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隣は何をする人ぞ

2018.05.03 13:06

https://ameblo.jp/misamisa1101/entry-12144581264.html 【「ゲシュタルトの祈り」皆さまへ♡】 より

今日は私が好きな《ゲシュタルトの祈り》を}by フレデリック・パールズ

「ゲシュタルト」 とは

ゲシュタルト心理学から由来した言葉でドイツ語で「かたち」、「形象」と言う意味だそうです。「フレデリック・パールズ」と言うドイツの精神科医が「ゲシュタルト療法」の思想

「今、ここ、あるがまま」を、盛り込み作った詩。

親子関係でも夫婦関係でも恋愛関係でも全ての人間関係に共通するもの。

ゲシュタルトの考えで一番大切にする事は「私はわたし」これは決して利己主義と言う意味ではありません。

「あなたと私」比べる必要もないし誰かの期待に応えるために自分を犠牲にする必要もない。

こんな意味合いです。

中でも、一番意味深いのが最後の一文だと言われています。

私達は、出会う事に意味を感じ出会わない事には意味を感じないでいますよね?

この広い世界の中で全ての人と出会う事は不可能なこと。

同じ時代に生まれ限られた空間の中で出会える確率は奇跡的なこと。

出会える事が奇跡的であるなら出会えない事はそれも「出会わない」と言う不思議な 「ご縁」

どちらにも価値を置かずありのままを受け入れる、と言うパールズらしい最後の一文です

心理学は奥が深いですが、学べる事は有難いことだなぁと思います。

日々、精進


https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/diary/201710190000/ 【心ある壁」を構築し、維持することの重要性】 より

先日(=2017-10-19付け)の記事の最後辺りの「友好的な姿勢を保ちつつ、一定の距離を置く」という話ですが、そのような考え方の背後にある様々な考察についてもう少し詳しく解説してみたいと思います。

私は旅行や国際交流がとても苦手で、何十年にもわたり、基本的には自宅や研究室に閉じこもって数学の研究に打ち込む生活を送ってきた人間ですが、

    何で旅行や国際交流が苦手か?

と、様々な場面で交流のある方からときどき聞かれます。

先日、ネットで偶々目に留まった、(日本語ができる外国の方と思われる方による)「つぶやき(ツイート)」

 『どうも日本の人は「自分がアジア人である」ことがピンとこないらしいのね。不思議』

に、私が感じている非常に本質的な問題性が集約されているように思います。

私の場合、アメリカに在住していた頃、世界中のいろいろな国の方=欧米露中韓印等々、と交流がありましたが、双方がどんなに流暢な英語を喋ることができてかつ、いわゆる「悪意・差別意識」がなくても、お互い住んでいる「精神世界」が違いすぎて、私としては、無理のない範囲内における友好的な関係を築くこと自体は結構だとしても、最終的には、

「国境・国籍を放棄する =その人を自分と同じ国の人に思う」あるいは、別のもう少し具体的な言い方をすると、「その人を(自分から見て)‘外国人=異邦人’と呼ぶ(=として扱う)権利・権限を放棄する」ことだけはどうしても承服できず、それだけは少なくとも自分としては、「どうしても譲れない一線」であるように非常に強く感じました。上記のツイートの外国人のように、多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます。

また、関連した現象ですが、私の場合、アメリカの高校や大学で(直接的な意味で)よく経験しましたし、(インド人等の知り合いを通して)第三者としても目撃したことがありますが、「ザ東洋人男性」(=例えば「チン」という名前の)というような形で、別々の個人を別々の個人として認識できずに、「同一の生命体」としてしか認識できない欧米人が意外と多いです。

つまり、もっと具体的にいうと、例えば、高校では同じ寮の中に、韓国系やタイ系の人がいたりしましたが、私たちが別々の個人であり、同一人物ではないということを何度説明しても間違えられたり、大学ではよく知らない人からまるで親しい知り合いかのように(誤認されて)話しかけられたりしました。

少し話が変わりますが、よく旅行や国際交流に対して積極的な姿勢をとりがちな方を観察していると、自分との対比で、双方の活動(あるいは生き方全般にも言えるかもしれませんが)の一つの基本的な違いとして、次のようなことが挙げられるように感じることがあります: そのような方は人類の様々な既存の文化を堪能し、満喫する(あるいは仕事等では、整理し、演出する)ことを目的とした活動をされている(ように、少なくとも私には見受けられる)のに対して、私はむしろ既存の文化の流れを(「邪魔」、「障害物」として認識し)なるべく自らの個人的な世界から排除し、自力で新しい文化の流れを自らの手で創作することに対して非常に強い拘りを持っている人間です。この人間性の違いはそのまま、「旅行」や「国際交流」、「新しい生活環境を体験する」ことに対する、双方の(それぞれ、肯定的な、否定的な)捉え方に反映されているようにも感じます。

再び 何で旅行や国際交流が苦手か?

