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私にとっての「避難所」

2018.04.26 07:53

Facebook・船木 威徳さんさん投稿記事【 私にとっての「避難所」 】

中学、高校と、普段の授業や長期休暇の国語の宿題をほとんど提出しなかった私などが「国語」、あるいは「ことば」について偉そうな話はできるわけもないのですが、ただ、昨日、ふと、ある小説のことを想い出し、現在の社会のありように考えることがありました。

小学生のときに初めて読んだ、志賀直哉の「小僧の神様」。

大正9年。つまり、1920年ですからほぼ100年前の作品です。小学生の私が、当時、なんとも言えない切なさ、悲しさ、やるせない想いを持ちました。

同時に「奉公」という、ある意味で努力してもなかなか報われるチャンスの乏しい立場で自分が主人公なら、それから、いったい、どこに希望を持ち、どう生きていくだろうか?

そんな出口のない道にいるような、暗然たる想いに眠れなくなったのを覚えています。

それと同時に、100年前からすでに超高級食であった鮨についても、「いつか、自分も食べてみたい」と感じたものです。

社会人になってから、私が、医師になってから、さまざまな個人的な壁にぶつかり、あるいは、社会の弱者として生き、死んでゆく人たちを間近に見ながら、ときにその亡骸を触りながら、どこにぶつけるべきか、だれと話し合うべきなのか、どこに解決の糸口を見いだすべきなのか、まったく見当もつかない問題ががれきの山のように積み重なっているのを見てきました。

限りない力を得た龍のように社会を飲み込み、私を含む、ほとんどの人間たちを、足蹴にし、踏みつけながら食い荒らしてゆく者たちの前に結局なすすべも無く、従うしかない。

そのとき、私が、自分の無力さに失望しながらも逃げこむ先となってくれた場所。

そこで、わずかでも力を得て、いつ尽きてしまうかさえ分からない希望を、それでも与えてくれた場所こそ私にとっては、若いときに親しんだ、「文学」でした。

いまの世は、だれがどうごまかそうが、人間の知性、感情、礼儀といったものを、徹底的に破壊しようとして、休むことのない闘いを挑んでくる邪念に満ちた圧倒的な力に満ちた敵

(もはや人間性を失っている者たち)と、人間との対立が、そこここに満ちています。

人と人とが集まらないよう、敵が、あの手この手で私たちの関係を分断してくる目的は、最初から感染症の予防になどない、と私は考えています。

そうではなく、互いに励まし合い、互いに礼儀を尽くして、教え合い、支え合って「人間として生まれてきてよかった」と人間らしく感じられる人生。

限りある人生だからこそ、それぞれの立場でこの世がわずかでも「よい場所」になるよう、

努力し合い、学びあって、なにかを残せる人生。そんな人生を創造する時間や場所を破壊すること、最初からそんな希望など、持ち得ない世界にすることなのだと、私には感じられてなりません。

どんな立場の者たちにも忖度せずに、事実を、知性に基づいて分析し、先入観なしに、次の行動を決定するためにますます、(知性に基づいた判断による)勇気が必要とされています。

もしも、敵が、私たち一般の人間を分断し、その心も体も、権利や自由も制限し始めたら、

次にやることは間違いなく、「学べなくする」「読めなくする」ことでしょう。

正しい言葉遣いすらおぼつかず、品性、知性を失ったマスコミ報道など、可能な限り遠ざけ、人間が人間らしく、自由に感じ、自由に発言し自由に生き、死んでゆくためには

今こそ、私たちがどのようにことば巧みに自由や権利を奪われてきたのか歴史に学び、芸術に慰めと力と、生き抜くためのヒントを得なければなりません。

人間は過去、何千年も同じようなことに悩み、同じような失敗を繰り返し、同じようにたくさんの命を失ってきました。

ことばを大切にし、ひとりひとりが今一度、文学や音楽、絵画を自分の避難場所として大切にし 学び、味わい、そこに慰めを得る時間を持ち続ければ、私たちは、知性を失わないで、対立しないで生き抜く力を生み出せるはずだと信じています。

どこかの首長が、「エッセンシャル・ワーカー」などと発現していましたが、私はそこに、想像力の乏しさ、権力者のぶざまな不遜を感じずにはいられません。

そして、私は、共産主義やそこに至るプロセスにある社会主義を、心の底から憎んでいます。

現在の社会のあらゆる場所に、巧みにすり替えられた、これらの主義が巣くっている事実には反吐が出そうなくらいの不快を感じています。

残念ながら、徹底して学び続けなければ分かりません。

書物や音楽、優れた絵画や映画などの芸術こそ何があっても守らねばなりません。

それが、そのまま私たち自身を(愛や感動を知らない)ある意味で真の意味で「貧しい」敵たちから守り、私たちの子孫を守ることに繋がるのだと私は信じています。

~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり

2年前この日の思い出を見る船木 威徳2019年2019年4月26日 ·

【 本当の「ゆとり教育」 】

私の知る限り、非常に多くの職場でいわゆる「ゆとり世代」の若い人たちと分かり合えない、どう関わり合えばいいのか分からず対処に困り果てている人たちがいます。

「ゆとり世代」とはゆとり教育を受けた世代のことであって「小中学校において2002年度施行(高校は2003年度)の学習指導要領による教育を受けた世代、すなわち1987年4月2日~2004年4月1日生まれ」の人たちを指すことが多い。今で言うと15歳から32歳の人。

