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唐人屋敷の歴史概要

2018.05.04 14:01

https://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/660000/669001/p006894.html 【唐人屋敷の歴史概要】より

幕末~明治初期の唐人屋敷

幕末~明治初期の唐人屋敷

(小島養生所と長崎市街地:写真、左下が唐人屋敷)

(長崎大学附属図書館所蔵 )唐人屋敷の内部

      

唐人屋敷の内部(館内から出島を望む:明治5年~6年頃)

(長崎大学附属図書館所蔵)

1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となっていました。

幕府はこの密貿易への対策として、1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌1689年(元禄2年)に完成しました。

広さは約9,400坪、現在の館内町のほぼ全域に及びます。周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。

入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、無用の出入りを改めました。二の門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていました。

内部には、長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2,000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。

長崎奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していました。

1784年(天明4年)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わりましたが、この大火以後唐人自前の建築を許されるようになりました。重要文化財旧唐人屋敷門(現:興福寺境内所在)はこの大火の後に建てられた住宅門と思われます。

鎖国期における唯一の海外貿易港であった長崎において、出島と共に海外交流の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷は、1859年(安政6年)の開国後廃屋化し、1870年(明治3年)焼失しました。

長崎港之図(図1)(長崎歴史文化博物館所蔵)

長崎港之図(図1)(長崎歴史文化博物館所蔵)

この絵図は、円山応挙が寛政4年(1792年)に京都で描いたものとされているものです。唐人屋敷について見ると、竹柵や、塀まで細かく描かれています。

長崎港俯瞰図(図2)(長崎歴史文化博物館所蔵)

長崎港俯瞰図(図2)(長崎歴史文化博物館所蔵)

この絵図は、昭和28年(1953年)神戸市南蛮美術館(現在の神戸市立博物館)所蔵の川原慶賀筆「長崎港図」を郷土史家林源吉氏が長崎在住の画家浦川菊氏に模写させたものです。画面左端に唐人屋敷が描かれています。

唐蘭館絵巻(唐蘭図)(長崎歴史文化博物館所蔵)

次の4点の絵図(図3・図4・図5・図6)は、川原慶賀筆「唐蘭館内の図」(国認定旧重要美術品)の唐館図(一巻)の中に収められているものです。

この絵巻は、文政頃(1818年~1830年)の状況を描いたものとされており、唐館図10点、蘭館図10点によって構成されています。

慶賀の晩年の作と考えられています。

観劇図(図3)(長崎歴史文化博物館所蔵)

観劇図(図3)(長崎歴史文化博物館所蔵)この絵図は、土神堂前の広場で唐人踊りが行われている図です。毎年2月2日には土地神の誕生日で、2の日の前後2~3日間は土神堂の前に舞台が設けられ、唐人踊りが催されました。現在の土神堂前の広場です。現在は絵の中にある石垣が残されています。正面にある、両横から上る階段に特徴があります。

龍踊図(図4)(長崎歴史文化博物館所蔵)

龍踊図(図4)(長崎歴史文化博物館所蔵)

この絵図は、土神堂前の広場で蛇踊りが行われている図です。唐人屋敷の蛇踊りは上元、即ち旧の正月15日に行われた祈福の祭りで、夜には無数の燈籠がともされ、美しく着飾った遊女なども参詣してとても賑やかでした。

唐人部屋遊女遊興図(図5)(長崎歴史文化博物館所蔵)

唐人部屋遊女遊興図(図5)(長崎歴史文化博物館所蔵)唐人屋敷に出入りを許された女性は、“唐人行”と呼ばれた遊女のみでした。右下の屋根は、土神堂のもので、中央の建物は、図3・観劇図の正面の建物を拡大したものです。石垣の構造や敷石の様子がわかります。

唐館表門図(図6)(長崎歴史文化博物館所蔵)

唐館表門図(図6)(長崎歴史文化博物館所蔵)この絵図は、大門と二ノ門の間を描いたものです。二ノ門(内門)は役人でもみだりに入ることはできませんでした。大門の構造、二ノ門の構造がわかり、また二ノ門周辺の石垣、階段塀の構造が詳細に描かれています。

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唐人屋敷の範囲推定

唐人屋敷は江戸時代には和蘭屋敷(出島)と並ぶ、日本の対外貿易の2大拠点であり、我が国の近世の対外貿易の重要な歴史的遺産です。しかし、安政5年の開港以降は外国人居留地と同じような取扱いがなされ、その後、明治期の住宅政策のために日本人の住宅に同化しました。さらに、出島と比べて唐人屋敷の範囲は広く、発掘調査による確認が困難な場所もあり、唐人屋敷の範囲がいまだ不明確なままに現在に至っています。しかし、唐人屋敷内には、江戸時代当時の道路、石垣、空堀等の遺構が多く残されています。

長崎市にとって、早急に唐人屋敷の範囲を推定し、唐人屋敷を顕在化することによりこの地域を整備することは、地域の活性化さらに観光振興にとって、緊急の課題です。そこで、長崎市は、平成13年度に長崎大学に範囲推定の調査委託を行いました。

報告書では、出島の遺構発掘や長崎の町屋調査・研究により、当時の長崎の換算率を、1間=6尺5寸=1.9695メートル、1坪=3.87893平方メートルとし、「長崎実録大成」及び「長崎諸官公衙図」に基づき、唐人屋敷の公称面積を以下のとおり提案しています。

二ノ門内の唐人屋敷構内 6,874坪 (約26,664平方メートル)

大門と二ノ門外の間 654坪(約2,537平方メートル)

唐人屋敷内部の面積 7,528坪(約29,201平方メートル)

外郭竹垣の内 1,835坪(約7,118平方メートル)

唐人屋敷総坪数 9,363坪(約36,319平方メートル)

すなわち、今回の範囲推定調査において確認できた唐人屋敷内部(塀より内側の唐人屋敷内部)の面積は7,528坪(約29,201平方メートル)となりました。

また、報告書で推定された唐人屋敷の範囲を、長崎市唐人屋敷顕在化事業推進会議において、唐人屋敷の範囲と考えるとの助言を受けています。