という質問の話に戻りますが、一言で説明するのはなかなか難しいですが、先ほどの人間性の違いによって、そのような活動の「費用対効果」(=「コスパ」)は、私の場合、非常に悪い(=苦しいこと、強い不快感を覚えることが多すぎる割りに、プラス面・見込める収穫等が貧弱すぎる)というのは、一つの「端的な」説明の仕方だと思います。

例えば、多くの旅行好きな方から見ても、恐らく北朝鮮や、中東の戦闘地域は、「費用対効果」が悪すぎるのではないでしょうか。あるいは、多くの外国人(特に例えば、欧米の数学者!)から見て、日本に旅行することの「コスパ」が悪すぎて殆どしないのではないでしょうか。

一方、旅行好きの多くの方が旅行をする際に体験する(好感を伴う、よい意味での)刺激よりも遥かに凄い(=壮絶な!)景色の世界を、私は自分の心の中で旅している(=例え、物理的な意味ではずっと同じ場所に留まっていても)ように、子供の頃から強く感じています。

更にもう少し分析を進めさせていただきますと、私の場合、旅行や国際的な状況が非常に苦手である基本的な理由の一つでもあり、またこれまでの様々な経験(=上記の「別々の個人を識別できない」という話もその最たる一例ということになりますが)を経て感じたことですが、お互いに語学力の問題が全くなく、かつ悪意(=差別意識等)が全くなくても

異国の人間を取り巻く状況や精神世界は単純な「データ」・「抽象的な論理体系」として扱うという立場で考えても、複雑度の「爆発」が圧倒的すぎて人類の脳の処理能力を遥かに超過してしまっているため、相手のことを、極めて低い解像度でしか認識・理解することができません。

一方、相手に対する「認識解像度」が著しく低下してしまう(=つまり、画質の粗悪なパソコン画像のように)と、相手の「人間性」や「個性」が全く見えなくなってしまい、人間らしい社会生活が本質的に成り立たなくなってしまいます。

つまり、言い換えると、ずっと長い間、様々な極めて残念な経験を経て感じたことですが、実質的な異邦人同士の交流の問題性・不具合等の本質は、(多くの米国人が主張したがる=誤解しているように)政治的な問題ではなく、また(多くの日本人が主張したがる=誤解しているように)語学力(=例えば、「英語力・英会話能力」)の問題でもなく、圧倒的な、爆発的な複雑度を擁する「データ」・「抽象的な論理体系」に対する人類の脳の処理能力の限界にあるように強く感じます。別の言い方をすれば、本質的には一種の数学の問題であるように思います。(因みに、「(多くの米国人が主張したがるように)政治的な問題ではなく、一種の数学の問題である」と書きましたが、このような文脈ですと、19世紀に米国のどこかの地方政府が「円周率(’π’)は3である」という趣旨の法律を制定しようとしたという有名な話を連想させられます。)

更にもう一つ、このような文脈でよく連想させられるのは、旧約聖書等に出てくるバベルの塔の物語です。バベルの塔と言えば、最近、日本でもオランダの画家ブリューゲルの作品「​バベルの塔」​の展覧会が開かれたりして話題になっています。​百科事典​等で引くと、「バベルの塔」の物語は次のように要約されたりします:「この物語は,民族と言語の多様性を説明すると同時に、神と等しくなろうとする人間の罪を描いている。」

誤解がないように書いておきますと、私は別にキリスト教等、特定の宗教の教徒ではありません。しかし、昔から強く受けている印象の一つですが、多くの芸術作品や文学にしても、古代から伝わる神話や物語にしても、人間が直観的なレベルにおいて実質的に感じ取った一種の数学的な原理を(現代数学で用いられるような定式化の技術がなかったために)何とか後世に伝達できるように表現し、記述するための手段として創り出されたものが多いのではないでしょうか。

つまり、そのような様々な文化遺産は、一種の「数学的な予想」の宝庫として捉えることが出来るのではないしょうか。

例えば、「バベルの塔」の場合ですと、全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、一つの「塔」の中で「一本化」しようとしても、それは本質的に数学的に不可能であり(=つまり、「神」はそれを絶対に許容しない)、どんなに努力して回避しようとしても民族・言語の多様性は必然的に発生するものである

という、一種の「数学的原理」(=つまり、上で述べた「認識解像度」、「圧倒的な、爆発的な複雑度に対する処理能力の限界」に対応)を、古代人が表現しようとしていたのではないかと推測されます。

この「バベルの塔」がある意味、予想しようとしている=記述を試みている数学的原理に対応するものを現代数学の中に求めようとすると、「​ラッセルのパラドックス​」、つまり、