現場での困りごとを聴いていると、「周囲が期待したとおりの行動をとってくれない」というものが非常に多いように感じます。

私にしてみれば、「ゆとり教育」そのものはあまり関連せず、大昔から繰り返してきたように「今の若い者は・・・」の繰り返しに見えます。

ただ、私がゆとり世代の人たちに、たびたび感じることがあります。

偉そうに聞えることは重々承知の上で言うなら生きてゆく、人間関係を作ってゆく、仕事をしてゆく上での「基礎力」がすこし足りないのではないかというものです。

人は、コミュニケーションをとって生きてゆきます。

確かに非言語のコミュニケーションもありますが通常は、他者とわかり合うために言語を使い、自己を表現するために言語を使います。語彙の蓄積がなく、実用の方法論を知らなければ信頼に基づいた人間関係も作りにくくなります。

簡単に言えば、ことばを使いこなせないと、かなり損をします。

例えば、発熱を訴えてクリニックに来る若い人たちが、問診表に自分の症状の経過をわかりやすく書けないことはしょっちゅうです。

問診表にある質問に対応した答えを書けない、そんな人もめずらしくありません。もちろん口で話し合っても同じです。

私の母校に、非常に有名な国語の先生がおられたので、ご存じの方も多いかと思いますが、

その橋本武先生が著書のなかでこう言っています。

「国語の学習は人間生涯の問題であり、人間形成の原動力であります。そうして、中学・高校の時期はその蓄積期であり、将来への期待が花開く時期でもありましょう。こういう考え方にもとづいて、私は諸君に対する国語教育に、出来る限りの幅の広さを導き入れようとしてきたし諸君のもつ力を、自らの手で啓発していくように指導してきたつもりです。」

(<銀の匙>の国語授業、岩波ジュニア新書)

その先生が、ゆとり教育についてもまた以下のように書いています。

「さて、私がめざしてきたのは『国語の基礎力をつくる」ということでした。すべての試みはそれと関わっています。受験に関していうなら、どの科目もそうですが、記述式の試験になると、基礎力の差はてきめんに出ます。

(中略)

私が言っていたのは、「受験が目的の勉強ではなく、この勉強をしていれば結果的に受験に有利になる」ということでした。だいたい大学への進学は人生の目的ではなく、ひとつの手段なのですから。

結局、これは本当の意味の「ゆとり教育」なんですね。いま言われている「ゆとり教育」は遊び時間を増やすことなのかと思いたくなりますが、そうじゃなくて、水準以上のことをやっているから心にゆとりが持てる、そうあるべきです。もっとも先生が大変ですけど。」

(<銀の匙>の国語授業、岩波ジュニア新書)

決して、ゆとり世代の人たちに限らず私たちが生きてゆく上で相互理解を充分にはかり

楽しく、幸せな人間関係を構築してゆくには私は、言語を使った自己表現の手段をすこしでもたくさん身につけることが非常に重要だと考えています。

その能力を啓発するための練習方法として私が橋本先生の著書を通じて学び、出来る限り、実行しているのは「とにかく、見たこと、聞いたこと感じたこと、考えたこと、何でも、文章にしてみること」です。

自分が書くことで読んだもの、見たものの批評鑑賞が徹底します。特に

①読後感を書くこと~簡単でいいので読後感を書くと読書が完成します。

②日記をつけること~毎日の思索が深度を増します。そもそも、私がFBを始めたのは自分の日記のためでした。

③詩や歌を作ること 文学作品でも演歌やポップ音楽の詩でも、感動した部分を書き出し、自分ならどんな表現をするかを競います。これを繰り返すと流暢な表現が得られるようになると言われます。

できる限り他者を理解し、自分自身を理解してもらう。技術が発達しようと、どんな時代も、決して、すべての人と分かり合えることなど不可能です。

ゆとり世代の人たちをやり玉に挙げる前に、先輩たちが進んで、他者を深く理解しようと

努力する姿を見せることが(どんな場所・職場でも)なによりの教育だと思えてならないのです。

写真は#1 何度も読んだ橋本武先生の著作、

#2 作詞のしかたをときどき真剣に学んでいる教科書

#3 小学生の娘に、憶えたことわざを書き出させて、

私がおもしろい話を即興で作るネタにしているもの。

いきなり「親はなくとも子は育つ」って・・・。

~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり