偉人『清少納言』
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて・・・」
今から1000年ほど前平安時代に書かれた随筆『枕草子』、作者は言わずと知れた『清少納言』。
平安時代に名前が残っている女性は限りなく少ない。彼女が名を残せたのはやはり高貴な身分であったからである。和歌の名門清原家の出であり、名は諾子(なぎこ)。15歳頃に結婚し数年後に離縁その後宮仕えし、仕事名として『清少納言』と名乗った。
うりざね顔の彼女は古き時代の人物であるが、その作品は現代人にも通ずる趣のある情景描写、斬新でみずみずしい表現、時に滑稽で思わず笑んでしまう言の葉の操り、そしてそれらは彼女の独り言から生まれたものが多い。今で言うSNSでの呟きのようなものだ。
歌を詠むことよりも面白いことや奇抜なことを好み、周りの人々を笑わせるような明るさを持つ反面、男性とも対等にやりあう男勝りで頭の回転の速い女性であった。
今回は彼女の鋭く豊かな感性はどこから生まれたものなのかを勝手の野放図で想像しながら、現代の子育てにどのように取り入れるべきかを発信する。
清少納言は966年ごろに和歌の歌人である父清原元輔の娘として誕生。祖父の清原深養父もまた有名な歌人である。五・七・五・七・七の31文字の中に思いや情景、テーマに沿った内容を詠む和歌は貴族の嗜みであった。その和歌に秀でた一族の娘であれば幼き頃よりその環境にどっぷりとつかり成長しているはずで詠めて当然であっただろう。しかし彼女は和歌を詠むことをこう拒否している。「私には和歌を詠む才能は無く、詠んだならば亡き父が気の毒である」と。彼女の作品を見れば言葉を綴る才能が無かったわけではないことは明らかである。ではなぜ詠もうとしなかったのか・・・それはただただ彼女の表現する才能が31文字の世界に収まりきらなかったのだ。
仕えている中宮定子は彼女の非凡な才能を見抜き何度も和歌を詠むように言うが、一向に詠もうとしない。そこで高級な紙を好む清少納言に紙を譲ったことが『枕草子』の始まりである。そしてその独り言日記を勝手に読んだ左中将源経房が無断で宮中内に広めた。それが時代を経て読み継がれている作品である。彼女の呟きは現代のSNSのようであり、彼女の表現はあたかもインスタグラムの写真のように色鮮やかに綴られている。
時代が変わろうとも女性の独り言は共感できるものだ。
例えば『説教の講師』では、お経の講義をするお坊さんは顔が整ったイケメンがいい。顔をじっと見つめていればその人の話すことの尊さをより感じることができると独り言を記している。現代人がそうだと納得するこの呟きこそが1000年経ても読み継がれる『をかし・いとをかし』なのだろう。
彼女の色褪せない表現やものの捉え方はどう育まれたのかを考えてみる。
和歌を詠む家には自然や生活の中で季節や年中行事を取り入れることを重視していることやそれらを嗜むための古典的道具を多く有することを記事で読んだことがある。彼女もまたそのような世界で生まれ育ち感性を磨いていったのは自然なことだった。
幼い頃から美しい、心に響く、まあなんて素晴らしいの、楽しい、とても切ない、悲しいなどの喜怒哀楽を感じる心が育つ環境にあった。だからこそ小さな変化を読み取ることができたのだ。
『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは・・・』で始まるあまりにも有名な冒頭。何気ない春の朝を彼女の独特な美意識で一枚の絵や写真のように切り取り、夏秋冬も感性で見事に表現している。また彼女の卓越した描写はこれに限ったものではなく調所に美しい調べが存在している。
そして彼女の凄さは自然に向けれれたものばかりではなく、宮中での生活や日常の他愛も無いこと、心にふと浮かんできたことを巧みな表現で読んでいる。生きていればいろいろなことがあり思い通りにいかない困難や苦しみなどは一切綴らず、人生明るく生きるために物事をポジティブに記している。もし清少納言にアイフォンを持たせたらどのような映像を捉えるだろうか・・・息を呑むような美しい景色、ハッとする様な斬新なもの、面白おかしい人々の行動や表情、現代の風刺的描写も彼女なりのポジティブさで捉えただろう。
幼き頃に感性を磨くということは物の見方捉え方感じ方のみならず、教養的なことを着実に積み上げることができる。そして長い人生の生き方にまで影響を及ぼすといっても過言ではない。
何百年、何千年と時が経ても私達日本人の遺伝子の中には季節を自然を堪能し、情感を豊かに働かせ生活を送ることが備わっている。だからこそ彼女の描く世界観を想像し楽しむことができるのである。しかし昨今の時代の流れを見るとその間逆を進んでいる要素もある。特に教育で知識教育が重要視される傾向にあり、情感にかかわる側面が十分に育たず社会に適応できな人格形成が問題になっている。
子供の感情、情感、情緒を育むためには幼児期に確りと自然や生活の中で季節を感じ学び、季節を大事に生きることで感情豊かな心を育むことができ、実は脳の発達に大きな影響を与えることが分かっている。机上の学びだけでは子供は育たないのである。学びも大切であるがそれ以上に乳幼児期にはそれを上回る経験や体験はさらに重要なのである。付け加えておくが学習も様々な経験も遊びも両輪のバランスを取ることが幼児期から就学期には重要であることも忘れてはならない。
野原を駈け、山に上り、海や川遊び、公園のお散歩、植物や昆虫や小動物などを観察するなどの自然体験を行い、季節の行事を堪能しその意味や風習などを毎年行うことで認識を深めていく。また生活の中で花や植物を育て、スーパーなどで季節を感じる食材を見つけたり、料理やお手伝いを通して多くの経験をさせ、子供の遊びの世界では水遊びをし、落ち葉を踏みしめ、木の葉や石や木の実でままごとをし、存分に身体を使い木登りをしたりなどの直接的体験を行うなどして五感をフル活用することで脳の発達と共に情感を育むことができるようになる。
このような多くの活きた経験が子供を豊かにし脳の発達も促し情緒も育まれていくのである。
間もなく端午の節句を迎える。コロナ禍の制約あるときではあるが清少納言のポジティブさを見習い、感染対策を心掛けてできることをされてはどうだろうか。5月5日私も去年同様会えない家族のために彼らの無事を祈り美味しいものを映像で届けたいと考えている。