風景を半眼でみると言うこと
https://blog.goo.ne.jp/sasamuraailand/e/0d990d5284bf70eac7c34156aece259d 【風景を半眼でみると言うこと】 より
座禅は半眼で行う。目を閉じるのでもなく、目を開いているのでもない状態である。その意味は余り問われることはないようだが、重要なことだと思っている。絵を描くときに風景を見ている眼も半眼だからだ。
眠らないためだとか言う坊さんがいるが、肝心のことが分かっていない。脚下照顧と寺の玄関には掲げてある。これを靴をそろえろという意味だといった坊さんもいた。これは立脚点の確認と言うことだ。坊さんというのはもっともらしいから解釈をしがちだ。
半眼とは意識は見ていない状態である。しかし、閉じてはいない。目の神経には物は写っているが、脳の認識としては見えてはいない状態。矛盾したような状態だが、訓練すると目を開いていても見ていないと言うことはあり得るのだ。何か考え事をしているときに、見えている視界が意識から消えているという状態と同じだ。
禅では形から入るという意味で、半眼という半分目を開いた状態が言われるが。少し意味が違う。心を解放するために見るという意識を捨てると言うことが必要。見ていると見ている範囲にとらわれてしまう。目に映るが見ていないという状態を作るために目を半眼にする。
目を閉じてしまうと今度は妄想が見え出す。空想が広がり始める。半眼状態は視覚は生きているから、妄想が起きにくい。実はこの状態は訓練すれば、目を見開いていても可能になる。目にはよくよく見えているが、見ていない。
この状態で風景を見る。正確には見るのではなく、風景が視界に写る。視界に写ってはいるが、脳が解釈をしようとか、分析をしようという意味では見ない。目に映るだけにしておく。こんな状態で私は風景を見ようと考えている。
風景を半眼で見ると言うことになる。そこまで進むためにはよくよく見た上でないとだめだ。見ないでも絵は描けるところまで、その風景を自分の物にする。だから何カ所も風景を描ける物ではない。同じ場所を何度も描いてだんだんに風景が分かる。分かった上で半眼で見れるようになる。こんな状態が絵を描く上での、私のよく見るの意味である。
風景を描くという場合分からなければついつい、全開の目でよくよく見てしまう。脳を働かせて見ている内は写生の域を出ない。よく見る必要があるというと、写真のように、さらに顕微鏡で見るように見ることになりがちな物だ。
見ると言うことの奥には、分かるということがある。分かるということは表面だけでなくその内部も理解すると言うことだ。風景の内部とはどういうことだろう。私は風景の中にある人間の暮らし。
田んぼであれば、やったことのあるものでなければ、分からない泥の感触。水の冷たさ、暖かさ。祈りの思い。こうした物を分かるということだ。肉眼で見えるような物を見るわけではない。
描こうとする場所がどうなっているかなど、改めて肉眼みている内は風景に従っている。私絵画では自分の絵にしてはならないと考えている。見ないでも見えている状態で、風景を半眼で見て描く。
絵を描くと言うことは見ている世界から離れなくてはならない。別段見ている世界を移しているわけではない。ジオラマのような説明図を描いているわけでは無い。その場を借りて、自分の世界観を表そうとしている物が絵画だ。
弓道や剣道でも、日本の武道の多くは半眼で見るとされている。弓道では半眼で見るとことで意識を定めることができるとするようだ。意識を自分の射を客観的に他人事のようを見るような 悠然とした態度が必要とされる。やったことはないが、なんとなく想像できる。
的に当てよう当てようとしていることがとらわれていることである間は、弓道の名人ではない。名人伝では最後には弓を見てこれは何に使う物ですかと聞くくらい弓と言う道具から離れるのが名人である。
剣道では目付というらしい。あるいは心眼とも言う。「眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり。」宮本武蔵「五輪書」にある。少し難しい。宮本武蔵の絵はなかなかの物で、国宝である。
漠然と相手を見る。半眼で見ると言うことで相手の動きに惑わされない。相手がいざ踏み込んでくる動きと、動くと見せかける動きとがある。見せかけの動きに惑わされないためには半眼で見るという。半眼で見ていると、本当の攻撃の動きが見えてくると言う。
日本の武道では肉体の鍛錬はあくまで道を究める手段である。その道を究めると言うことは技術的な領域を超え精神の領域に入ると言うことだ。剣も弓も道を究めるために行う。当然絵画においても道を求めている手段に違いない。
だからあくまでよく見ると言うことは必要なのだ。見ないと言うことと矛盾するようだこの見ないは見ることにとらわれないという意味だ。見ないで、自分のやり口のような物でこなしてしまうのとは全く違う。
一枚の繪に向かうと言うことは過去のすべてから離れて、見ると言うことでなければならない。見尽くしている。分かっている。しかし初めて見る意識に立つ。それが観という見方ではないだろうか。
日々初心に返ると言うことでなければならない。自分流のシステム化が一番良くない。絵を描くと言うことはあのやり方でやるとか、こう工夫してみるとか言うことではない。風景に向かい合い、新鮮に心を開いて従う。だから、描く手法は存在しない。
絵を描くと言うことが意味があって、その結果の絵という物は何だろうと言うことになる。もちろん捨てることもできない。自分の軌跡のような物がそこにはある。自己確認のための物と言えばいいだろう。
絵が前進していると言うことが重要である。後退したりしていないか。技術になっていないか。正直でないか。偉そうに描いていないか。分かったふりをしていないか。そういうことは絵を見ると分かる。
半眼で見るようになっているきがしている。石垣の風景を大分描いたと言うことだおる。だんだんそうならざる得ない。よくよく見ていると半眼で見るようになる。そこまで行くと絵に描くことができるようになる。そう信じて今日も絵を描く。
http://chikoin.com/blog-entry-214.html 【開目・閉目について 総括】より
目を閉じると、瞑想に入りやすいという利点がありますが、その反面、1,妄想を起こす、2,寝てしまう恐れがある、という重大な欠点があります。
目を閉じることを可としているのは、観相念仏の坐禅の場合です。念仏の場合には、「仏の相を観じる」という確固たる目的があるため、「目を閉じていても妄想が起きにくいから」という理由と、「インド伝来の瞑想に準じた方法である」という理由によるものでしょう。
禅宗の「坐禅」は、観相念仏ではなく、無念無想による心の安定を目的としているため、妄想や昏睡を特に戒めます。これは当に目を閉じた時の欠点と合致するため、目を閉じることを完全否定するに至ります。
余計な光を遮るためには、眼は若干閉じた方がいいですし、眩しければ自然に視線も落ちます。このような眼の状態は、いわゆる「半眼」と言えるでしょう。
『坐禅儀』の記述だけを見ると、自分で意識して半眼にするような書き方ですが、実際には「光を遮ること」と「眠らないように」という2点が、背景にあるものと考えられます。その点では、曹洞宗の各底本も同様でしょう。
過去の経本から順を追って考え、そして禅宗の坐禅に当てはめていくと、大きく開けすぎず、閉じず、リラックスした状態が正しい目の開け方で、光が邪魔をするのならば、適度にまぶたを落とした楽な状態にして、そして前方をぼんやり眺めるようにする、というのが一番良い方法である、となります。
大きく目を開けてはいけない。→ 疲れるため。
閉じてはいけない。→ 寝てしまうし、妄想が起こりやすい。
意識して半眼にしない。→ 余計な光を遮る程度に、まぶたを落とすことは可。
ということになります。
視線については触れませんでしたが、「1メートル程前方に落とす」という意識を持つより、上記3点に則った形で、自然に前方へ目線をおく、ということで良いのではないでしょうか。