蓬莱に聞ばや伊勢の初だより
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/iseyori.htm 【蓬莱に聞かばや伊勢の初便】より
(真蹟自画賛/炭俵)(ほうらいに きかばやいせの はつだより)
元禄7年元旦。江戸にて作られた句。歳旦句として京都で出版する予定であるとしているがその歳旦帖は現存しない。この句の解説は芭蕉自ら、「曲水宛書簡」、「意専宛書簡」、「許六宛書簡」などで説明している。
元禄7年は芭蕉の人生最後の年である。新春を寿ぐめでたい句でありながら、歳旦吟に伊勢が出てくるのは、無意識の中に最後の旅への情念が萌芽していたためであろうか。
蓬莱に聞かばや伊勢の初便
蓬莱は、ここでは正月の飾り物の蓬莱飾りのこと。三方に松竹梅を立てて、白米・歯朶・昆布・ゆずり葉を敷き、橙・蜜柑・柚・橘・かちぐり・野老・ほんだわら・ころがき・伊勢海老・梅干しなどをその上に飾る。新春の景物である。その蓬莱にそっと耳を寄せてみると、伊勢神宮の清浄な空気が伝わってくるようで、これが伊勢からの初便りだというのである。 (『去来抄』参照)
https://yeahscars.com/kuhi/hatsudayori/ 【蓬莱に聞ばや伊勢の初だより】より
ほうらいに きかばやいせの はつだより
蓬莱に聞ばや伊勢の初だより元禄7年(1694年)、松尾芭蕉 の歳旦句。炭俵(1694年)所収。春部之発句立春に分類される。この年の冬、芭蕉は大坂で没する。
句の中の「蓬莱」とは、正月の蓬莱飾りのことであり、それに耳を寄せると、芭蕉の故郷にも近い伊勢の神々しい初便りが聞こえてきそうだという意味である。
この句は、元禄7年正月29日付の曲翠宛の年賀状に対する返書に、以下のように見られる。
年始之貴墨、忝到拝見候。愈御無異、御家内・御子達御息災に御重年之事共、珍重候。愚夫不相替春をむかへ申候。
当年は武府之俳者、新三つ物共出し候とてさはぎののしり申候へ共、正秀には我を折申し候。愚句京板にて御覧可被成候へ共、
蓬莱にきかばや伊勢の初便
伊勢に知人音づれてたよりうれしきとよみ侍る慈鎮和尚の歌より、便りの一字をうかがひ候。其心を加へたるにては無御座、唯、神風やいせのあたり、清浄の心を初春に打さそひたるまでにて御座候。
去年は当府に御入、初春の出合、初笑の興もめづらしく候へば、一入ことし御なつかしく奉存候。まれまれなる雑煮を御振舞申候。ことしは御宿にて御あぐみ候ほど、おうはさしいで被申候。委細後便可申上候。頓首
正月廿九日 はせを
曲翠雅公
竹助殿御成長、其妹御、見ぬ内より御なつかしく候。御染女、御息災たるべく候。
また、元禄7年2月25日付の森川許六宛書簡に、次のように見える。
愚句は、子共のけしきあれたる躰に見請候へば、一等鎮め候而目にたたせず候。彼いせに知人音信てたより嬉しきとよみ侍る、便り一字を取つたへたる迄にて候。
元禄7年正月二十日付の意専宛書簡では、京都の井筒屋庄兵衛発行の歳旦帳に載ったことが分かり、以下のようにある。
愚句京板に出候而、門人の引付ごとに書とられ候間、いづれにて成共御覧可被成と、書不申候。便り一字、慈鎮和尚より取伝へ申候。
ここに言う慈鎮和尚の詞とは、拾玉和歌集の「此たびは伊勢の知る人音づれて 便りうれしき花柑子かな」。この句は、向井去来の「去来抄」において一番に取り上げられている。
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句評「蓬莱に聞ばや伊勢の初だより」
向井去来「去来抄」170?年
深川よりの文に、此句さまざまの評あり、汝いかが聞侍るやとなり。去来曰、都又は故郷の便ともあらず、伊勢と侍るは元日の式の今やうならぬに神代をおもひいでて、たより聞ばやと、道祖神のはや胸中をさはがし給ふとこそ承り侍れと申す。先師返事に、汝が聞く処にたがはず、今日神のかうがうしきあたりをおもひ出で、慈鎮和尚の詞にたより、初の一字を吟じ、清浄のうるはしきを蓬莱に対して結びたる也と。
花園神社の句碑(東京都新宿区)
蓬莱に聞ばや伊勢の初だより内藤新宿の総鎮守である花園神社は、大和吉野山より勧請された神社で、江戸時代には花々が咲き乱れていたという。その境内社である威徳稲荷神社横に、この句碑がある。安永7年(1778年)仲秋、内藤新宿惣旅籠中の建立であり、社殿が消失した安永9年(1780年)、文化8年(1811年)の大火にも耐え忍んできたもの。
碑文は、「翁尾州名古屋に春をむかへ其ころの当社院主ことにしたしかりけれは文通に此発句を書そへおくられしよしつたへ聞いて今こゝにしるしとゝむ 蓬莱にきかはや伊勢の初たより」。
この文言が正しければ、この句の成立が、芭蕉最晩年との通説を覆すことになる。
【撮影日:2019年12月13日】
http://www.basho.jp/senjin/s1201-1/index.html 【蓬莱に聞かばや伊勢の初便 芭蕉(炭俵)】より
物みな改まる正月に、中国伝説で不老不死の霊山とされる蓬莱山をかたどった飾りものが「蓬莱」、「蓬莱飾り」である。飾るものは地方や時代によってさまざまのようであるが、いずれにしても、松竹梅や鶴亀、或いは穂俵、海老、搗栗、野老、橙などのめでたいものである。
掲出句は、床の間に飾ってある「蓬莱」を前にすると、伊勢神宮のある伊勢からの初便りを聞きたいという厳粛な気分になることだ、と言う意。
この句は『去来抄』の最初にも取り上げられて、当時からわかりにくい句という論評があったようだ。
深川よりの文に「この句さまざまの評あり。汝いかが聞き侍るや」となり。
去来曰く「都・故郷の便りともあらず、伊勢と侍るは、元日の式の今様ならぬに神代を思ひ出でて、便り聞かばやと、道祖神のはや胸中をさわがし奉るとこそ承りはべる」と申す。
先師返事に曰く「汝聞くところにたがはず。今日のかうがうしきあたりを思ひ出でて、慈鎮和尚の詞にたより、「初」の一字を吟じ侍るばかりなり」となり。
芭蕉が言葉を借りたという慈鎮の歌は、その家集『拾玉集』に、「このごろは伊勢に知る人おとづれて便りいろある花柑子かな」とある。
先日、この句碑のある神奈川県愛甲郡愛川町の八菅(ハスゲ)神社を訪ねた。鳥居をくぐると、八菅山修験場跡要図があり、「この八菅山を前にした丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者(山伏)たちの修業道場として盛んであった」とある。また神社の社叢林はスダジイをはじめとする高木層の自然植生林が、神奈川県指定天然記念物となっている。
句碑は鳥居右側の石垣の上に立っていた。台座の上に高さ2メートル位、人が身をよじったような形で先端が尖っている。表に掲出句と「芭蕉翁」、裏に、安政七年次庚申正月吉辰造立焉とある。建碑の事情については、後日教育委員会から送られた資料「愛川町の野点文化財=中津地区」に次のようにある。
「現在の句碑は再建のもので諸国翁墳記に記載のものは石彫りの蓑亀の甲羅の上に烏帽子形の根府川石が立ち、二重の台石でりっぱなものであったらしい。(略)この碑が安政二年十月二日の大地震で崩壊したので五年後再建されたものと言われている。
谷地先生に見せて頂いた「諸国翁墳記」に、この記載どうり、蓑亀の甲羅の上に立つ見事な句碑が描かれていた。本書は一頁あたり4~5基がシンプルに紹介されることが多いが「相州八菅山光勝寺有境内」と刻むこの碑は一基に一頁を割いて、その二重の台石の上にはみ出すほど大きな亀を載せ、その甲羅の上に烏帽子形の句碑を立ててある。亀は蓑を大きく靡かせて蓬莱の国に行こうとしているようであるが、何故かその顔は鹿のようにも見える。私がこれまで見てきた芭蕉句碑は基本的に墓石を連想させるような縦型の自然石が多いので、この形式には驚くばかりである。
なお「蓬莱に」の句は、元禄七年(1694)、芭蕉最後の新年の句である。