Okinawa 沖縄 #2 Day 113 (03/07/21) 旧玉城村 (4) Yakabu & Kirabaru Hamlets 屋嘉部/喜良原集落
旧玉城村 屋嘉部集落 (やかぶ、ヤカン)
- 前古波津小の東の御願 (メークファーチグヮーヌアガリヌウガン) [未訪問]
- 屋嘉部公民館
- 南の石獅子
- 西の石獅子
- 壮地井泉 (ソージガ-)
- アンソー井泉 (ガ-)
- 北の石獅子
- 古墓跡
- 殿 (トゥン)
- 火の神 (ヒヌカン)
- ウカミャー (屋嘉部神家)
- 屋嘉部大川 (ヤカンウッカー)
旧玉城村 喜良原集落 (きらばる)
- 喜良原公民館
- 割取井泉 (ワイトゥイガ-)
- 風水 (フンシ)
- 暗川 (クラガ-)
- 石座井泉 (イシジャガー)
- 畑の井泉 (ハルヌカー)
やっと、沖縄では梅雨が明けた。個々10日間は連日雨で、それもかなり強いシャワーが班時間程続く。この期間中に、今日訪れる屋嘉部集落に向かい出発したが、途中で豪雨に襲われ、びしょぬれとなり雨宿り、これで訪問を断念をシ帰宅。梅雨が明けるまでは音なしくすることにした。やっと、待ちに待った梅雨明け。今日は気温は30度を超え日差しも強い。
旧玉城村 屋嘉部集落 (やかぶ、ヤカン)
もともと屋嘉部集落があった所は琉球王統時代はアダン口と呼ばれた集落だったが、玉城間切の行政管理上廃止され、その後、糸数村の一部となり、1921年 (大正10年) に正式に独立行政区として屋嘉部村となった。
村立てについては1559年 (永保2年) に第二尚氏第五代の尚元王の王妃 真和志聞得大君加那志の叔父の和積善国頭子がこの土地を王から賜り、移住し創建したと伝わっている。和積善国頭子を頼って、移住した人達で70戸程の集落であったが、その後、集落住民で他の地域に移住するものがあり、戸数は半分ぐらいまで減少したが、琉球王統末期には首里などから士族が移住し帰農して50戸程までになっていた。とはいえ、当時は玉城村の中では一番小さな集落であった。古琉球集落と屋取集落の両方の性格を持っている村だ。集落は小さいのだが17もの門中がある。これは元々の村立てを門中と、帰農士族が家族単位で移住してきているので、数が多い。これは屋取集落の特徴だ。
沖縄戦後は屋嘉部に民政府の職員住宅が建設されたため、70戸まで増加していたが、その後、民政府の移動で職員も屋嘉部から転出し、40-46戸の村に戻り、それが1960年代まで続いた。1960年時点の人口は玉城区に次いで少ない地区のままであったが、沖縄本土復帰前後に人口は大きく増加し、その後も増加率はそれ程ではないがコンスタントに増えている。現在の人口は旧玉城村の中では中堅に位置するほどになっている。南城市の人口データは色々な資料に一定期間しかなく、全体を把握できるデータは見つからず、後で1976年から1986年までのデータが見つかったので追加した。1980年に46戸も増加があるが人口増加は60人だ。この理由については触れられていないのだが、独身や新婚向け団地ができたか、この近くの佐敷にある知念分屯基地に自衛隊員が転勤してきたのかもしれない。
民家の分布の変遷を見ても、集落が元々あった場所から大きく拡大している様には見えない。
玉城村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 屋嘉部之御嶽 (神名: コバウノ嶽御イべ)
- 殿: 屋富部之殿
集落が小さかった事や、集落住民の出入りが頻繁だったこと、帰農士族の屋取地域もあり、村としての御願行事は限られている。資料では初ミジナリーとウマチーにかかわるものだけだ。屋取地域の住民が御願していた前古波津小の東の御願は村の拝所としてはお拝まれていない。集落の拝所を探す際に、何人かに所在地を訪ねたが、知らないとの答えばかりだ。
屋嘉部集落訪問ログ
前古波津小の東の御願 (メークファーチグヮーヌアガリヌウガン) [未訪問]
