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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 102 (07/05/21) 旧玉城村 (2) Itokazu Hamlet 糸数集落

2021.05.10 12:49

旧玉城村 糸数集落 (いとかず、イチカジ)

[7月3日に再訪問:国根 (クニニー)]


今日は糸数集落を巡る。この集落には文化財が多くあり、その中にはグスクが4つも含まれている。この集落の下調べには、図書館で数日費やしたので、前回の船越集落から1っ週間も経ってしまった。最近は、下調べと編集に以前より時間をかけているので、集落訪問サイクルの感覚が長くなっている。


旧玉城村 糸数集落 (いとかず、イチカジ)

糸数集落の始まりは10世紀ごろに糸数グスク北側の佐南台地に幾つかの小集落の集まりがあったとされる。ただ、この佐南大地は水の便が悪く次第に現在の集落の場所に移住していった。一度に移住したのではなく、各家族単位で移住をし、それは明治19年にこの佐南で天然痘が流行し多数の死者が出たことで、完全にこの集落を放棄して現在の糸数集落に移住するまで続いた。

糸数は以前はイチカジと読んでいた。イチは僻地を意味し、カチは崖の多い場所で、糸数は「崖の多い僻地」という説がある。1730年代には首里王府の士族の帰農政策で、首里士族が糸数に移住し喜良原屋取集落を造り、1930年には独立行政地区として糸数から分離している。糸数集落には大小11の腹 (門中) があり、そのうち、百次腹 (ムンナンバラ) と幸地腹 (コーチパラ) は土着の腹とされ、他は移住者の腹に類別されている。

糸数集落の人口は明治時代から現在まで、ほとんど増えていない。明治時代では旧玉城村では3番目に多い地区であったが、その後他の集落の人口が増えたことで、次第に順位を下げ、現在では人口の少ないグループに属している。

糸数がある場所は標高150mの台地の上にあり、土地面積も限られている。その土地で住居と耕作地を拡大することは困難であったことや他の集落に比べ不便であることが理由と思われる。民家の分布を現わす地図を見ても集落の範囲はほとんど増えていないことがわかる。

玉城村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

船越集落で行われている年中祭祀は下記の通り。井泉が村の御願の対象になっていないところは他の集落と異なっている。


先日訪れた船越集落から坂道を標高150mまで登り、大城ダムを周って、世利田から糸数集落に向かう。

向こう側に糸数グスクのある丘陵が見えてきた。集落の手前は一面農地になっている。


上間 (ウィーマ) グスク

上間グスクは、糸数集落のある丘陵の北西の端の崖の上にある。このグスクは上間之比屋 (ウィーマヌヒーヤー) の屋敷であったと伝わっている。先日、訪れた船越グスクで船越按司の最期を少し触れたが、船越按司は上間按司が糸数グスクを攻めた際に、兄の糸数按司の救援の為に糸数グスクに向かう途中、船越グスクとこの上間グスクの間にある上間之殿付近で戦死したとされている。この戦いについては諸説ある。

以上のようにいろいろな説があるのだが、それぞれが何らかの言い伝えから出来上がっていると思われる。個人的な意見では、時期は別として尚巴志が攻めたと思う。

グスクは糸数集落の北、石灰岩台地の線端部の小高くなったところにあったといわれ、現在は第11管区海上保安本部通信所の敷地となっている。土地造成などで地形が大きく変化しており、当時の面影は残っていない。



チンシグスク

チンシグスクは、上間グスクと隣り合っていたようであるが、現在ではその付近は造成工事などで、その位置ははっきりとはしない。チンシグスクという名称は、糸数台地の糸数グスクに行く際、急な坂を上がるためチンシ (膝) に手をつきながら登ったということに由来するといわれている。この坂のことを「アジンビラ」と呼び、戦前まではよく利用されていたが、現在は利用されておらず、その道筋が分からなくなっているそうだ。上間按司が糸数グスクを攻めた際にはこの道を通り、チンシグスクや上間グスクを攻めたのではないだろうか?上間グスクとチンシグスクの前方はフシジョーと呼ばれる場所がある。ここでは多くの遺骨があったとされる。糸数グスクが攻められた時の戦いで戦死した兵士の遺骨と考えられている。通説では糸数グスクは不意打ちで落城したとあるが、ここで戦闘が行われていたとすると不意打ちではなく、両軍が激突した戦いではなかったかと思われる。上間按司軍はこのチンシグスクと上間グスクを落とし、糸数グスクへの攻撃の拠点とすべきであったので、この地が激戦地となったと思われる。この上間グスクの城主であった糸数按司の家臣である上間之比屋 (ウィーマヌヒーヤー) の裏切りであったとしても、糸数軍はこのグスクを抑えられることは戦局には不利になるので当然、兵を向けたであろう。他にも城から遠く離れた前川ガンガラーの橋の下に、糸数城の式士の骨が無数に葬られた古い墓がある。糸数グスク落城の際に戦死した人達だと言われている。このガンガーラの谷は雄樋川にあり、そこには糸数按司の港が置かれ物流拠点であった。この港も兵站確保の為には重要拠点であり、ここでも戦闘があったことは想像がつく。

