芭蕉の境涯
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http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~kinouwe/pdf/basyoo.pdf#search='%E8%8A%AD%E8%95%89+%E4%BB%8F%E6%95%99' 【芭蕉の境涯】 より
Ⅰ 晩鐘を思へば秋の芭蕉かな 芭蕉晩年の門人、子珊 しさん (?~一六九九)の句である。
彼は江戸深川の人だが、元禄七年 (一六九四)、芭蕉が上方に赴く最後の旅立ちに際し、自宅で送別の宴を催し、記念集 『別座鋪 べつざしき 』を刊行したことで知られている。
書名は、同年五月上旬、子珊の別屋で興行さ れた六吟歌仙の発句「紫陽花や藪を小庭の別座鋪」(芭蕉)に因んでつけられたものである。
序に「翁今思ふ體は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて 意味あり」(今考えている俳諧の風体は、浅い砂川をさらさらと水が流れるのを見るように、 句の形や付心ともに軽きものである。そうした軽みの境地に至って意味があるのだ)とい う芭蕉の遺語を伝え、〈軽み〉を具現した撰集として評価される。(栗山理一監修、尾形仂・ 山下一海・復本一郎編集『総合芭蕉事典』、雄山閣出版、一九八二年)
さて、冒頭の句は『別座鋪』第四歌仙における発句なのだが、この句の主眼が「秋の芭 蕉」にあることは明らかである。しかしそれがなぜ芭蕉餞別の句なのだろうか。
この句の 詞書に「贈去秋芭蕉菴」とあることからすれば、翁が旅立った後に残される芭蕉庵への思 いも籠められていたのかも知れないが(『別座鋪』の奥書日付は元禄七・五・八)、それだ けではあるまい。
秋の季語である「芭蕉」にわざわざ「秋の」とつけた真意は、この句が、 秋の古寺を舞台とする謡曲『芭蕉』(金春禅竹〔一四〇五~一四七〇頃〕)に触発されたこ とを告げているのではあるまいか。
じつは、このように解釈するのは、国文学専攻の俳諧文学を研究している大学院生で、 かなり年輩の女性である。彼女は小生が大学院で担当している「日本思想研究」を受講し、 その授業内容から発想を得て、優れたレポートを提出してくれた。以下の論考は、それに 触発されて書き綴ったものである。
続けよう。この謡曲の中に鐘の音が出てくる。更に言えば、この句の「思へば」という 措辞も気にかかる。
なぜ単純に「聞けば」でないのであろうか。
たしかにそれでは字足ら ずになることははっきりしている。
しかしそういう技巧上の問題だけではなさそうである。
「思へば」は「晩鐘」を受け、つまり「晩鐘を聞いていると、ふと謡曲『芭蕉』のことが 思われる」ということではないだろうか。
もしこの解釈が正しいとすれば、この曲の主題 からみて(後述)、この句は、芭蕉晩年の弟子子珊が、彼なりに受け止めた芭蕉の俳諧観・ 人生観をこの句に託して述べたということになるのかも知れない。
では、謡曲『芭蕉』はどのような内容をもつものなのか、それを紹介しておこう。
中国の楚国の小水に山居する僧の草庵に一人の女性が訪れ、僧が唱える『法華経』を聴 聞し、自らが芭蕉の精であることをほのめかして消え失せる。
後場、僧の夢に芭蕉の精は 本来の姿で現れ、万物はそのままで成仏の相を示していると「諸法実相」の有様を述べ、 舞を舞う。やがて草庵の庭には秋風が吹き、花も千草もちりぢりになって、芭蕉の葉は破 れて残った、と見るうち、夢は覚めた。(小学館版『日本古典文学全集 謡曲集』より)
しかし、これだけでは、子珊の句との関連はわからない。じつは、金春禅竹作のこの曲 は、中国の怪異譚に想を得ているが、主題はそこにあるのではない。
「全体を一貫するのは 法華経説である。それも天台本覚思想下の法華経説、なかんずく草木成仏説が深く関わっ ている。・・・非情草木たる芭蕉が、草木のままに無相真如(絶対真理)の姿であることを ワキ僧に説くのである。」(『新潮日本古典集成 謡曲集』「解題」より)