目取眞、船越を通って屋嘉部集落に向かった。まず糸数入り口の交差点を越え少し東に進んだところが、屋嘉部集落の西のはずれになる。この場所の林の中には前古波津小の東の御願 (メークファーチグヮーヌアガリヌウガン) があると資料には出ていたので探す。地図では写真左の場所だが、資料に出ていた写真らしきものはない。写真では立派な石積の拝所なので、簡単に見つかると思っていた。その奥の雑木林を探すが、木々が深く、中まで入ることは断念した。ここは、屋取 (ヤードゥイ) の拝所という。戦後しばらくは、五月五日に屋取の人々が拝んでいたそうだ。今は拝まれていないようだ。
資料に出たいた拝所の写真
ここからは、太平洋が一望できる。標高100m程の場所だ。
屋嘉部公民館
屋嘉部集落に入る。集落の南側にあたる。ここがかつての村屋かサータヤーか、何であったかは分からないが、公民館の前は広場になっているので、村屋かサータヤーのどちらかだろう。自転車をここに停めて、徒歩にて集落内の文化財巡りを開始。
南の石獅子
公民館の横の広い道路を渡った所に、南の石獅子があるはずだ。インターネットでこの場所を訪れた人が写真を掲載していたので、それを探す。同じ形の塀を見つけ、背景も同じなのでここのh図と思い石獅子を探すが、同じものがない。草が隠れているのか?移設されたのか?壊れてしまったのか? 石獅子は村を守るために境界線二置かれていることが多い。ここが村の端だったのだろう。屋嘉部集落の東南にある玉城村字富里には「おじゃは」と呼ばれいる怪異な場所があり、そこから厄が来ないように、そこに向けて建てられていたそうだ。
インターネットに出ていた写真。この場所なのだが....
西の石獅子
南の石獅子前の道路を上がっていくと、別の石獅子があった。集落の西の端に当たる。
壮地井泉 (ソージガ-)
西の石獅子の西は傾斜地に畑が広がっている。畑の中に用水路が通っている。おそらくこの水路をたどると、この畑の上の方に壮地井泉 (ソージガ-) があった。戦前は飲料水として使用されたが、現在は、農業用水として利用されている。
アンソー井泉 (ガ-)
壮地井泉 (ソージガ-) の更に畑が広がり、その更に上にアンソー井泉 (ガ-) があった。畑や山や林の中にある拝所探しは結構大変で、資料の地図では目印がない為、その辺り一帯をくまなく探す必要がある。この井戸も一度探したが見つからず、近くにいた住民の方に聞いてみたが、一人は全く知らない。もう一人は、あるそうだが、場所はよくわからないといった感じだった。ただ、あると言っていたので、もう一度、探してみる。地図にあった場所よりもかなり上に井戸を見つけた。この井戸は産水 (ウブミジ) や若水 (ワカミジ) 汲みに使用されていた。現在は農業用水として利用されている。1月2日の初ミジナリー (水撫で) で拝まれているせいか、標識が建っていた。
北の石獅子
アンソー井泉 (ガ-) から、先ほど井戸の場所を聞いた人が、そこへの山道があると言っていた。多分その道なのだろう、そこを通って集落に戻る。集落に戻ると、別の三体目の石獅子があった。ここは集落の北側にに当たる。北東に向けて建てられている。その方向にはガマ(洞穴)があり、古墓になっているそうだ。村の人たちはこの辺りから、この北側にある山を拝むと先ほどの人は言っていた。屋嘉部には4体の石獅子があったそうだ。集落の南、北、西の石獅子は見つけたので、集落の東の端にもう一体があったのだろう?この東の石獅子の情報は全くない。この後、注意品がら散策したのだが、それらしきものは見当たらなかった。多分、残っていないのだろう。
石獅子の後ろにはかつての簡易水道の水タンクが残っていた。どこから水を引いていたのだろうか?先ほど訪れたアンソー井泉 (ガ-) からだろうか? もう一つ集落には大きな井戸がある。屋嘉部樋川で、そこからかもしれない。
ここから南側に広がる風景
古墓跡
北の石獅子がある場所は高台で岩場になっている。この岩へは登り口があり集落住民が行き来できるようになっている。登ってみると、綺麗に整備されて、敷地内には民家があった。どうも、この家の庭になっているようだ。