糸数グスクで落城を組踊にしたものがある。「父子忠臣」という組踊で設定は変わっているが、上間按司が恨みを晴らして糸数按司になったという大まかな筋はあっている。

「島民に一家を構えていた知勇健備の糸数按司は領民から信任も厚く、善政を敷いていたので村落は栄え豊かであった。同じく島民に一家を構えていた束辺名按司は豊かな糸数按司の所領を狙っていたが、知勇を兼ね備えた糸数按司に付け人る隙がないので、どうして攻め人ろうかと思い這らしていた。そんなある日、女室の誕生日のお祝いがあるとの情報を得て、夜戦をすれば勝てるかも知れないと考え、宴たけなわの最中、夜陰に乗じて攻め入り、勝ち戦をしたのである。その戦に糸数按司と女室は殺されるが、糸数按司の忠臣、山城ヌ比屋は戦場の隙に乗じて糸数按司の一子若按司を助け出して逃げのびたのである。山城ヌ比屋は若按司を守り育てながら仇討ちの機会を図っていたが、束辺名按司が臣下を引き連れて狩りをすると言う情報を得て、好機到来と喜び勇んで恩納山に向かったのである。当時隠居中の身であった山城ヌ比屋の父親兼元大主も同じ思いで、恩納山に向かったでのあるが途中、山城ヌ比屋と出会い親子で束辺名按司を討ち果たして糸数家を再興させたと言う兼元大主親子の忠臣物語である。」



糸数グスク

一般的に糸数グスクを紹介している資料には、英祖王統 (1260年 - 1349年) の四代玉城王 (1313年 - 1336年) が、1326年頃、三男に西の南山国からの防備のために糸数グスクを築かせ、糸数按司としたとされている。しかし、糸数グスクの発掘調査では、それより古い舜天王統時代 (1187年 - 1259年) の遺物やそれ以前の木柵も見つかっていることから、10世紀以前からここには砦らしきものがあったと考えられている。これは先に訪れた大城グスクや船越グスクでも同様な調査報告があり、実態は玉城王が息子達を、西の固めとして以前からあった砦に送り込み、グスクを大改造したということだろう。その後、グスクは北 (ニシ) のアザナが増築されている。糸数グスクが落城した後は、文献から推測されているのだが、琉球王国第二尚氏尚真王の時代までは監視所のような役割で使われていたと考えられている。昔は糸数集落の子供たちはこの糸数グスクには祟りがあり恐ろしいところと教えられ、ここにはあまり近づかない様にしていたそうだ。

玉城王の三男が糸数按司になった後の糸数グスク城主の系譜は諸説あり、確かなことは不明。第二代糸数按司は大城按司 (カヌシー) の次男の二代玉城按司の次男とし、三代がその四男としているものもある。この三代が最後の糸数按司だろう。糸数グスクを攻めた上間按司が誰であったか、いつであったかによっても糸数按司の系譜は変わってくる。

糸数グスクは標高180mの佐南 (サナン) 台地西端の断崖絶壁の上に築かれている。グスクの北側に城下町村があり、サナン、クールク、メーバル、シキナ、アダングチ、ヤカンの小集落 (マキョ) が存在していた。この佐南台地が糸数集落の古島に当たる。

糸数グスクの想像図がある。現地を歩くと、確かにこのようなグスクであったと思われる。


自転車を佐南 (サナン) 台地の下にある糸数集落のアブチラガマの駐車場に停めて糸数グスクンに上っていく。



比嘉 (ヒジャ) 神屋

糸数グスクへの道の途中に比嘉 (ヒジャ) の神屋がある。ミヌン殿内とも呼ばれている。神屋内部の祭壇には香炉が祀られ、比嘉家の祖先とされる「比嘉ウチョー」と火ヌ神を紀っていると伝えられている。比嘉ウチョーは、糸数グスク城主の糸数按司の臣下で、大カ無双といわれている。この比嘉ウチョーが、糸数グスクの建築資材の調達で国頭に出かけている留守に、真和志の上間按司の火攻めにあい、糸数グスクは落城し、比嘉ウチョーも糸数グスクに駆け付けたが、その途中で討たれたとの言い伝えがある。伝わっている系譜は以下の通りで、比嘉ウチョーも玉城王に連なる一族になる。

玉城村誌によれば、この場所にあった比嘉ウチョー住居跡が殿となり、毎年5月と6月のウマチーには按司の子孫や集落の人々が祭祀を行っているそうだ。糸数集落では、現在、年8回の村落祭紀が行われており、比嘉は、5月13日の三日崇べヌ師願、5月未頃の新米ヌ御願、8月15日の八月十五夜 (アカナースージ)、10月1日のヒーマーチヌ御願、12月24日の年末ヌ御願で祈願されている。

道を進むと左に上っていくみちがある。途中で途切れてしまっているのだが、サナン台地に上る道でダキドン坂と呼ばれている。この道は糸数按司時代の古道で、このかつての古道はグスクの北 (ニシ) のアザナの外側に続き、正門にでる。もともとはこの道は旧集落へも通じていたそうで、城への物資の運搬に使われていたと思われる。


旗竿穴

ダキドン坂は途中で途切れているのだが、反対側に周ると古道の跡が残っている。古島への入り口にかつては旗を掲げる岩があり、そこには旗の竿を立てる穴があったそうだ。現在はその岩の片方だけが残っている。

元の道を進むとグスクに入るのだが、これは戦後に城壁の一部を壊して造られた道なので、本来の糸数グスクへの登城道ではない。


城の井泉 (グスクヌカー)

