試合に慣れるな!
無想会空手チャンネルが、6本目の動画をニューリリースしました。
相手の制し方・ナイファンチの使い方・戦前の沖縄空手の組手觀、想定する実戦について
この動画でも宣べていますが、試合・大会などの、特定の場所やルールでの戦いの技術とは、その試合・大会に勝つために業・技が、非常に尖鋭していきます。
試合をする人間。そして大会に出る人間は、誰でも勝利したいたからです。
そのためには、その試合や大会のルールにおける勝つために、一番効率良い方法を模索して、その方法(のみ)を練習するはずです。
すると極論すれば、他のルールや環境下での状態は、除外されていきます。除外しなければ、無駄な業・技のために時間を費やすことになり、試合・大会には勝てなくなります。
当たり前の、ハナシですがね・・・。
実は、これは実際の闘いに備える修行においては、スゴイ盲点、あるいは弱点なのです。あるいは、矛盾だとしても良いでしょう。
そして、この矛盾に気づいた人間は、余り存在しません。
特に試合に出る。試合や大会に出る人間は、主に若くて人生経験も乏しく、かつ勝利を目指して熱くなるのですから、周囲に目をやる時間や労力があるはずは無いのです。
例え気付いたとしても、現代の試合・大会全盛の時代においては、このような問題に真正面からぶつかって、答えを模索した人間は少数でしょう。
なぜなら、そのような疑問の答えを模索した人間は、その試合・大会を主とする流会派では、ゼンゼン上達しない人間としての、認知しかないからです。
実はこれは、空手のみだけでは無く、日本剣道、すなわち竹刀競技と、古流剣術も同様です。
いや! 同じ日本剣術の流会派でも、戦前に生まれた人間同士が行っている組大刀と、戦後生まれの人間たちの組大刀においては、もう天と地ほどの差、雲泥の差があります(文責・新垣清)。
身体操作は勿論のこと、肝心要の大刀の使い方自体が、まるで違うのです。
私、これを見取った時に、唖然とすると同時に、背筋が凍る想いがしました。
沖縄空手においは、試合というものは、思い出す限り・・・。
私が修行時代には、いわゆる日本本土の寸止め、あるいは伝統派の組手というものは、私は観たことがありませんでした。
私が見た組手試合は、全て防具付きでした。
中学時代に空手部を興した同期の人間が進学した高校が、その防具付きの組手で有名な学校で、その彼は空手部の主将をしていたので、その関係で組手の試合を観戦していました。
その試合は、対戦する両者の空手着がボロボロに千切れるほどの激しいもので、試合ルールなどが明確では無かった当時としては、当たり前のことだと全員が感じていたと思います。
さらに、それらの試合・大会は、高校生や大学生(?)の血気盛んな世代の人間がやるもので・・・。
もっと大人(?)の連中は、一拳必殺というか、自分だけが、「いざ!」と言う時に、実際に出せ、相手を確実に仕留め得る業・技を磨くという、塩梅だったのです。
彼らにしてみれば、青春真っただ中にいる間(すなわち、当時の私達です)には、あれ(すなわちルールのある方法)が安全で、一番良い! っという、非常に冷めた目で見ていた可能性が非常に高いのです。
現在の私の見解として・・・。
組手は、やれ!
それも手技による顔面殴打無しの、所謂フルコンタクト・ルール。顔面寸止めの伝統派ルール、掴みありのルール。マスクを被っての硬式ルールなど、安全であればナニをやっても良い。
ただ、そのルールに特化した業・技は、弊会は指導しないというスタンスです。
なぜなら、上記の安全なルールで戦うことで、度胸がつきます。間合いの、勉強になります。そして、非常に言い難いことですが・・・。人を(安全に)倒す感覚を、学べます。
でも・・・。
それに特化してしまうと、弱くなります!