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高木萌子 (Moeko Takagi)

5月23日のコンサートのお知らせ、作品・作曲家紹介

2021.05.03 10:15

以前お知らせさせて頂いたカ クチーナ ケ インカント様でのコンサートは同日の16:30よりツイキャスでのコンサート配信に変更させて頂きます。よろしくお願いいたします。

こんにちは、今月23日のコンサートのお知らせです。(難しい情勢ですので、状況に適切な形を思案している所ですが、今日は内容の方でお知らせさせて下さい。

今回のプログラムの中の一曲、DevienneのSonate を曲冒頭の指示語と彼の生涯の記録から紹介させて頂きます。

1楽章: Allegro con spiritoso 

テンポ表記には曲の速さを適確に表すための役割と、付随してイタリア語の意味、音楽における場合の擬態が辞書にたくさんありますが、その中からいくつか抜き出すと…

アレグロ…陽気な、はしゃいだ、元気な

Spiritoso…魂を持って

ハ長調…音楽の調には性格があると言われ、歴史の中で色々な音楽学者がそれぞれの調に形容詞をつけているので違いもあるのですが、その中でハ長調は無邪気、純真という形容があり、1楽章の印象には近いのかなと思います。


2楽章:Adagio アダージョ…快適、心地良い、嘆き又は悲しい又は穏やか

ハ短調…憧れ、痛み、嘆き、告白など愛情に結びつくもの、不鮮明、悲しさ

3楽章:Allegretto Rondo アレグレット…やや元気な、心地良いおおらかさ、上機嫌

ハ長調…嬉しい、ナイーブ


ドゥヴィエンヌについて

ドゥヴィエンヌ-1759年1月31日、フランス北東部のジョインヴィレ生まれ。

皮革職人の家に生まれる。最初の音楽教育は恐らくジョンヴィレの街のオルガニストのもとで始め、10歳にして既にオーケストラ伴奏つきのミサ曲を作曲した。

 

ドゥヴィエンヌと管楽器との縁、演奏家、作曲家としての始まり:

その後も音楽を続けた⁽この時おもに学習した楽器、先生、学校についての記録がない⁾1779年の秋にパリのオペラ管弦楽団のファゴット奏者になったものの1シーズンもしないうちに辞めたそうで、この時既に同オーケストラのフルート奏者のもとでフルートのレッスンを受けていた。

 

室内楽の音楽家としてロアンの枢機卿 ⁽カトリックでの教皇の最高顧問)の下に仕え、この5年の間にフルート協奏曲、ファゴット協奏曲、室内楽曲を枢機卿に献呈する形で作曲した。

 

当時の音楽界で…:

ドゥヴィエンヌはフリーメーソンの会員でもあり…⁽フリーメーソン…18世紀始めに作られた親善団体。18世紀の合理と進歩を重んじる啓蒙主義のにないてとして個人主義的な倫理を信じる知識人が中心となった⁾ この団体の演奏団体のオーケストラに属していた記録があり、ハイドンはこのオーケストラのためにパリ交響曲を作曲したため、ここでドゥヴィエンヌと知り合っていたのではと言われている。

1782年、ドゥヴィエンヌは自作のフルート協奏曲をソリストとして演奏会で演奏し大成功だった。ちなみにドゥヴィエンヌにとっては協奏曲のソリストをしたのはおそらく初めて。

ドゥヴィエンヌはファゴット奏者としても非常に精力的だった。

1784年5月に初めて作曲したファゴット協奏曲を演奏会で演奏し、

翌年1785年の5月13日にホルンとファゴットのための協奏交響曲⁽二つあるいはそれ以上の独奏楽器を持つオーケストラのための一種の交響曲、ドゥヴィエンヌ、モーツァルトの時代に盛んに作曲された⁾、

数日後にはオーボエとファゴットのための協奏交響曲の初演を行った。

これらの公演は大成功で、ドゥヴィエンヌとその共演した奏者たちは芸術、音楽的な卓越さから聴衆から人気者の音楽家になった。

1780‐1785年の間ドゥヴィエンヌは演奏家として活動的に数多くの演奏を行う。

 