城壁の東 (アガリ) のアザナの城璧の角の下に城の井泉 (グスクヌカー) があり、内嶽殿井泉 (ウチダキドゥンガ-) とも呼ばれている。日本軍が、戦時中陣地構築のために井泉を掘ったため、中の形は変わってしまった。また、かつては井泉の左手に石造りの洗面器があったという。何故ここに井戸があるのかは疑問に感じる。通常ならばグスクの中に井戸があるべきなのだが、グスクの外側だと、正門から城壁沿いに先ほどのダキドン坂を通り、この井戸に来るしかない。北のアザナは増築されたものなので、その際にこの井戸を城壁の中に取り込むこともできたはずなのにそうしなかったのは何か理由があったのだろう。


西 (イリ) アザナ

戦後、城壁の一部を崩し造られた入り口を入ると城壁の右側に物見台跡がある。西 (イリ) ヌアザナと呼ばれている。石垣にはアザナへの通路としての武者走り (写真右下) がある。こちらからはグスクの北西の端で糸数集落方面を臨む。城壁の外には木々が生い茂り、糸数集落は見えなかった。


綱内 (チナウチ)、糸数城之殿 (イチカジヌトゥン)

西 (イリ) ヌアザナの内側には広い広場があり、ここは綱内 (チナウチ) と呼ばれている。ここには糸数城之殿があったとされている。拝所などは見当たらなかったが、琉球国由来記の糸数城之殿に相当するとされている。糸数城之殿では、糸数ノ口により稲穂祭、稲大祭が司祭された。この殿の周りは石垣で囲まれていたのだろう、その痕跡が残っている。


糸数城之嶽 (イチカジグスクヌタキ)

綱内 (チナウチ) の奥は聖域のなっており、糸数城之嶽 (イチカジグスクヌタキ) がある。神名はモリテル御イベ。ここも綱内 (チナウチ) の一部。御嶽には石厨子やいくつもの石灯籠が置かれている。石灯籠は1814年 (嘉慶19年) に知念仁屋が、1819年 (嘉慶24年) に知念仁屋と大嶺仁屋が、1820年 (嘉慶25年) に太田仁屋が寄進したことが刻字されている。この辞意には糸数グスクは城としては使われておらず、聖域としてのグスクに変わっている。現在、糸数集落では8回の村落祭祀が行われており、糸数グスクは5月13日の三日崇べヌ御願、6月25日アミシヌ御願、八月十五夜 (アカナースージ)、10月1日のヒーマーチヌ御願、12月24日の年末ヌ御願で祈願される。先の琉大民俗クラブの調査では、当時のアミシの御願について「部落ではウンサク (神酒) を作り、ノロとジーハジリ (61歳以上の男性) 達が城の御嶽でアミタボーリの雨乞いの御願をするそうだ。


カニマン御嶽

御嶽の大岩には、香炉が置かれている。ここはグスクを築城した鍛冶工 (カンザー) の霊を手厚く祀った所と伝わっている。

御嶽の横には殿に通じる道がある。


東 (アガリ) ヌアザナ

西 (イリ) ヌアザナから東南方向に城壁が伸びている。この城壁は途中で90度曲がり北 (ニシ) ヌアザナに続いているのだが、城壁の曲角が東 (アガリ) ヌアザナだといわれる。糸数グスクが築城された時期は14世紀半ごろとされているが、この東ヌアザナが築かれた際には北のアザナへの城壁はなく、この場所にアザナがあり、正門に城壁が続いていたことが発掘調査で明らかになっている。この場所から正門までのかつての城壁は残っておらず、その礎石と思われるものが発見されている。北のアザナを造設した際に撤去されたと推測されている。この石垣にも武者走りが施されている。


北 (ニシ) ヌアザナ

北 (ニシ) ヌアザナはこの糸数グスクで一番の見どころの遺跡。東ヌアザナから登り石垣になっている。糸数集落からもこのアザナが見える。集落にあった馬場跡 (現 糸数農村公園) から写真も撮ったのだが、うまく写らなかった。

何故この北ヌアザナを造設したのだろうか?糸数グスクを本格的に造ったのは玉城王の三男が1326年頃にこの地に移り糸数按司になった時代。この時代は中山は英祖王統 (玉城王) が浦添、那覇方面を抑えていたので、北からの脅威はなかった。どちらかというと具志頭や糸満の南山を警戒していたと考えられる。玉城王の没後、即位した西威王 (玉城王長男、1336年 - 1349年) が1349年に察度により滅ぼされ、中山を奪われ、南山の汪英紫が糸数グスクの北にある島添大里グスクを占領、1406年には尚巴志が中山王武寧を滅ぼし中山を掌握している。確かにこの14世紀後半から15世紀前半は糸数按司にとって北からと西からの脅威に備える必要があっただろう。そこでこの北のアザナを増築し浦添や首里の動向を監視する必要があっただろう。北ヌアザナが造られた時期については、15世紀前半とされているが、いつこの糸数グスクが攻め滅ぼされていたかにより、14世紀後半から15世紀前半の間で随分とずれが出てくる。

この石垣にも武者走りがあり、そこをアザナまで登る。アザナの上からは勝連半島、中城湾、先日訪れた大城グスク、那覇方面まで臨め、快晴の日には慶良間諸島まで見渡せるそうだ。


