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じゅんじゅんホームページ

平穏に留意したとて、闘争は生まれてしまうもの。

2021.05.06 03:32

いわゆる派閥に属したくない人間である。

自分がちょっとやばいタイプの人に目をつけられ取り込まれ易いのが分かっているからというのもあるし、どんな人にも事情があるのだと歪曲された思想も鵜呑みにしてしまう性質だから。

一歩間違えたら危ない新興宗教にどハマりするかもしれないと思ったりもするが、意外とその辺には逸れずに生きてきている。



仲良しグループに参加することに辟易としたエピソードがある。

私がまだ不登校になる少し前のこと。

小学校高学年になるくらいの頃だった。

その時はクラス内で自然と出来てゆくグループのひとつに入っていた。

絵を描いたりゲームをしたりが好きな子同士、5、6人で、特に殺伐とした空気もなく過ごしていた。

ある日、その中の一人の持っていたハムスターの小さなぬいぐるみが失くなってしまった。

みんなで手分けして探すと、ロッカーの中からサインペンで落書きされたぬいぐるみと中くらいの紙切れが見つかった。

紙には、

「じゅんちゃんをとらないで。」

と書かれていた。

ぬいぐるみの持ち主の子はそれを見て泣き崩れてしまった。

私はなんのことだかサッパリわからず、混乱した。

彼女の背中を撫でながら、何で?という気持ちが次第に怒りへと変わっていった。

文句があるなら私に言えばいいのにと思った。

そもそも私は、誰のものでもないし、みんな大好きなのに。

みんなと仲良く楽しく過ごしていたはずだったのに。

誰がやったのかという気持ちも高まってはいたが、今目の前で泣いている彼女をどうにかしたかった。

咄嗟に、

「ほら!こんなもんは、こうしちゃえ!」

と、"じゅんちゃんをとらないで"と書かれた紙を、ビリビリに破いた。

ほら大丈夫!こんなものタダの紙クズで、何の効力もないよ!とゴミ箱に捨ておどけて見せると、彼女は、うん、と言って少し笑った。

ぬいぐるみ、少し蛍光ピンクになっちゃったけど、洗えば落ちるかもだよと他の子達が流し台に同行して行った。

私は頭に血が上って、ふざけんなよ、言いたいことがあるなら直接言ってこいよ、と叫んで校舎の階段を駆け降りた。

犯人を具体的に洗い出そうというより、張本人に届けばいいと思った。

耳に入れば、己の所業にドキッとするだろうと思った。

それで充分戒めになるだろうと、なんとなくわかっていたんだと思う。


話はそれで終わらない。

私は放課後、一連の話を聞いた担任に職員室へ呼び出された。

事の経緯を一通り伝えると、教員は大きくため息を吐いた。

「あーあ。犯人、わかんなくなっちゃったじゃない。」

そう言って、私が破いて捨てたはずの紙の破片を指で弄って見せた。

筆跡から割り出せたかもしれないのに、と教員は呆れた顔をして言い放った。

私は唖然とした。

教員の目は、あなたのせいよと言っていた。



私がしたことは、間違いだったのだろうか。

私はただ、目の前で悲しんでいるあの子をどうにかしたい、と思っただけだ。

私にとってあの紙切れは、犯人探しの為の手掛かりではなく、彼女を悲しませるものであり、即抹消すべくものだった。

それだけなのに。

見つからない犯人を、見つけられなくした私が、今、辟易としたため息を浴びている。

脳味噌が、キリキリとちぎれそうだった。

ああ。

なんで。

ああ、世界は、そうなのか。

私は、

「じゅんちゃんをとらないで。」

と書いて、わざわざ彼女のぬいぐるみを盗んで、それに蛍光ピンクを塗り、ロッカーに設置して、"気付いてもらえる"のを期待して待つ誰かを、明るみに引き摺り出したいと思わなかった。

そんなの、辛過ぎる。

その誰かすら、愛おしかった。

そんな事をさせてごめんねと思ってもいた。

取られた、と、思わせてしまったんだね。

本人も、薄ら気付いているのではないだろうか。

こんなことで、じゅんちゃんをひとりじめできる筈が無い事を。

今思えば、小学校高学年の担任教員は、私の事が最初から気に喰わなかったんだと思う。

皮切りが、その事件だった。

それが、人となんとなくで馴れ合い群れるのを辞めようと思った大きな出来事。

絶望はいつだって、人間の脳みそを一回り大きくしてくれる。

表皮を剥がされ、ヒリヒリと痛みながら、少しだけ大きくなる。

そうやって新たな見解や視点で物事を捉えられるようになる。

蘇生術であり、生きる糧。

絶望はいつだって、清々しいほどに滑稽だ。



こちらがどんなにみんなを好きでも、一定の人数と一定を超えて仲良くなれば、独占欲や嫉妬が生じてしまうし、他者と比べて足りないと感じてしまうのが世の常。

私はできれば、彼女のような人達を見たくない。

誰かを妬む彼女も、嫉みに悲哀する彼女も。

だから、徒党は、組まない。

同じ意思の人間と、互いを確かめて心を埋めるような、そういうのは望まない。

うまくは言えないけれど、それぞれ、自分自身で選んで参加した人と偶然同席している、という形式が望ましい。

その場自体に価値を見出すというより、目的が一致して共に肩を並べている時間が存在する、という事実だけで充分だと思う。

確かめたい訳でもなければ繋がりたい訳でもないので、明確な趣旨も絆も要らないし、寧ろ、無い方が好ましい。

利害の一致が淡々と連なり、それでいて随所で笑えてしまうような、そんな関係性が好ましい。

繋がっているようでいて、個々はそれぞれ意思を持っており、偶然にも一緒にいる。

そんな感じが、良い。

無善寺、カレーメンバー、ボーカルを務めるダムダム団は、その絶妙な感覚が保たれている、非常に貴重な存在である。

ありがたいと思いつつ、崇め奉るものでもなくて、ただ今まで続いてきた奇跡とこれからを大切にしていきたいと思う。

無理矢理繋ぎ止めるのではなくて、ちょっと素敵な日常として、嬉しい気持ちを大切に。



一昨日の酔っ払った私の図。

今夜は恋するカレーパーティー。

無善寺がおやすみのため、配信ライブをお送り予定でいます。

19時半過ぎくらいから、かな。

媒体はたぶんツイキャスです。

晩酌ついでに覗いて戴けたら嬉しいです。

画面越しですが乾杯しましょう。

誰の為かと問われたらお客様の為と答えるのが模範回答だと思うけれど、なにより自分の為に。

みんなでわいわい、演ろうと思う。

楽しみです。

昨日徹夜したから、今夜の酒は効きそうだ。