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孤独の達人・芭蕉

2018.05.02 14:24

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/17219466?categoryIds=4001213 【鴨長明や西行、芭蕉ら隠者に学ぶこれからの時代の「ひとり」の哲学】 より


http://sybrma.sakura.ne.jp/309mikikiyoshi.kodoku.html 【 孤 独 に つ い て  三木清】 より            

「この虚無の空間の永遠の沈黙は私を戦慄させる」(パスカル)

 孤独が恐しいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によつてである。恰も、死が恐しいのは、死そのもののためでなく、むしろ死の条件によつてであるのと同じである。しかし孤独の条件以外に孤独そのものがあるのか。死の条件以外に死そのものがあるであらうか。その条件以外にその実体を捉へることのできぬもの、──死も、孤独も、まことにかくの如きものであらうと思はれる。しかも、実体性のないものは実在性のないものといへるか、またいはねばならないのであるか。

 古代哲学は実体性のないところに実在性を考へることができなかつた。従つてそこでは、死も、そして孤独も、恰も闇が光の欠乏と考へられたやうに、単に欠乏(ステレーシス)を意味するに過ぎなかつたであらう。しかるに近代人は条件に依つて思考する。条件に依つて思考することを教へたのは近代科学である。だから近代科学は死の恐怖や孤独の虚妄性を明かにしたのでなく、むしろその実在性を示したのである。

 孤独といふのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。むしろひとは孤独を逃れるために独居しさへするのである。隠遁者といふものはしばしばかやうな人である。

 孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。「真空の恐怖」──それは物質のものでなくて人間のものである。

 孤独は内に閉ぢこもることではない。孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸して、じつと見詰めよ。孤独の感じは急に迫つてくるであらう。

 孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。

 東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。

 孤独には美的な誘惑がある。孤独には味ひがある。もし誰もが孤独を好むとしたら、この味ひのためである。孤独の美的な誘惑は女の子も知つてゐる。孤独のより高い倫理的意義に達することが問題であるのだ。

 その一生が孤独の倫理的意義の探求であつたといひ得るキェルケゴールでさへ、その美的な誘惑にしばしば負けてゐるのである。

 感情は主観的で知性は客観的であるといふ普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。

 真理と客観性、従つて非人格性とを同一視する哲学的見解ほど有害なものはない。かやうな見解は真理の内面性のみでなく、また特にその表現性を理解しないのである。

 いかなる対象も私をして孤独を超えさせることはできぬ。孤独において私は対象の世界を全体として超えてゐるのである。

 孤独であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤独を知らない時である。

 物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応へる自己の表現活動においてのほかない。アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めてをり、見られることがそれにとつて救済であるといつたが、表現することは物を救ふことであり、物を救ふことによつて自己を救ふことである。かやうにして、孤独は最も深い愛に根差してゐる。そこに孤独の実在性がある。

  

 (注)1.上記の三木清「孤独について」の本文は、新潮文庫『人生論ノート』

     (新潮社、昭和29年9月30日発行、昭和36年9月15日25刷)によりまし

     た。

    2.文庫の本文には旧漢字が使用してありますが、ここでは常用漢字に

     改めてあります。

    3.文庫巻末の筆者による「後記」に「このノートは「旅について」の

     一篇を除き、昭和13年6月以来『文学界』に掲載されてきたものであ

     る」とあります。

      参考までに、文庫の目次にある23篇を次に示しておきます。

       死について  幸福について  懐疑について  習慣について

       虚栄について  名誉心について  怒について  人間の条件

       について  孤独について  嫉妬について  成功について

       瞑想について  噂について  利己主義について  健康につ

       いて   秩序について   感傷について   仮説について  

       偽善について 娯楽について 希望について  旅について

       個性について

    4.三木清(みき・きよし)=哲学者。兵庫県生れ。京大卒。法大教授。

        はじめ人間学的立場からマルクス主義哲学を研究、のち西田哲

        学に接近し、ロゴスとパトスを統一する構想力の論理を展開し

        たが、未完に終わった。第二次大戦末期、治安維持法違反容疑

        で逮捕され、敗戦後まもなく獄死。主著「パスカルにおける人     

        間の研究」「唯物史観と現代の意識」「歴史哲学」「構想力の

        論理」(1897-1945)    (『広辞苑』第6版による。)

    5.フリー百科事典『ウィキペディア』に、「三木清」の項があります。

    6.『青空文庫』で、『人生論ノート』の全文を読むことができます。

     これは『三木清全集 第1巻』(岩波書店、1966(昭和41年)10月17日

     発行)に拠ったもので、本文は全集の通り旧字で表記されています。