正門

北ヌアザナは正門まで続く。この正門は北ヌアザナを増築した際に、旧正門を取り壊し新たに造ったと考えられている。城への入り口はここともう一つ裏門の二か所のみだ。この門へは旧糸数集落から通じる道から入る。城門は切り石の布積の櫓造りの城門となっており、バンバンジョーと呼ばれる。落城後も門には板の扉があり、風が吹くたびに門の扉がバンバンと音を立て、その音は集落まで聞こえたという。

正門から北ヌアザナへの城壁外側は切石積み (写真右上) で、南 (フェー) ヌアザナへの城壁は野面積み (写真左上) になっている。よく観察すると、石垣の途中で切り石積が野面積に変わっている。手間のかかる切り石方式から、自然石の野面積に帰る理由があったとされ、それは尚巴志軍の動向が差し迫ったものとなり、その攻撃に備えるため工事を急ぎ、急遽、野面積に変更したと考えられる。糸数グスクが落城した際には、比嘉ウチョーが石材調達に国頭に出向いていたとの伝承はまんざら作り話ではなさそうだ。

正門の両側の柱には扉を設置していたのであろう窪みが下と上にそれぞれある。


旧正門、南の虎口

正門の向こうには糸数グスク初期の旧正門が南の虎口としてある。石垣が二段になっている。もともとは城門であった石垣の上に更に高く石を積み増しをして、物見櫓として、そして城を守るための櫓として改造されている様にも見える。

城壁内部から見た旧正門跡。浄敗に通じる道らしきものもある。


南 (フェー) ヌアザナ

更に城壁に沿って進むと、城の南の端に南 (フェー) ヌアザナがある。こノアザナの向こうは急な崖になっている。

このアザナを登ると、城に近づく敵を攻撃する櫓の機能がよくわかる。また物見台としても太平洋が見渡せ、奥武島がはっきりと見渡せる。

この南ヌアザナの向こうにも石垣は続いているのだが、途中で決壊している。現在修復工事中だそうだ。この石垣は崖の上をぐるりと取り囲んで住居跡から西ヌアザナまで続いていたそうだ。


住居跡

もう一度、正門から城内に入る。今日は、草刈りが行われており、ようやくその作業も終了したようだ。草を刈った直後なので、住居跡の区画などがよくわかる。

住居跡には井戸跡もある。やはり城の中にも井戸は幾つかあったのだろう。


糸数按司の墓

グスク内に糸数按司の墓がある。この墓は、後に子孫が造ったもので、グスク時代からあったものではない。もともとの糸数按司の墓は船越グスクと糸数集落の間にある崖の下にあったものをここに移設している。糸数按司のどの代を葬っているのかは書かれていなかった。

住居跡は南の急な崖の上にあり、そこからは太平洋や旧玉城村の冨里集落、屋嘉部、奥武などの集落、当時は玉城グスクも見渡せたのだろう。


裏門

この住居跡は急峻な崖の上にあるのだが、西側には糸数集落の南端に通じる山道 (旧道) があった。そこへの出入り口が裏門だった。石垣門などは残っていないのだが、裏門であったという遺構はある。裏門は崖の亀裂に自然石の橋 (写真右下) を渡し、下りの山道に通じる。この石橋は比嘉ウチョーが一人で据え付け、有事の際には比嘉ウチョーが石を取り外したと伝わっている。

これで糸数グスクはすべて見終わったので、この山道を降りていく。この崖下には貝塚が発見されている。

山道からでたところはカンジャービラと呼ばれる急な坂道で、この付近に鍛冶屋 (カンジャー) があったとされる。この坂道の上が糸数集落になっている。カンジャービラは屋嘉部集落や船越集落に通じている。


旧前川集落

糸数グスクの南側の崖下に玉城村構造改善センターがあり、広いグラウンドがある。グスクの裏門から山道を下った所にある。この場所は現在の前川集落 (船越集落の西側) が移住する前に居住していた古島にあたる場所。


知念井泉 (チニンガー)

字前川の旧集落跡の玉城村構造改善センター入り口付近に知念井泉 (チニンガー) という井泉があり、古島のカーとして使用されていたそうだ。この井泉は、昭和35年頃採石場となったため地形が変わり現存しないとなっていたが、その辺りに井泉を形式保存したようなものがあった。これが知念井泉 (チニンガー) 跡かは確信はない。


根石城 (ニーシグスク、根石城之嶽)

糸数グスクの正門から出て旧集落に向かう途中に根石城 (ニーシグスク) 跡がある。この場所は、まだ糸数グスクができる前、糸数集落の最大の門中の百次 (ムンナン) 門中の始祖が玉城村から移り居を定めたと伝わる。屋号 百次の人が玉城間切仲村渠 (昔は百名村) のミントンから来てここに根を据えたので、根石グスクと呼ばれるようになった。根石グスクは元グスクとも呼ばれ、糸数グスク築城の際に、糸数按司がグスク建設完了まで、ここに住んだ場所といわれている。

ここには御嶽 (神名:嶋根富国根トミノ御イベ) が置かれ、根石ウガンとも呼ばれている。入り口には知念仁屋大屋が唐から持ち帰り奉納したとされる香炉が置かれている。琉球国由来記の根石城之嶽 (神名: 島根富国根トミノ御イベ) に相当すると推測され、屋嘉部 (ヤカン) ノロにより司祭された。屋嘉部 (ヤカン) ノロは後に前川集落に移住したので前川ノロとも呼ばれている。

