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主客合一の力

2018.04.29 13:51

https://www.engakuji.or.jp/blog/31786/ 【真の善】 より

大熊玄先生から、新著『善とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義』を頂戴しました。

西田幾多郎先生の『善の研究』は、よく知られた名著ですが、なかなか難しい書物であります。

それを大熊玄先生が分かりやすく講義してくれたものです。

私なども、大学生の頃に、哲学らしきものを多少かじっていた記憶が残っていますものの、あれから三十年以上にわたり、禅堂暮らしをしていて、哲学的な思考はすっかり無くなってしまいました。

哲学的な思索には、ほど遠い現状ですが、すこしでも読もうと思っているところであります。本をいただくということは、何かのご縁があるからだと思います。もう少し勉強しなさいという声かもしれません。

本をいただくと、最初に序文を読み、目次を見て、あとがきを読みます。それから、内容をパラパラめくってみます。

一番最後のところにあった、次の文章に心ひかれました。

「善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである。即ち真の自己を知るというに尽きて居る」というのです。

「真の自己を知る」、これはまさしく禅で説くところの、己事究明と同じではないかと思いました。

西田先生は、更に「我々の真の自己は宇宙の本体である」と説かれています。

これは、我々が言うところに天地一杯の自己に通じるのかなと思います。

「真の自己を知れば、ただに人類一般の善と合するばかりでなくて、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。

宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである」

というのであります。

主客合一とは、自分と他とが一つになることです。

では、そうなるにはどうしたらいいかというと、西田先生は、

「而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の慾より死して後蘇るのである。(マホメットがいった様に天国は剣の影にある)。此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という」

と説かれています。

これを読むと、我々禅で説くところと完全に一致すると思いました。

大熊先生の解説では、

「そして、この「主・客が合一する力」を得るということは、ひとたび、私たちのこの「ニセの自己」、この世における独りよがり(エゴイスティック)な欲にまみれた自分を殺し尽くして、その死の後に蘇ることなのです。(マホメットは「天国は剣の影にある」といっています)。

このようにして初めて、真に主・客が合一する境地に至ることができるのです。

これが、宗教・道徳・美術の極意です。キリスト教ではこれを「再生」と言い、仏教ではこれを「見性」と言います」

と丁寧に説かれています。

「エゴイスティックな欲にまみれた自分」とは、盤珪禅師の説かれる「身のひいき」にほかならぬように思われす。

自我を離れて、天地と共に生かされている真の自己に目覚める、小欄で今まで説いてきたことと一致します。

大拙先生の禅の修行が根底のあるのと同じように、西田先生の思想にも禅の修行が土台になっているのだなと感じたところであります。

『善の研究』を大熊先生の講義本によって読み直してみようと思っています。

かなり錆びついてしまっている我が頭の体操になるかと思います。

横田南嶺

https://textview.jp/post/culture/39357 【難解な『善の研究』はこの順序で読もう】より

西田幾多郎(にしだ・きたろう)の文章は難解なことで知られますが、なかでも『善の研究』はもっともむずかしいものであるとされています。批評家、東京工業大学教授の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんは『善の研究』を繰り返し読むなかで、あることに気がついたといいます。

*  *  *

『善の研究』を読む順序

『善の研究』を繰り返し読むなかで、あることに気がつきました。この本は、編を追うごとに平易になっていきます。つまり、最後の第四編が私たちにとっていちばん読みやすくなっているのです。それだけでなく、各編でも最後に近づくにつれ、読者に親しみやすくなっています。

そこで、今回は次のように逆の順序で、この本を読み解いてみたいと思います。

第四編「宗教」→第三編「善」→第二編「実在」→第一編「純粋経験」

このように読むことで、『善の研究』で語られた問題を私たちの日常生活により近しいかたちで感じることができるのではないかと考えています。

哲学は、「彼方の世界」を認識しようとする試みでもあります。この「彼方の世界」は西田のいう「宗教」と同質のものです。しかし、西田が考えた哲学は、彼方の世界への理解は日常の生活のただなかで深めることができると証明しようとしたものでもあったのです。

最初に読むべき「知と愛」

それでは、まずは第四編「宗教」から『善の研究』の本文を読み進めていきましょう。なかでも、最初に読みたいのは第四編の最後に「付録」のように置かれている「知と愛」という随想です。

最後に置かれた文章こそ、『善の研究』を読み解くうえで「扉」のような役割を果たしているのです。この文章は他の本文とは主題の展開も文体も異なっているため、これまであまり重要視されてきませんでした。

「知と愛」とは愛知、すなわち哲学(フィロソフィー)のことです。この素朴な事実に気がつくと、一見性質が異なるこの短文を西田があえて『善の研究』に収録した意味も明らかになってきます。「知と愛」の章ほど、よい「西田幾多郎による西田幾多郎入門」はないのです。

西田は、自分が書いている文章が、簡単に理解されるものではないことをよく理解していました。しかし、「知と愛」は違います。この文章を繰り返し読むことで私たちは西田の哲学の核となる部分を垣間見ることができます。

知のちからと愛のはたらき

西田が考えている「哲学」は、ある特定の思想──たとえば実存主義、構造主義、ポスト構造主義など──ではありません。むしろ、それは、さまざまな思想を包み込む、大いなる叡智ともいえます。

本当の「哲学」の道を生きるためには、「知」のちからだけでなく、「愛」のはたらきを欠くことができないと西田は考えていました。それが彼の出発点です。西田は「知の巨人」だっただけではありません。深い「愛の人」でもありました。

「知と愛」のはたらきにふれ、西田は次のように書いています。

知と愛とは普通には全然相異(あいこと)なった精神作用であると考えられて居(い)る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何(いか)なる精神作用であるか、一言にて云(い)えば主客合一(しゅかくごういつ)の作用である。我(われ)が物に一致する作用である。

(第四編 宗教 第五章 知と愛)

「知る」と「愛する」という営みは、一見すると二つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。

ここで西田は「主客合一の作用」を「我が物に一致する」と言い換えてもいます。西田がいう「物」は物体ではありません。「他者」という言葉に置き換えた方がよいでしょう。

何を「他者」と考えるかによって、その人の世界観は変わってきます。西田の場合は、ここに亡き子、すなわち死者が含まれています。

すでに亡くなった愛する者の存在を私たちは「知」のちからだけで認識しようとはしません。そう試みることは、ある意味では危険なことかもしれません。そうしたとき私たちのなかに自(おの)ずから「愛」が動き始めるのではないでしょうか。

ここでの「愛」は、「愛(いつく)しみ」と置き換えた方がより深く感じることができるかもしれません。「知」のちからはしばしば人間を迷路に導きます。「知」のちからだけに頼るとき人は、自分が万能であるかのように思い込むのです。そうした迷いから私たちを救い出してくれるのが「愛」のちからです。

■『NHK100分de名著 西田幾多郎 善の研究』より