「自分自身を元として含むような集合、例えば、全ての集合をその元として含むような集合、は存在し得ない=即ち存在し得ると仮定すると矛盾が生じる」で有名な、20世紀初頭の数学者ラッセルを思い出します。ラッセルと言えば、有名な著書「​結婚論​」で「裸を非とするタブー」を疑問視する(この点では、1960年代に流行したいわゆる「ヒッピー」の運動に通じるものがあるようですが)等、人と人の間にある様々な「壁」(=言い換えれば、「プライバシー」(!))を究極的な形で取っ払うことに対する強い拘り、趣向があったようです。

一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=IUTeich)では、「Θリンク」等、別々の舞台=「宇宙」の間に、通常扱う数学的な対象たち(=「フロベニウス的」な対象たちと呼ぶ)が「向こう側」に通り抜けることができない「壁」を設定することが理論の重要なポイントであり、一種の出発点とも言えます。一方、壁を設定することが重要であっても、その壁の向こう側に通用する=通り抜けることができる特別な対象たち(=「エタール的」な対象たちと呼ぶ)を扱うことも、理論の展開、特に最終的な定理を示す上においては必要不可欠です。

このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。簡単に言ってしまいますと、私がこれまで経験してきた多くの場面では、国や民族、言語等の間に本来存在する「壁」=「プライバシー」が破綻しすぎていたため、そのようなものの間の「壁」に飢えている体質の生き物として育ってしまいました。

私の場合、米国や英語に対する壁にも飢えているわけです(=別の言い方をすれば、私にとっては、米国や英語こそ、一種の巨大な「バベルの塔」ということになる)が、米国では、まさに自分から見て「異人」と感じる人たちに対する「壁」に飢えている人が非常に多いように思います。(もちろん、自分から見ての「異人」の定義は人それぞれですが。)まさにそのように「壁」に飢えている人たちが非常に多い(=圧倒的な多数派に迫る勢い?)からこそ、トランプ氏のような大統領がついに誕生したのではないでしょうか。また、先般のフランスの大統領選挙の際の右翼政党の集会で用いられた「我々は我々の国にいる」というスローガンを見ても、移民の多いフランス等、西ヨーロッパの国々の社会においても、類似の現象=「壁への飢え」が如何に「猛威を振るっている」かが窺えます。(因みに、誤解がないように書いておきますと、これら外国の政治家、政治運動については、私は批判するつもりも、賛同するつもりもなく、単に現象の分析を行なっているだけです。)

ただし、2017-10-19付けの記事の最後辺りにも書かせていただいた通り、(IUTeichの「フロベニウス的・エタール的」もそうですが!)「壁」=「距離」=「プライバシー」の設定も本質的に重要ですが、その壁の向こう側(にいる人たち)にも通用するもの=長期的な、安定的な平和を大切にする、全体的に友好的で開かれた姿勢、あるいは別の(より「日本的な」)言い方をすれば、「お互い様」、「お世話様」といったような視点を忘れない、(壁を通り抜ける力のある)豊かな感情移入力に支えられた博愛と敬意の下で運用される壁を目指す姿勢も本質的に重要であることを見失ってはいけません。

最後に、もう一つの重要なポイントですが、成人して、人間としての様々な基本的な感覚や行動パターンが完全に固まって=確定してから、上述のような(=「壁」の破綻から生じるような)厳しい状況に遭遇するのと、未成年としてそのような状況に遭遇するのとでは、決定的な違いがあるということです。上の「認識解像度」の話のように、IT関連の現象との類似で説明を試みると、パソコンの動作を本質的に狂わせる危険性のある悪質なウィルスが(多くのウィンドーズパソコンでは「ただのデータ」の保管用に用意されている)Dドライブに、まさに「ただの、とある抽象的なデータ」として取り込まれる(=「成人として遭遇」に対応)のと、(多くのウィンドーズパソコンではオペレーティングシステム(OS)が収容されている)Cドライブに取り込まれる(=「未成年として遭遇」に対応)のが全然違うのと似たような現象であるように思います。

つまり、どんなに悪質で強烈な破壊力のあるウィルスであろうと、「ただのデータ」としてDドライブに取り込まれても、パソコンにとっては「痛くも痒くもない」、あくまでも「ただの、とある抽象的なデータ」に過ぎないわけですが、Cドライブに取り込まれて「やりたい放題」な状況でOSに直接作用し得るような事態が発生すると、パソコンの動作は非常に不安定な状態に陥ったり、場合によっては、パソコンそのものが簡単に、呆気なく破壊されてしまいます。

旅行等に対する私の拒絶反応のある側面も、まさにこの「Cドライブ・Dドライブ」の類似を通して理解することが可能であるように思います。