文学全集』(修道社、全21巻)が刊行され、日本人の海外旅行紀行文集大成ともいうべき膨大なシリーズが完成した。以降はこのような大規模な紀行文集は刊行されていないが、交通手段の驚異的な発達による海外旅行の増加、海外留学あるいは海外在住体験者の増大によって、紀行文がエッセイの領域と相まって枚挙にいとまなく出版され続けている。

特色

日本人は、自然を人生と対立するものとしてでなく人生の一部としてとらえ、自然と一体化しようとするのがヨーロッパ人との大きな違いで、その点が紀行文学に端的に出ている。歌枕や美しい風景に対する態度やその描写にもそれがみられる。また散文の中に韻文(詩歌)を挿入すること、叙景と叙情が渾然

(こんぜん)一体となっていることなども、日本文学の特色とされている。

🔺紀行文学、日本大百科全書(ニッポニカ)

[福田秀一・平野和彦]の解説より一部抜粋