中に入ると、幾つかの拝所が見える。井戸跡 (写真右上) があり、その隣には墓跡・骨神 (写真左下) がある。かつて、この根石グスクの前にあった佐南 (サチン) 村の島立ての祖霊を祭る聖地でもある。ウマチー等の村落祭紀はここからはじまる。佐南 (サチン) 村の子孫はこの拝所を御願している。(糸数村落はサナン、クールク、イトカズの三集団が合併して形成されたといわれ、サナン集団の御嶽が根石グスク、クールク集団の御嶽がウフヤマ御嶽、イトカズ集団はクニニーの拝所を管理している。)


旧集落跡

根石グスクの前は広大な広場になっている。この場所は糸数集落が現在の地に移住する前に居住していた古島にあたる。この場所には10世紀ごろから、この佐南大地に幾つかの小集落が造られ、糸数グスクが築城された後は城下村となり、糸数按司の家臣や蔵屋敷などもあったとされる。ここにあった集落は明治時代にかけて、徐々に現在の集落に移住していった。


蔵屋敷跡

広場には掘り切り後や家屋、蔵屋敷の礎石などの遺構が残っている。按司に仕えた臣下・農民・エ人集団が家を講えたり、あるいは作物を保管した蔵があった地域だ。このようにグスクの近くに城下村があるのは、具志頭村の多々名グスクの玻名城古島遺跡、糸満市の糸洲グスクの糸洲ヌ殿遺跡、阿波根グスクの阿波根古島遺跡等がある。

この古島には佐南グムイ跡がある。グムイは池の事で、現在では水はないが湿地のようになっている。この奥に佐南集落があったとされる。それ以外にもクールク集落などもあった。


マー井泉 (ガ-)、イン井泉 (ガ-) [未訪問]

この古島にはクールク集落住民が生活用水として使っていた井泉跡があるらしい。マー井泉 (ガ-) とイン井泉 (ガ-) なのだが、雑木林の中にあり、見つけることはできなかった。この二つの井戸の中間から屋嘉部村へおりる古道マーガービラがあり、糸数技司が屋嘉部村へ行く時に通った古道だそうだ。


次は現在の糸数集落内にある文化財を巡る。



糸数公民館

公民館は集落のほぼ中心にある。小さな公民館で、広場も車が3台程停められるぐらいだ。ここがかつての村屋であったのかは情報がなかった。


百次神屋 (ムンナンカミヤ)

まずは公民館の北側を巡る。公民館からすぐの所に百次腹門中の神屋がある。屋号 百次は糸数集落の国元 (クニムトゥ) で、英祖王統系の百次大屋子始祖とする門中の宗家だ。2001年までは福地腹 (明治時代初期に途絶えている) であったが、百次に改称している。糸数集落の中で最大の門中になる。百次腹以外の門中腹の始祖もこの時代の縁者から出ているようだ。

神の祭壇は2つに仕切られ、右側の「御神棚」には香炉が1つ安置されている。「百次腹門中、佐久堂原門中誌」によると、「神棚」に向かって左から福地の神人、津嘉山フェーヌメー、豊見城、大里平良城間の香炉が祀られていた。現在は、一つの香炉に合祀されている。中央の祭壇は「御元祖 (ウグヮンス)」と称し、門中先祖を紀る位牌2基と、4つの香炉が安置されている。先の門中誌によれば、香炉は向かって右から「産し廣ぎ女神」、「空御元祖」、「糸数按司の御元祖」、「グルー御元祖」を祀っている。神橳の左側床面には、三つ石と香炉が安置され、火ヌ神が祀られている。糸数集落では、現在、年8回の村落祭祀が行われている。その中で、百次神屋は、5月13日の三日崇べヌ御願、6月日の六月ウマチー、8月15日の八月十五夜(アカナースージ)、10月1日のヒーマーチヌ御願、12月24日の年末ヌ御願で祈願されている。


国根 (クニニー) [7月3日訪問]

百次神屋の前は空き地になっているが、ここは古島から移住してきた際の百次腹の屋敷があった場所。ここに拝所があり、国根 (クニニー) と呼ばれている。糸数の村立てをした人が祀られており、古い時代の糸数集落の住民の子孫たちに拝まれている。(糸数村落はサナン、クールク、イトカズの三集団が合併して形成されたといわれ、サナン集団の御嶽が根石グスク、クールク集団の御嶽がウフヤマ御嶽、イトカズ集団はクニニーの拝所を管理している。)1930年に造られた。この場所は見落としてしまった。

後日7月3日に屋嘉部集落と喜良原集落を訪問した帰り道に再度訪問し見学。


ノロ殿内 (ドゥンチ)、糸数巫火神

更に北に進みアブチラガマ近くの民家の離れの2階にノロ殿内 (ドゥンチ) の神屋がある。糸数集落のノロ元 (ムトゥ)と呼ばれている。祭壇に太田仁屋の唐旅の土産、香炉5個、ノロの拝む所、ウタナがあった。琉球国由来記の糸数巫火神に相当する。糸数巫火神では、糸数ノロにより稲穂祭が司祭された。


