多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説32
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
使つたばかりに 濡れてゐるのを
正気付くと、顏の真正面に——すぐちかくに(くちづけする寸前、とでも?ないしほおばる寸前、とでも?もっとやわらかく、もっと切なく、ふれあう寸前の、とでも?)巨大な顏があった。
顏は形もなく、色もなく、靑いさざなみを無数に立てながら腐り続けていた。
それは(——女。
だから、彼女、と。
本当はそんであげるべきなのだ。…腐った、滅びれない不盡の死者。永遠に生き腐れの死者たち、ないしとめどもなく死にゆき続けるだけの、もはや生きてなどいないものたち)私を見つめ続けていた。
そして語り掛けてさえいたのだった。
彼女の見出した私のすべてを?
人の言葉でさえなかった。
声でさえ。
獣の声でさえ。
なにもかも彼女は已に忘れているに違いないのだった。
かたわらに泣いた猫の長い鳴き声さえも、於麻非蔽波 於麻蔽波…と。
顏はささやくのだった。
於麻蔽波 於麻蔽波
喰宇多婁?
喰宇多婁?
あの古斗麿も喰宇多婁?
あの佐留麿も喰宇多婁?
吐かれるぞ
吐かれるぞ
くちからどろっと 吐かれるぞ
古斗麿口から波迦禮留曾
佐留麿口から波迦禮留曾
わたしは見ていた。彼女の見た風景を。あるいはここの、いつかの戦争の時の事なのか。かのじょは横たわって見ていた。路上に。戦車でも通り過ぎた後だったのか。
灼けた、乾いた匂いがした。
向こうから全裸の子供がひとり走っていきた。。
彼女の許へ等ではない。
だれも見分けなど附くはずがなかった。彼女はすでももう十分燒け崩れていたから。
その見知らない子供は5歳?
蟹を正面に向かってむりやり歩かせたように。
幼児は走った。
その右手の草村に、男が一人身をもたげた。いまだ正気付かない儘、ぼろぼろのおとこは周囲を見回しかけ、其の時に横殴りの銃弾が男をなぎ倒した。
まぐれあたりに脳漿をふきとばして。我に帰った時に、足元には床があるだけだった。
少し離れたベッドの傍らに蘭が倒れていた。
私は冷静だった。
蘭が無傷だということは知っていた。私になにも混乱はなかった。ほんの二度三度で、わたしは辞めたのだった。だから。
私は思っていた。今、自分はあの巨大な顏を通して見ているに違いないと。
すべて、…私が現に見ているすべてを。ないし、あの無数の擦り付けられた顏を通して?
あるいは、顏を上げた正面たちつくして見つめる陽炎の眼を通して。
昏い、永遠に生き腐れ陽炎は躬を傾けて(もはやまともに立てもしないのだ。ひだりだけ肥大化し、膨張し、無際限に血の粒を玉散らす…)そのどうしても見えない眼窩の私の眼の見えない眼窩のそれ、眼差しをとおして。
私の前で、私は生き腐れのわたしを見ていたのだった。
私たちに差異はなかった。
同じものはなにひとつなくに、わたしたちに差異はなにもなかった。…
故に、かくしようもなく、彼は他者でさえなかた。
わたしは蘭をつま先で押した。
その、うつぶせた腹部の脇を。
脱力した(失神はしていなかった。正気付いていても失神しているに変わらない彼女は、いま、まざまざと目覚めていたのだ)蘭の腹部はいや生々しくぶよついた。
生き物の、やわらかな弾力。
私は彼女の襟をつかんで(…白いTシャツを着ていた。湿っていた。汗をかいたのだろう。わたしのせい?すくなくとも、私の棒力の?)無理やり起き上がらせると、蘭は自分の足で立ちかけて、そして後ろ向きに倒れた。
ベッドの上で彼女は撥ねた。
私は思いだしてゐた。
そもそも水浴に存在しているのは彼女だった筈だった。
タオが途中で割り込んできたのだ。
だから、もう一度やり直すべきにも思われた。
わたしは彼女を裸に剥いた。
褐色の肌が日にさされた。
直射された部分の、褐色の色をなくした白濁。
私は見ていた。息遣った。
蘭も(彼女はただ顔をそらして向こうの壁を見ていた。私を見る事を厭うたのではない。
自然な体躯の折れ曲がったながれでそうなったのだった)息づかう。
腹部の上下がそれを私の眼差しにしらせた。
息の音はなにも聞こえない。
雨音は遠い。
私は彼女を描いた。
タオのノックが聞こえた時、時間の経過さえわすれたスケッチを私は中断しなければならなかった。ドアを開けた。その時に、わたしは私が蘭のことを秘密にする必要さえ感じて居なかったのに気づいた(あるいは、ぼうぜんとして、彼女の眼にふれることに気付かなかった、のか?)。
陽気な気配のタオは部屋の中に入るだに息を飲んだ(文字通り、その音をわたしたちは聞いたのだった)。
タオは見ていた。
妹を。
その目の色は見えなかった。
私には背を向けていたから。
彼女の(タオの。おそらくはタオの…)髪の毛が匂った。
タオが振り返った。
怒りの表情も懐疑の表情も無かった(それらを通り越した?)。
タオは(斜めに暗い光にあたったタオの睫毛はうつくしい)云った(微笑みに近い、それでもそれにまでは到らない、曖昧で、やさしい…)——帰る、ね。
それ、鼻水を鼻の奥に咬むような。
ふたたびベッドの方を向いたタオが、蘭を殴りつけるのを私の眼だけは見ていた。そうはしなかった。寧ろ彼女はいややさしくに妹に周囲の衣服を取って投げ、茫然としたままの妹に軈て着せ始めるのだった。
——明日も、来るね。
返りきわにタオは云った。
——ね。
ささやく(是はわたし)。
——あした、夜、時間ある?