すなわち、謡曲『芭蕉』は、仏教にいう「無情説法」、すなわち天台教学の本覚思想を「芭 蕉」の精に託して述べたものなのである。本覚思想とは、『大乗起信論』のいわゆる「万法 是真如真如是万法」という定式を指し、それは、現象の奥に〈実在〉、〈真如〉と呼ばれる 永遠不滅の絶対者を認めるものであり、しかもその〈実在〉は現象の背後にあるものでは なく、現象の只中に内在するのである。
一言でいえば、「一切衆生、悉有仏性」、「草木国土、 悉皆成仏」ということであって、この宇宙に存在するすべてのものが、仏性の現われであ るとする思想である。
日本の仏教や文化の根底には、こうした天台本覚思想が深く浸透し ているのである。
芭蕉の「造化に随ひて四時を友とす」という姿勢は、以前にも言及したように、ただ単 に自然に親しみ、四季の推移を満喫するといった常識的意味にとどまるものではなく、宇 宙万有の底に潜む「真如・仏性」と一体となることを説くものなのであり、この「真如・ 仏性」は、以前に投稿した拙稿で、宋学における「理」、「誠」として示したものにほかな らない。
Ⅱ 上で述べたように、子珊 しさん の「晩鐘を思へば秋の芭蕉かな」は、謡曲『芭蕉』の「無情説 法」、ひいては天台本覚思想を背景に、師芭蕉の生き方を語っている、と解することができ るのではないだろうか。
芭蕉の俳諧はその人生観を抜きにして語れず、人生観即俳諧観と して見たとき、芭蕉の心底にあったのは、まさに「諸法実相」であったと思われる。
芭蕉 が、自己認識の原点に初めて突き当たったのは、最初の俳諧紀行『野ざらし紀行』の時で あった。
この時、芭蕉は、
道のべの木槿は馬にくはれけり
山路来て何やらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧にて
等の句を作り、談林調を完全に脱して新しい俳諧に一歩踏み出したのであった。
そして「眼 前」なる言葉を初めて残したことは夙に知られている。ことに「辛崎の」の句について、「に て」どめの議論が弟子達との間に起こったとき、芭蕉は「角・来(基角・去来)が弁、皆 理屈なり。我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」(『去来抄』)と言い、「予が 方寸の上に分別なし・・・只眼前なるは」(『雑談集』)とも言った。
芭蕉が語ろうとしたの は単なる「にて」という措辞を巡るテクニック論ではなく、自然へと参入する直接的な経 験、自然の実在に触れた生の感覚そのものであろう。
ここで思い起こされるのは、西田幾 多郎のいわゆる「純粋経験」、つまり分別以前・主客未分のリアルな経験、知情意が一つに 統一された「純粋経験」である。
西田は言う、「経験するというのは事実そのままに知るの 意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、 普通に経験といっているものもその実なんらかの思想を交えているから、毫も思慮分別を 加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未 だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみな らず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである」(『善の研 究』「純粋経験」)と。
芭蕉が『野ざらし紀行』の旅から江戸に戻った翌年、貞亨三年の春、 有名な句「古池や蛙飛込む水のをと」を冒頭に置いた一門の句合わせ『蛙合』を刊行した。
弟子の其角が上五に「古池や」でなく「やまぶきや」を推したところ、芭蕉は即座にこれ を退けたという逸話についても侃侃諤諤の議論があるが、いずれも俳句鑑賞の視点からの 優劣論にとどまっていて、芭蕉の真意に迫っていない。
