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Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説40

2021.05.06 23:00


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



持っていないのではなくて。もはや存在さえしていない、最初から、まったく…そうに違いない、と。私は思っていた。

記憶をなくす月のかぐや比賣のように)

——お前、誰よ?

多果子が肛門から顏をだして、そうささやき、笑う。憍慢を拔きて餘す所なきこと大水の弱き蘆の堤を引き拔くが如くす比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——知らないの?あなたは穢れた。だから僕はあなたを殺した。

私の聲を多香子は聞く。

——あなたを綺麗にしてあげる爲に?…いや、たぶん、僕自身が綺麗になる爲に…

譬え耳はもはやなくとも、多伽子は。諸有の間に精を求めて得ざること優曇婆羅樹の林中に花を求めて得ざるが如くなる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——お前、誰?

多伽子がなおも呟く。

聲を幾重にもかさねて、それぞれにとよめかせながら、

——どこの誰よ?…と。内に怒りの心なく有又非有の念をも之によりて超えたる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——忘れた積り?

私は猶もつぶやき續けた

——忘れる事さえできないのに?…と。疑念を解き内を斷じ盡し殘す所なき此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——あんたは不幸だった。すがった男にさえ軽蔑された。藥まみれの、頭のおかしなあんたは、だから

多香子の眼が触手を生わせ

——穢レるしかなかった、だから、…と。

わたしがささやけば觸手はのびて壁を這い走ること疾きに過ぎず又遲るることなく總て此の妄心を伏したる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——あんたは忘れてないんだよ。あんたの惨めな末路。俺が殺した?…まさか。

私は思った、それ、窓の向こう、雪の向こうの朱のかがやきを、

——俺はあんたを救った。…と、わたしはまばたいて走ること疾きに過ぎず又遲るることなく世間一切のもの是れ虛妄と知れる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——俺はあんたを殺した掌に感じていた。死んでいいくあんたの、…

震える。多伽子の

——首の痙攣を、俺は見つめた、それでもなお、…と、走ること疾きに過ぎず又遲るることなく一切は虛妄と知りて貪望を離れたる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——見つめ続けた。頸の温度(…せき止められた血、その脉打つ温度さえも)、見つめた。

多香子の伸びた舌が二つに裂けて空中に震えた。

——死んでいくあんたの広げた瞳孔の反射の白濁、…と、走ること疾きに過ぎず又遲るることなく一切は虛妄と知りて愛欲を離れたる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——最期の時にあんたは口を広げた。おおきく…

指。

——阿のかたち大きくひろげ、と。わたしの指はすべて、かすかにふるえているのを已にしりながら走ること疾きに過ぎず又遲るることなく一切は虛妄と知りて瞋恚を離れたる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——あんたはもはや俺をなど見て居なかった。見開いた眼で、…と。

ささやく私の聲に多伽子は笑う。聲を立てて

——もはやなにも見得なかったろう?…と。笑う多迦子の聲を聞き走ること疾きに過ぎず又遲るることなく一切は虛妄なりと知りて愚痴を離れたる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——云え。…なんか云えよ。ごめんなさいと?…と。

私は敢えてささやき続け——殺してやると?

——お前なんか死んで仕舞えと?…云え。お前の言うべきことを、と、ささやくわたしにささくれだった首を多伽子はのたうち皮膚に呼吸を長く吐き墮眠の惑ひ已に彼に存することなく害惡の根悉く斷たれたる此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——お前。誰?

多香子は云った。

私は聲を立てて笑い此岸に還り來たりし所以たる怖畏所生の邪業已に一として彼に存することなくてかゝる比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

——お前は狂うたん?

多伽子は云った。

——お前はもう、な。狂うたん?…と人を生に縛す愛欲所生の邪業已に一として彼に存することなくてかゝる比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたる殻を破る如し。

私の笑う声を多伽子は聞いた。故に、ささやくのだった、彼女は

——お前、人の詞もはなしてないぞ、…と、お前、誰の誰の詞もわすれたぞ、と、お前、誰が誰かももう知らんぞ、と。

ささやく多香子はあきらかに私に怯え五蓋を捨て苦なく疑を超え惱なき此の比丘の此岸彼岸を捨つること

 蛇の朽ち古りたるノックの音に振り返る。

私は。

タオに決まっていた。

ドアを開く。

タオだった。私を見、そして一瞬深く、表情さえなく深く、見つめ、そして言葉もなにも無くした一瞬の跡に、黄泉がった黒目の色の向こうで、私に微笑んだ。

わたしは已に彼女の爲だけに笑んでいた。

是は寝室の中だった。

故に彼女は寝室に来たのだった。

故に彼女は云った。——どうするの?…と。

——なに?