米須 (クミシ) 神屋

次は公民館の南側の文化財を巡る。公民館の近くに米須 (クミシ) の神屋があり、ウガンヤー小 (グヮー) とも呼ばれている。米須 (クミシ) 腹の始祖は玉城王の三男の糸数按司といわれている。最後の糸数按司である初代と二代米須按司を祀り、按司元 (ムトゥ) ともいう。三代以降、首里桃原に移ったとされ、首里から米須に拝みに来る人もいる。


倉舎小 (クラサグヮー)、獅子の台座

米須 (クミシ) 神屋の南に倉舎小 (クラサグヮー) と呼ばれる広場がある。琉球王統時代、ここには王府へ税を納める米蔵があった場所で、広場の隅に獅子の台座があり拝所となっている。8月15日の八月十五夜 (アカナースージ) の際、かつてここに獅子を一時置いたという。糸数での獅子舞の歴史は明治時代に始まる。明治33年頃に、前川集落の獅子と糸数の龕を交換してた。獅子舞は旧響八月十五日のジューグャーでこの倉舎小 (クラサグヮー) で行われる。


シーシーヌ前 (メー)

クラサ小 (グヮー) の近くの小道沿いにあるシーシーヌ前 (メー) と呼ばれている拝所がある。資料の説明では「祭神は、豚肉を糸数集落に導入し、死者の肉を食べることをやめさせた人物」と書かれているが、この説明は驚きだ。沖縄では昔、死者の肉を食べる習慣があったのだろうか?調べてみた。


フスクジラー御願 (ウガン)

集落南西部の十字路の一角 (北側) にあるフスクジラー御願 (ウガン) では、集落の魔除け、疫病の侵入を防ぐものとして、2月14日のシマクサラサーヌ御願で拝まれている。


目取間之子

集落南西部の端の丘の岩の場所に拝所がある。資料では目取間之子と呼ばれているのだが、写真は掲載されておらず、これが拝所なのかどうかは確信がない。目取間之子は糸数按司之家臣で糸数若按司の守役だった人物で、伝承では「第二代糸数按司の夫人の真加戸樽は絶世の美人で上間の久保某に襲われ夫婦共に自刃したという。この時に、守役の目取子が王子と王女を連れ目取真に逃れた。佐敷の鮫川大主 (尚巴志の祖父) が糸数城に居る上問の久保某を攻め亡ばしたとある。」第二代糸数按司は汪英紫が島添大里城を攻めたときに、娘婿の玉村按司の救援の為向かい戦死したという説もあり、この伝承とは時代が合わない。


中道 (ナカミチ)

糸数集落の東側、糸数グスクのある佐南台地との間の道路が中道。通常、中道は集落の中心を縦断する道なのだが、この糸数集落は少し異なっている。中道沿いには幾つかの文化財があるので、そこに向かう。


屋嘉部 (ヤカン) 神屋

中道沿いの集落南端にある南城市玉城構造改善センターの北方に屋嘉部 (ヤカン) の神屋がある。琉球国由来記によると屋嘉部巫火神は糸数村にあったとのことから、当所が屋嘉部巫火神に相当するとみられる。屋嘉部巫火神では、「三・八月、四度御物参」、「稲穂祭三日崇」が行われた。これらの祭祀では、芋神酒が供えられた。屋嘉部ノロは根石城での祭祀の他、糸数ノロと共に、糸数村、屋嘉部村、さらに前川村の祭祀も司祭した。


殿内屋 (トゥンチヤ―)

屋嘉部 (ヤカン) 神屋の前の道路を挟んだ糸数グスクのある丘陵斜面の麓に殿内屋 (トゥンチヤ―) のがある。糸数グスクの火ヌ神が祀られている。村道工事で取り壊され、新川近くのこの場所に移された。1960年代後半、5月14日に各戸から供出された米で殿内屋小 (トゥンチヤ―グヮー)でご飯を炊き14才以下の子供達に夏パテしないように与えたという。現在、新米ヌ御願 (ミーメーヌウガン) に拝まれている。


新川 (ミーガー)

殿内屋 (トゥンチヤ―) への入り口の場所にある新川 (ミーガー) はグスクグサイの神ガーで、正月の若水や飲料水として使用された。石積みの古いカーは数百年前、大正年代に粟石造りで造られたが村道工事のため取り壊された。現在はコンクリート造りのカーが村道と崖の間に残されている。


馬場跡 (ウマィー、糸数農村公園)

集落の西の端の崖の上に糸数農村公園がある。凍場所はかつての馬場跡 (ウマィー) でかなり広い。向こうに糸数グスクのある丘陵が見える。


樋川川下り口 (ヒージャーウリクチ)

集落の南西の崖の中程にある糸数樋川へ下りる道の入口にある拝所。ここは集落の端に当たり、ここから魔物や疫病が集落へ入ってこないようにシマクサラサーヌ御願で集落の外に向かって拝まれている。


糸数樋川 (イチカジヒージャー)

集落南方の傾斜地の石畳の路を降りていくと糸数樋川 (イチカジヒージャー) がある。

糸数樋川は男 (イキガ) ガー、太陽 (ティダ) ガーと呼ばれ、古くから豊富な水量を有していたので、旱魃時には島尻各地から馬車で水汲みに来ていたという。1870年代後半に野面積みから切り石積みに整備された。以前は糸数集落の主要な水源地であったが、現在は農業用水の水源地として使用されている。