フリーメーソンはモーツァルトなどが所属していたことで特に有名ですが、思想家、芸術家との関わりが彼の音楽家としての歩みに少なからず影響を与えたのかもしれないですね。

ドゥヴィエンヌは管楽器が大好きで、たくさんの作品を作曲、演奏し、同時にたくさんの聴衆が聞いていたことは、管楽器奏者にとって歴史上興味深いなと思います。

 

その後は1788年までドゥヴィエンヌのソリストとしての記録が欠落していて、恐らくヴェルサイユでスイス親衛隊に所属していたのではないかと言われている。ドゥヴィエンヌが不在の間も音楽界では彼の作品が好んで演奏されていた。

1789からファゴット奏者として歌劇場オーケストラに在籍し、この時期彼の作曲家として非常に充実した時期だった。

 

1796年からはパリオペラ座のオーケストラに再びフルート奏者として在籍した。

 

オペラ作曲家として、教師として:

フランス革命⁽1789-⁾の下では音楽界も大きな変化にさらされていたが、ドゥヴィエンヌは1789―1790年の間に10回以上の協奏曲の演奏を行い結婚など私生活も大きく動いた時期だったが、同時に劇作品の作曲の決心も固まる時期だった。最初の作品から良く評価されたが一番好評を得たのは恐らく四作目の喜歌劇Les Visitandines、この作品で歌劇作曲家として有名になった。初演からわずか5年の間に200回も上演されたとのことで、モーツァルトのフィガロのようにドゥヴィエンヌの音楽も街を楽しく沸かせたのかもしれないですね。

 

ドゥヴィエンヌはまた教師としても人気があり、パリの国家親衛隊での音楽教育に携わり、後にドゥヴィエンヌは音楽院のフルートの教授に任命された。ドゥヴィエンヌの出版したフルートのための教則本は非常に有名で、後にフルートの楽器のシステムが改良されてもフルート奏者に愛用された。

恐らくドゥヴィエンヌは生涯の終盤までパリのオペラ座とフェドー⁽パリ西部⁾の歌劇場オーケストラで演奏していた。精神の病のため次第に音楽活動が難しくなり、療養所に運ばれて数か月ののち、1803年9月5日に44歳で死去した。

 

ドゥヴィエンヌの功績:

彼の時代の音楽に与えた影響は注目に値する。1790年頃がドゥヴィエンヌのソリストとしても作曲家としても最盛期で、彼自身がファゴットとフルートをとても優れて上手に演奏できたため、作曲した作品も演奏技術が必要だったが同時にそれによって活気があり、魅力のある特徴の音楽だった。

ドゥヴィエンヌの作品により18世紀おわりの木管楽器のレパートリーは充実し、レベルも向上させた。当時のフランス音楽の進展に関わったのと、こんにちも特に音楽教育の場で重要な役割を果たしている。

 

ドゥヴィエンヌの作品の特徴:

彼が兵隊にいた間の作品はフランス革命の政治的、歴史的な出来事として結びつき、とりわけ愛国的な讃歌や歌が多い。

ドゥヴィエンヌの携わったオペラは反教会的な台本のため上演を禁止され、あらすじを大きく変えることもあったが、彼のオペラの中でも一番人気のLes Visitandies ⁽修道女⁾の音楽は聴衆からとても気に入りられ、ドゥヴィエンヌの作曲スタイルの重要な特徴がうまく凝縮されたといわれている…すなわちメロディーが優美で分かり易い、ハーモニーが簡潔明瞭に語りかけてくる、巧みで充実した楽器の組み合わせ方、同時に透明性があり、主になる歌が際立って聞こえる。


楽器のための作品はロンド、主題と変奏、簡易なソナタ形式をよく用いた。生涯の終盤にはロマン派初めの兆しがあり、その表情豊かな分、名人技的、慇懃さは弱まった作曲だった。





この情勢ですので変更などある場合ご予約、お問い合わせ下さった方には直接のご連絡を、こちらのホームページ又はhttps://www.facebook.com/Moeko-Takagi-髙木萌子-Clarinet-104252111796090にてお知らせを引き続きさせていただきます。