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「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 幕末という時代と山田方谷

2021.05.01 22:00

「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 幕末という時代と山田方谷


 まず先に、本日は本来は日曜日である。そのために「日曜小説マンホールの中で」をお届けしているのであるが、まあ、ゴールデンウィークであるので、今週と来週は日曜小説をお休みいただいて、「ゴールデンウィークの特別企画山田方谷」にさせていただきます。5月16日の日曜日から、日曜小説は再開いたしますのでよろしくお願いいたします。

そのうえで、今週は、ゴールデンウィークであることから、普段通りのブログではなく、特別編集でブログをお届けすることにしている。まあ、毎年年末年始、ゴールデンウィーク、お盆という一年のうちの3回の長期間休みにおいては、多くの人が休んでしまっているので、基本的にはあまり大きなニュースが存在しない。特に、今年の場合は、コロナウイルス禍であるということから、東京や大阪などにおいては緊急事態宣言が出てしまい、他府県に遊びに行くことも、東京都内で会食や酒を飲むこともできない状態なのである。

当然に社会全体がそのようになってしまえば、コロナウイルスの内容しかなくなり、ニュースなどは何もなくなってしまうのである。基本的にあとは刑事事件の報道か事故の報道だけになってしまう。つまり、「エロ(わいせつまたは不倫)」または「交通事故」「火事」というところしかできなくなってしまうのである。これでは、基本的にニュース解説のブログはできないとしか言いようがないのである。そのために、毎年この三つの長期休みに関しては「特別企画」をしている。要するに、様々な書いているが、単純に政治経済の大きなニュースは存在しないし、また事故や刑事事件はあまり面白くないのである。

そのうえで、普段毎年ならば「GWのエロ」と題して、エロばかりを書いているような気がするのであるが、まあ、このコロナウイルスの外出及び酒自粛生活下で、エロの話ばかりしていても、なんとなく面白くない。というよりは、たぶん「年末年始のエロ」や昨年の「お盆休みのエロ」と同じようになってしまい、あまり代わり映えがしない内容になってしまうのではないかという気がしてならないのである。

実際に「エロ」というのは、本来人間の本質が現れることでありもっとも人間の「動物的欲求」の表れでもあるのだが、まさにそのことが政治や経済にどのようにかかわるのかということを書きたいということになる。単純に、「政治や経済」ということだけを行うのであれば、当然に「合理的」に行えばよいわけで、合理的であれば、それほど大きな混乱なくできるはずなのである。

しかし、政治や経済がおかしくなるのは、当然に人間そのものが合理的ではないからであり、合理的といっている人が最も合理的ではない感情的、支配的、覇権的な選択肢を取り、そのうえで、その選択肢に対して合理的であるかのような偽装を行うことによって世の中が混乱することになるのである。

ではなぜ政治や経済は合理的に動かないのであろうか。それはそもそも政治や経済というものは、国民(領民、庶民、一般人などその対象は変わるかもしれないが)の生活ということを基準に行うのであるが、残念ながらその国民全体、つまり政治の対象者が合理的ではないということになる。ましてや「子供」「老人」となるとなかなか合理的な内容にはならず、感情のまま話をするということになる。その感情のまま話をするということを加味しながら政治をしなければならず、ある程度の状況を作り出さなければならないということを考えているのであるが、その調整がうまくいくかどうかということが最も重要ということになるのである。

例えば少子化問題。その少子化問題というのは、子供が将来生まれるという前提ではなく物事を考えなければならないということになる。つまり労働人口が少ないという状況で、労働市内人口(老人・こども・病人・障碍者)を支えるということになる。ここまでは合理的に物事が進むことになろう。

しかし、その内容に関して、解決策は、基本的には「子供を産む」ということしかなく、子供を産めるのはどんなに頑張っても女性でしかなく、また女性が男性と性行為を行わなければ子供は生まれない。しかし、その「性行為」をさすがに合理的に解決することはできない。恋愛感情や家の事情、そのほか地域的なことや会社的なことなどを加味しなければならないからである。