カマンカジ

糸数樋川 (イチカジヒージャー) への石畳の路の途中に別の道があり、そこを行くともう一つの井泉跡がある。カマンカジで、先ほどの糸数樋川 (イチカジヒージャー) と対比するように、女井泉 (ヰナグガ-)、御月井泉 (ウチチガ-) とも呼ばれている。その名のごとく、女性が水遊びする時に使われたとも言われている。今も水量豊富で、コンクリート製の貯水槽が設置されている。1736年頃に造られたといわれ、戦後、取水のため洗い場は取り壊された。現在、農業用水の水源として使用されている。

今日は草が生え放題で井戸跡が良く見えないのだが、以前来た時には草も刈れて形もよく見えた。その時に撮った写真が下のもの。


サーターヤ出ロのシーサー

集落の四隅に石獅子が置かれている。糸数集落の石獅子は比較的新しく、大正時代の始め頃に屋号 門 (ジョー) の石工に依頼し、糸数グスクの麓から石を切り出して製作したものだそうだ。当時は生まれた赤ちゃんの死亡率が高く、奄美出身の風水師の進言により、ヤナムン (悪霊) 退散のために設置し、その後死亡率は減少したという。集落北東部のアプチラガマ入り口近くの製糖場 (サーターヤー) に一つを設置している。集落の北東の喜良原の火元への火返しだそうだ。糸数集落の石獅子は、2月14日の悪霊除けのシマクサラサーヌ御願で拝まれている。


アカグムヤー出口のシーサー

集落の北東部にある石獅子。石獅子がある付近は赤土であったことから、アカグムヤーと呼ばれた。また、かつて近くに水場があり、農作業の帰りに手足を洗ったり、馬を洗ったりしたという。


マージの出口のシーサー

集落から見て北方にある畑作地帯内の石獅子。この付近の土壌は「島尻マージ」と呼ばれ、軟らかく、腐食顔料 (養分) が少なく、保水力が低いので、稲作には不向きだった。


カンジャーヤー出口のシーサー

集落南部にある石獅子。付近にカンジャーヤー (鍛治屋) があったという。


大山御嶽 (ウフヤマウタキ、大森 ウフムイ)

集落を外れ、屋嘉部集落に向かう道、ちょうど糸数集落と屋嘉部集落の中間に大山御嶽 (ウフヤマウタキ) がある。かつてこの付近は前川集落の古集落があった場所。また、糸数の神人の名付け所であったともいわれる。琉球国由来記の大森 (神名: 君マツノ御イベ) に相当する。「大森」は前川村にあり、糸数ノロにより司祭された。この御嶽は糸数にかつて存在していたクールク集落の人たちが御願していた。(糸数村落はサナン、クールク、イトカズの三集団が合併して形成されたといわれ、サナン集団の御嶽が根石グスク、クールク集団の御嶽がウフヤマ御嶽、イトカズ集団はクニニーの拝所を管理している。)


アブチラガマ (2019年9月24日訪問)

糸数集落で最も力を入れている場所がアブチラガマで沖縄戦の遺構を保存している。今日は糸数グスクはじめ集落内の文化財を巡り終えた段階で、このアブチラガマは営業終了となっていた。このアブチラガマには1年半ほど前に見学をした。その際は、多くの大型バスから高校生が修学旅行の平和学習活動として降りてきていたが、今日は駐車場もひっそりとして見学者のほとんどいない状況だ。新型コロナの影響がここにも出ている。ここにはガイドが案内してくれるので、もう一度色々な話を聞いてみたかたのだが、時間切れなので前回のレポートを掲載しておく。

糸数グスクのある佐南台地の西側には糸数集落があり、住宅街になっている。その住宅街の中に糸数アブチラガマという自然洞窟 (ガマ) があった。沖縄には多くの自然洞窟があり、墓や拝所として使われていた。ここも拝所かと思っていたのだが、沖縄戦の時に以前訪れた南風原陸軍病院の分室として病院があったと書かれていた。この沖縄の旅のテーマの一つが沖縄戦なので、寄って見ることにした。入場は250円だが、見るにはガイドの付き添いが必要との事で、追加で1000円のガイド料がかかった。一人なので割高になったが仕方がない。沖縄戦ではこの糸数集落には500人程住んでいたが、其々の人が、数ヶ所にあった自然洞窟を避難壕として指定されており、ここもその一つだった。日本軍の陣地壕や倉庫としても使用され、戦線が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となった。洞窟内に木造小屋が建てられ、近くの製糖工場からディーゼルエンジンでを移し電気を引いていた。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊16人が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。

昭和20年 (1945年) 5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数に移動できない老人や幼子を抱えた婦人などの住民50名と移動できない負傷兵100名が残された。食料倉庫の監視として4名の兵隊も残ったが、これは米軍が侵攻してきた時に焼き払う任務だったという。電気設備も撤去され、その後は暗闇での生活が3ヶ月続いた。米軍がこの地に到達し、入り口は埋められ、通気孔から黄燐弾やガソリンが投入され何人かは亡くなっている。8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出る事になるのだが、住民は40数名、負傷兵士は7名が生き残った。

ガイドの當山 (とうやま)さんからは色々な話を伺った。内容は身につまされるものだった。

陸軍がこの洞窟に入ってきた時に洞窟内を整備し、建屋、通路、補強のための石垣、通気孔、便所、移動、橋、竃などを整備した。あたかも一つの集落の様だったという。建物は戦後、住民が糸数集落に帰ってきた時に家の再建に使われて、今は残っていない。