『野ざらし紀行』の「眼前」につい て、芭蕉は何を見たのかというところから始めなければならないだろう。
Ⅲ 芭蕉の「眼前」が目指したもの、それは何であったのか。「眼前」を一応「写生」と読み 替えてみたとき、それは、ただ見たままを詠うのではなく、斎藤茂吉に倣って言えば、「実 相観入」ということ、すなわち「自然・自己一元のいのち」と一つに融合せる「純粋経験」 の境涯を指して言ったのではないだろうか。
西田幾多郎は言う、「直接経験の上に於ては唯 独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見られる客観もない。恰も我々が 美妙なる音楽に心奪はれ、物我相忘れ、天地唯嚠喨たる一楽声のみなるが如く、此刹那所 謂真実在が現前している」(『善の研究』「実在の真景」)と。
ここには見る主観もなければ、 見られる対象もない。ただ眼前に物があるがままに顕現しているのみである。
人口に膾炙された〈古池や〉の句の魅力はどこにあるのだろうか。この句を称揚した支 考は、享保四年(一七一九)に著わした『俳諧十論』の中で、この句について「情は全く なきに似たれども、さびしき風情をその中に含める、風雅の余情とは此のいひ也」と評し ている。
この支考の解釈が、オーソドックスなものとして今日まで継承されているようだ が、はたしてそうなのだろうか。
「古池や蛙飛込む水のをと」、留意したいことは、この句 の焦点となっているのは、蛙が飛び込んだ時に生じるであろう「水の音」ではない、とい うことである。
また、或る解釈によれば、蛙が飛び込む水の音によって、静寂が打ち破ら れる、とされるが、事実はまったく逆であって、むしろ閑寂な古池から聞こえた水の音に よって、はじめて 、、、、 その深い静寂に気づかされ、その静寂 しじま の響きとともに水面をめがけて飛 び込む蛙の躍動が、全存在をかけた跳躍が、突如ありありと脳裏にフォーカスされたので ある。
それは芭蕉とこの世の有情のものとの一瞬の交差であった。「観念」ではない、眼前 、、 の 、 「実在」の真景であった。
ここに「さびしさの風情」を読み込むのは、却ってあまりにも観念的な理解といってよ い。
「古池」という語からイメージされるその悠久の歴史的・時間的な広がりと、蛙の躍動 という今の瞬間との時間の交差を眼前に見るその妙をこそ味わうべきであろう。
更に言え ば、実際のところ、春の交尾期、あの蛙のヌメヌメした皮膚からも推察されるように、実 際には、蛙が水に飛び込んでも殆どその音は聞き取れないのではないだろうか。
極論すれ ば、芭蕉がふと耳にした音は、ひょっとすれば、鯉が跳ねた音だったかもしれないのであ る。
その水の跳ねる音とともに、芭蕉の脳裏にはっきりと捉えたものは、水面に飛び込む 蛙の一瞬の動きだったのである。
そこに彼は、「古池」に象徴される人里離れた閑寂な草庵 にも確かに訪れた陽春の鼓動を感じ取ったのである。
蛙の飛び込む一瞬の姿に宇宙の生命 の発動を捉えたのである。
しかし、それを言葉に表現することは至難の技である。
「物の見えたる光、いまだ心に消 えざる中に言ひとむべし」(『三冊子』)とは言われるが、一瞬の感動は一瞬の表現にはすぐ には結実しない。
言葉によって実在に迫る表現者の苦悩は、しかし、表現を得て「実在」 に触れ得た時、どれほど大きな喜びであったろう。
恐らく、わびも、さびも、軽みも、言 葉を得てはじめて実在に相見 まみ える、俳諧者の苦悩と喜びの遍歴の跡であったと言えよう。 芭蕉の真実在へと迫る唯一の方法は、生涯をかけた〈旅〉であった。『奥の細道』で得た、 閑さや岩にしみ入 、、、 蝉の声 荒海や佐渡によこたふ 、、、、 天河 の句に見る傍点の語は、芭蕉が西田のいわゆる「実在の真景」に到達した境涯から発露し た表現と言えはしないだろうか。
仏教が説く「諸法実相」を、「知識・観念」ではなく、身 をもって実感していた芭蕉でさえ、五感を全開するだけでは、真の実在に迫ることはでき なかった。そこには全生涯をかけた「直接経験」への旅が必要だったのである。