つまり「合理的に物事を考えることができない恋愛感情や性行為」を、政治の基本として税収や予算を考えないといけないということになるのであろう。その前提で「合理的な政治」などが実現するはずがないのである。

ということで、「エロ」というのは、半分以上は興味であるが、残りは「人間や政治や経済の本質論」ということで行ってきている。

しかし、かなり長い前置きであったが、今年のゴールデンウィークは異なる。

なんと、「備中聖人」といわれた幕末の天才、幕末の諸葛孔明、山田方谷について考えてみようと思うのである。まあ、単純に考えれば、「備中松山藩幕末秘話 山田方谷伝」(上下二冊 振学出版)を4月9日に上梓したので、その宣伝を込めて話をしてみようと思うのである。まあ、前置きは長かったが、とりあえずその内容を今回は5月9日まで特集企画として行うことにしたい。

さて、それで第一回ということであるが「幕末という時代と山田方谷」ということでお話をしたいと思っている。といっても、ここで教科書的な時代背景を語るつもりは毛頭ない。当然に、その話というのは「江戸」を中心にした内容でしかなく、また、京都などの政治の中心にして見えている内容ばかりが教科書に書かれているのである。しかし、現在もそうであるが「永田町」で何かがあっても、そのことが我々庶民のところに入ってくるには時間がかかるし、当然に物価なども東京の中心と田舎とでは異なるということになる。そのように考えた場合、「山田方谷」の前提となる「幕末」と「教科書に出てくる幕末」は少し異なるはずなのである。

さてでは山田方谷とはどんな人物なのであろうか。一応、人物事典などの内容を見てみよう。

<以下抜粋>

山田方谷

没年:明治10.6.26(1877)

生年:文化2.2.21(1805.3.21)

 幕末維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,通称安五郎,方谷は号。備中国阿賀郡西方村(岡山県高梁市中井町)に絞油業を営む父五郎吉(重美)と母梶の長男に生まれる。丸川松隠に就き,のち文政8(1825)年上洛して寺島白鹿に学び,10年松山藩(岡山県)藩校有終館会頭となり,士籍に列した。天保2(1831)年再上洛,春日潜庵ら陽明学者と往来,翌年江戸に出て佐藤一斎に師事する。7年帰藩後藩校学頭。嘉永2(1849)年藩主板倉勝静の抜擢により元締役兼吟味役,またのち郡奉行となり破綻した藩財政の立て直しを行う。学者としての名声高く,久坂玄瑞,秋月胤永,河井継之助らが来遊従学する。文久2(1862)年藩主が老中に就任するや,方谷を顧問とした。慶応1(1865)年藩主の老中復職後再び顧問となり幕末政局に対するが意を得ず帰藩する。維新後はもっぱら教育に努め,明治6(1873)年再興の岡山県閑谷学校に請われて出講した。その思想は陽明学であるが,単なる祖述に終わらず「経世致用の学」との自信に裏付けられていた。<著作>『山田方谷全集』<参考文献>山田準『方谷先生年譜』

(沼田哲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典につい

<以上抜粋 https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7-21930

 さて、幕末というのは激動の時代である。時代が変わる時というのは、停滞感はなく、かなり激動で様々なことが変わってゆくということになるのであろう。つまり、「昨日までの常識が、明日の常識では無くなっている」ということが、大前提にあるということになる。実際に教科書的なことを言えば、つい先日まで外国人というのは日本の出島以外には入れず、攘夷として「敵対的に国から排除する」ということが言われていた時代、ペリーが来て開国した瞬間、翌日から欧米の「青い目」が入り込んでくるのであり、またご禁制であったギヤマン(ガラス)やワインなどが市中に出回るということになる。その違いに慣れている人は良いが、なかなか変わることができない人々は、それがうまくゆかなくなってしまうということになるのであろう。