ここには二人の韓国人の慰安婦がいた。その場所には、ひめゆり学徒隊は立ち入れなかったという。やはり韓国人慰安婦がいたのだ。毎日、兵隊の相手をさせられた。これも戦争の悲惨な事実だ。その慰安婦のその後はわからない。戦地に置き去りにされたのだろう。

ひめゆり学徒は最初は戸惑いで怯えていたという。毎日誰かが亡くなり、遺体安置所なるものがあったが、安置所ではなく遺体を捨てる場所になった。便所の汚物を捨てに行くのは彼女たちの日課だったという。次第に感覚が麻痺し、ただ命令に従うロボットになっていたとひめゆり学徒隊の生存者は証言している。

陸軍病院が撤去され、住民と負傷兵だけになった時に、住民には一日一合の米が配給されたが、負傷兵には配給は無かった。軍は負傷兵は役立たずで、いずれ死ぬので食料は不要と言い放ったと言う。動けないので、井戸に水を飲みに行く事も出来ない。ただ死を待つだけだった。苦しさで各人に配られていた青酸カリで自ら命を絶つものもいた。住民は夜暗闇の中、横穴から外に出て米を炊き、オニギリを作り戻って来るのが日課だった。糸数の住民が自分たちの食料を生き残った負傷兵に食べさせていた。陸軍の非道に比べ、住民は優しかった。沖縄には誰でもが教えられる3つの事がある。「命どぅ宝 (ぬちどぅたから)」命こそ宝という意味 ドラマの琉球の風で尚泰王が薩摩に降伏する時にもこのフレーズが使われていたのを思い出した。本当に言ったのかは分からないが、戦争で悲惨な経験をした沖縄県民には重い意味がある。次に「ゆーまーる」助け合う、共同作業、一緒に頑張ろうという意味。そして「いちゃりばちょ~で~」いちゃりば (一度会ったら)、ちょ~で~ (兄弟) という意味。この後には「何隔 (ぬーひだ) てのあが、語てぃ遊ば」が続く。隔たりなんかないよ、酒を飲んで語り、歌い、踊りましょうという意味。この3つの言葉は戦後に多く語られる様になったが、その精神が古い時代から続いていた。それがこの悲惨な状況下でも忘れる事なく、各地で多くの感動を残している。

負傷兵の生存者に日比野さんと言う人がいる。住民に助けられてひとりだ。21才だった。戦後100回以上この地を訪れている。日比野さんだけでなく、生き残った多くの兵隊さんが何度も沖縄に足を運ぶという。當山さんの話を聞いて、その意味がわかる様な気がした。この沖縄という地、うみんちゅから受けた事はその人の人生を変えた。戦後を忘れたいが、その中で忘れられないほど大きな出来事がそれぞれの生き残った兵士にはあるのだろう。自分が生きている意味がここに来れば分かるのだろう。

當山さんは語っている時に時々、感情が高ぶるのか言葉がつまる事があった。今日も多くの大型観光バスが学生達をここに運んで来ていた。ガイドが終わって、事務所に向かう途中に、「戦争は無くならないのでしょうか」とぼそりと聞いてきた。以前、生徒の一人に「戦争で物が売れ、生活している人がいるのに、本当に戦争は悪い事ですか?」とガイドした後に言われたという。大きなショックだった。今でもその言葉が気になって仕方がない。自分たちが戦争の悲惨さを訴えているのに、何故理解してくれないのかと無力さを感じるという。でもこれまで通りにガイドをして伝えて行きたいと言っていた。

この施設は誰が運営しているのか聞いてみた。今は南城市だが合併前は玉城村だった。戦後この自然洞窟に訪れる人が多くなって、道路は駐車しているクルマでいっぱいになり、民家にはトイレを借りに来る観光客でいっぱいになった。住民は困り果て、村長に洞窟を閉鎖する様に要求。しかし、同様な理由で殆どの洞窟が埋められてしまったが、後世に平和を考える遺構として残すべきとして、駐車場を作り、運営の為に入場料を取って、洞窟の安全性確保の工事などを行なっている。ガイドさんは9名いる。みんなもう戦争体験者ではない。高齢の生存者の家を訪ねて話を聞こうとするが、皆話をしたがらない。思い出したくない。自分たちが子供に伝える事が必要だと何度となく足を運び少しづつ話してもらった。もうその時の人は殆どが他界している。當山さんはじめガイドさん達は、そこにも不安を抱えている。生存者がいなくなり何世代か後にはどうなっているのだろうか....

ここには2時間程いて色々考えさせられた。貴重な話が聞けて良かった。



今日は多くん種類の蝶が飛んでいた。家に帰った後でインターネットで調べた。

アオタテハモドキ (左上)、ツマグロヒョウモン メス (左中)、ツマグロヒョウモン オス (中上)、ナミエシロチョウ (右上 この蝶は初めて見た。後ろの羽が黄色で、前の羽は白と黄色のツートンカラー)、ウスイロオナガシジミ (中中、右中)、アサギマダラ (左下、左中 近づいても逃げない。羽を開くまで待っていたが、なかなか開かないので、失礼してつかめて、羽を開いて写真撮影、その後は飛んでいった。飛んでいる姿の方がきれいなのだが...)、ベニモンアゲハ (右下)


参考文献