——描く?

私は彼女の爲に笑んだ。

アトリエに誘導する(むしろ自分が事のそもそも首謀者かなにかでもあったかのように私を誘う)彼女の後姿に、わたしは彼女の身体に昨日の苦痛の痕跡がないこと怪しんだ。

もっと、筋肉も筋も傷んでゐてしかるべきだった(すでに彼女が再生してしまったことを感じた。…これは妄想。

わたしだって知っている。是がありえないもうそうだということは)。

アトリエの中の黑ぬりのカンバスの前に立った(是は彼女が、である)。

タオは振り向きもせずに(是は私を、である)私にだけに云った。

——眞っ黑だね。

転生というもの。そもそもかの天竺に於ては(すくなくとも書物に於て知る嘗ての、である)決定的概念ではあっても我々にとって単にオカルトにすぎないその概念が、常にある人格総体にかかわるものだということは虚妄だ、と。

わたしは思った。

もっとありふれ、もっとかぎりなく繁茂する海の中の単細胞せいぶつのような杜撰さで、それは営まれていたに違いない(…と、わたしはそう思った)。

故、多迦子も私もタオもなにも、すでに恒河の沙ことごくの數の恒河の沙ことごくの數乘の轉生をみていなければならない。

タオがようやくに振り向いて云った。

自分から服を脱いだ。夕方の、沒しかけの暗い日差しが黑の色彩さえ持たないままに入り込んで、彼女の肌をくらませながら雲母の白をあきらかにさらした。云った。——どうしたら、いい?

兩手を広げて。

わたしは応えた。——いっぱい。…もっといっぱい。両腕が引きちぎれるくらい、いっぱい(たぶん、彼女は「ひき‐ちぎれる」の「ひき」を理解しなかった。一瞬の、ほんの須臾、自分が理解できなかったことを認識するまでにも到らないすぐさまに彼女は直感的にすでに理解していた)

タオは私を見てた。

笑み、むしろ私をかたくなに信頼してた。わたしはその信頼に、実際にはなんら内容の無い事には気づいていた。

蹂躙される私を、わたしは感じた。

後ろ向いて。

私は云った。わたしは聞き取ったのだが、わたしの聲は明らかに優しかった。

ふれる絹のように?

若干、取り付く島もない冷たさを感じさせて?

所詮、だれにとっても他人の。

にも拘わらず、だれかを嫉妬させたほどにやわらかになめらかに。

その儘(——と。

彼女は立ったままだった。

だから、その儘立ったままでいろ、と。

私はそう彼女に命じていたのだった。)足、拡げて。

ささやく私の聲に彼女が振り向きそうになったので、——見ないで。

わたしはつぶやく。

まるで自分自身の爲にだけ言ったように。

タオが、可哀想に鳴っちゃうから。…見ないで。

と。重ねた聲をタオは聞いた。

聲が彼女の胎内に溶けて行く触感があった。

動揺、…ふるえ。

彼女に、それはついに如何なるかたちも取らずに、ただいたずらに拡がってタオはひそかに動揺した。

タオは私に見えない向こうに笑んでいた。

頭を下に倒す…、と。

タオが聞き取った聲に、そして彼女がまた再びに(何度目かに——かつ)いまさらに羞恥したのが判った。

震える空気を、かすかにかんじとるように?

もっと。

私はささやく。

前のめりに、タオは下に上半身を折って、尻を突き出し、そして太ももを震わせた(精神的な動揺などなにもない。彼女の太ももは傾く不均衡な体制に、それ自体の必然のもとに痙攣を曝した)。

もっと。

私に嗜虐はなかった。

むしろ、嗜虐を感じていたのはタオ自身だったに違いない。

私はその一方で、彼女を憐れんでいた。

その切ない程の健気さを。

足ををね、…と。ちょっとだけ…すこし、ね。…と。折るの…曲げる…すこしだけ…ほんの、ちょっと、だよ。

わたしはタオの日本語を模倣しながら彼女にささやきかけて、そして壁にもたれた。

——恥ずかしいよ、と。

タオがささやきかけたのが分かった。

——しゃべらないで、と。

私が云う前にタオは沈黙した。

私はドー・ティ・ヴィンに着信を入れた。

三度。

彼は気附いた。

だから、三度着信を返した。

ドー・ティ・ヴィンは近くのカフェで給仕する少年だった。19才(彼のIDカード(此処の国民の身分証明書)の成年月日に従えば)。何ということはなかった。私の会計の釣銭をくすねようとしたのだった。