 「激動の時代」というのは、このように「価値観の大幅で急激な変更」が強制されるということに他ならない。しかし、ではそれは日本全体なのであろうか。

 当時の情報伝播速度から言えば、早飛脚を使ったところで江戸から山田方谷のいた備中松山までは22日かかったらしい。よく東海道53次というが、これは老人や子供のことを考えて宿場町を設定しているので、普通の男性の足で行けば、この半分25日、早飛脚ということになれば、その3分の2くらいだから15日程度で行けたことになる。京都までがその時間なので、まあ、計算的に合わない話ではない。当日の情報が22日後にしか最短で届かないということであれば、通常の文化の伝播は早くて三カ月、遅ければ(季節ものなどもあるので)数年遅れて文化が到来することになる。

 そのような備中松山藩、現在の岡山県高梁市の江戸時代の幕末とはどんなだったのであろうか。

基本的に幕末であっても、その幕末らしさがなかったと考えるのが普通であろう。単純に、エビデンスだけを妄信して議論を進めているような人は、江戸と同じ速度で日本中に文化が広まるというような前提でないとならないような研究結果が多く、物価も江戸と備中松山藩で同じ文化であるというような前提になってしまうことが少なくない。

まあ、エビデンス主義で話をしている人は、それはそれでよいのであろうが、そもそも当時の日本が統一貨幣による貨幣経済であったのかも疑わしい状態で何を考えるということになるのか。単純に藩札なども大量に発行されていても統一貨幣の内容であれば、同じ価値になる。つまり藩札の信用不安ということが起きるはずがないのである。

 まあ、エビデンスの人々を置いておいて、幕末の備中松山というのは、多分寛政の改革を行っていた時代の江戸の文化レベルで、物流は山の中の(つまり海の魚の少ない)町であったというように考えるべきであろう。そのうえで、それが松山藩の城下町であり、山田方谷が生まれた「農村」という場所は、それなりに時間が止まった場所であった。

 その時間が止まってしまったような場所で、「学問で身を起こす」ということを、まあ、身を起こすというよりはお家再興を図るといった方がわかりやすいかもしれないが、そのような状況の関上げ方を持つということは、山田方谷の家は、それなりに高い文化性と、武士などのしっかりとした家柄であったことがうかがえる。

 そのうえで、当然に城下にはまだまだ武辺物というものがいたであろうし、また、江戸・京・大阪というようなところから戻ってきた「都会被れ」もいたと考える。基礎の文化レベルが時を止めたような中であるが、その中にはさまざまな個人差があったというように考え、その中で、農村の中では先進的な考え方をしていたのが、たぶん山田家(子供のころは苗字が許されていなかったので、ただの貧農の油売りであった)であったということが言えるのではないかという気がするのである。

 その山田方谷が、時代で言えば、天保の改革、開国、攘夷、戊辰戦争、そして明治十年までの新政府時代をこの松山の地と、そして江戸や京都で過ごすということになる。ある意味で「田舎の文化性を持った目で、そのうえある意味で回顧録的な感覚の学問の世界にいながら、最も先進的な藩政改革を行い、なおかつ、その藩政改革の結果をもって江戸の幕末を老中顧問として過ごし、そのうえ松山藩を守る」ということを行ったということになる。

 ある意味で「今孔明」というような単語があるが、幕末の孔明というような感覚で物事を見てゆけばよかったのでないか。

 さて、このように書いているときりがないので、突然ではあるがこの辺で終わることにして、明日以降、この話を続けてみたいと思う。その時に「山田方谷の時代」というのは、少なくとも私の文章の中では、ここに書いた時代考証が前提になっている、つまり時代の違いだけではなく、その時代を象徴している江戸ではなく、そこから何年も文化性が遅れ、なおかつ、その文化の遅れは、ある意味でその結果まで合わせて伝播してくるような状況になるということになるのである。