蘭は笑んでいた。表情を感じさせない笑みだった。心が、たぶん、いまだ動き始めても居ないのだった(わたしにはそう思われた。実のところはわからない)。
——あした?
私はうなづき、彼女に笑んだ。
——そうだね、ちょっと、まだ、わからないけど、ね、のこれたら、のこるね。
タオはそういった。
出て云った。
外はいまだに雨が降っていた。
ふたたびタオはその髮を濡らすだろう、と。
私はそう思った。
8月20日。
夢を見ました。(あなたは思っているのだろうか?あなたは(——これはあなたにとってのあなた、即ちあなたの僕のことですよ?)いつでも夢を見ているのだと?
狂った?
でも、わたしがそうと見止めはしないだろう。譬え暴力的な棍棒で口から肛門まで太陽を突き刺されたとしても…
なぜ?
それはあなたの無能を証明して仕舞うから。僕はあなたの爲に祈るような気持ちで)夢を見たのでした。
ささやかな夢。
指先に蝶が止まる夢。
それだけ。
鱗粉をちらすことさえない。
ゆっくりと、羽根はふるわされるだけだから。
それだけ。
歎きや、悲しみや、怒り、ないし悔恨?もしくは不意にわき出でた喜びのような物…たとえばある日にこうした、今日のようななんでもない一日のなかにこそ本当に心に染みわたる幸せってあるんだなと、まるで目の前の風景ときには事象のことごくさえ追憶するように体験してしまう、…そんな。
わかりますか?
それら、さまざまな感情が感情として形をなすまま(それらは形などなさないのです。形は、追憶して見いだす僞りの、…正確には利口な蜥蜴と瀟洒なみのむしのごとき擬態の見え方に過ぎないのでしょう)ひとつに固まって、僕は蝶をみていた。
わかりますか?
あなたにはわからない。
それ、よくわかる。けれども、どうしてだれかに傳えたかったのです。
ともあれ、あなたは曇り空の下にいた。
一日中。
私と同じように(今日は時々霞みにまがう霧雨が木の葉を濡らした。
ココナッツの。棕櫚の。そしてブーゲンビリアの。時に。
ほんとうに、ほんの時々にだけ。濡らされた花々。
さまざまな)。蘭をつれて來たとき、今朝、タオは夜のことについては何も言わなかった(彼女は迷ってなどいない。すでに決めているわけでもない。
なにも知らない儘に、彼女は軈てなにが起きるのか知っているのだ。
いわば中身のない空っぽの記憶として、彼女は軈ての夜をすでに知っていた)。
私もなにも聞かなかった。
彼女は可愛らしく見えた(いつもそうだった)。
蘭は、昨日の事など意に介さなかった(記憶していないのではない。おそらく鮮明に覚えているのです。ここで、すこしわたしたちは考えなければなりません。過去の事象をもとに軈ての起きるべきことに怯えると謂うのは、それこそすさまじい暴力性がありはしないか?
蘭には過去と軈てとを関連付ける暴力性を欠いているのです。
彼女にとって、昨日の暴力はまざまざと焼き付いている。それそのものの固有のじしょうとして。
故に、それは一切の不安も怯えも軈てにも今にも持て來たらせないのでした…
彼女を狂気の人と謂えるだろうか?むしろわれわれのほうこそ狂っているのだ。
そう思いませんか?)。
今日は彼女に構っている暇はなかった。
わたしにとって、今日の彼女は今日の私の赤の他人に過ぎなかった。表情のない顏をして、そしてわたしの傍らに(影をふみそうなほどにそばに)いただけだったといっていい。
今日の報告では私は、わたしが彼女たちにだけかかわっていた譯でもない事を証明できるので(彼女たちの事など些末なことにすぎない。私にとっても、地球にとっても、阿輸迦王にとっても、阿輸迦の花そのものにとっても)すこし、心が和らぐのを感じる。