岩場には幾つかの古墓があり香炉が置かれている。資料にはこの古墓については情報は無かったのだが、この集落の有力者の古墓ではないだろうか?だから集落の人達にも開放されているように思える。この後訪れた按司墓 (アジシー) はこのすぐ隣にある保育園の場所にあったが、保育園を造園する際に、移されたとある。保育園がある場所も、昔はここと同じような場所だったのだろう。
殿 (トゥン)
北の石獅子の東南は傾斜地になっており、そこに広がる畑地中央部の小丘上に殿 (トゥン) がある。この屋嘉部集落は屋取集落なのだが、その成り立ちは他の屋取集落とは異なっている。屋取集落があらわれるのは18世紀前半の尚敬王の時代で嫡男でない次男や三男など貧乏士族や零落士族に転職許可を与えて士族の帰農政策によるものだが、この屋嘉部は1559年 (永保2年) に第二尚氏第五代の尚元王の王妃 真和志聞得大君加那志の叔父の和積善国頭子がこの土地を王から賜り、移住し創建したもので、屋取集落が始まる200年も前の事になる。その時代に、集落の村立ての際に御嶽や殿が造られたのだろう。(通常の屋取集落には御嶽や殿は存在しない。)後に、帰農士族が移り住み、集落の縄張りは屋取集落に近い。集落の南から丘に向かう階段があり、そこを登ると、草むらの中にコンクリート製に祠がある。これが殿で1970年頃に改修されたもの。六月ウマチー等で拝まれ、琉球国由来記の屋富部之殿と思われる。屋嘉部之殿では屋嘉部ノロにより、「新祭」、「新大祭」が可祭された。
火の神 (ヒヌカン)
殿 (トゥン) のある小丘の中に一部分だけが林になっているところがある。中に何かありそうと思い、入ると火の神 (ヒヌカン) の石積の祠があった。こちらの方はもとのままの姿が残っている。
ウカミャー (屋嘉部神家)
公民館の東方の道沿い殿 (トゥン) への登り口を少し過ぎた場所にウカミャーと呼ばれているにある屋嘉部神屋がある。屋嘉部神家と刻まれた建物とその向かって左側にも神屋が併設されている。屋嘉部の根屋である屋号 玉那覇の香炉が安置されている。屋嘉部集落の発洋の地と伝わる。この玉那覇門中は村立ての祖である和積善国頭子の子孫と伝わっている。
御嶽 (ウタキ)、アジシー
集落の東方にある小丘の頂部には御嶽がある。2014年頃、若干移動され、祠が改修をされた。祠の中の石の香炉は戦前からのものという。琉球国由来記には屋嘉部村の御嶽としてコバウノ嶽御イベが記されているが、この拝所がそれに該当するかは不明。コバウノ嶽御イべは屋嘉部ノロにより司祭された。御嶽の隣には按司墓 (アジシー) がある。かつては大岩の下に骨があったが、玉城幼稚園の建設後、現在の地で移し祀られるようになった。遺骨は古い時代のものと思われる。
屋嘉部大川 (ヤカンウッカー)
御嶽 (ウタキ) の東側、畜舎跡の上側の小道を進んだ突き当りにの突き当りに屋嘉部大川 (ヤカンウッカー) がある。
大きな井泉で、かつてはここから来たん石獅子があった場所の水タンクまで水が引かれ、飲料水や生活用水として使用されていた。また、字富山や字奥武、玉城小中学校の水源地になっていた。井戸のとなりにもコンクリートで囲まれた水場があり、井戸からそこに水が勢いよく流れこみ、更に水路を通り、畑に水が運ばれている。
これで屋嘉部の文化財巡りは終了。今日はとにかく熱く、バテてしまった。何度も日影で旧家を取った。これで今日は打ち止めにしようかと思っていたのだが、まだ時間に余裕があるので、隣の喜良原集落の思い切って散策することにした。
喜良原集落はここから長い急坂を登った上にある。自転車をこいで登る体力は残ってないので、自転車を押しながら登る。それでもきつい。
旧玉城村 喜良原集落 (きらばる)
喜良原集落は明治の初めに首里の士族が帰農し、屋取 (ヤードイ) 集落を形成したことから始まる。1916年に糸数二区から喜良原区へと名称を変更。1930年 (昭和5年) に糸数より、正式に行政上分離してできた地区。屋取 (ヤードイ) 集落なので、集落には御嶽や殿は存在しない。この集落も規模は小さいのだが屋取集落の特徴があらわれ、門中などが16も存在する。
沖縄戦では米軍の攻撃が激しくなり、その後米軍が上陸したことで、集落住民は避難し、戦後収容所生活となる。屋取集落で5か所程 (照屋組、大屋組、大屋小組、世利田気、新栄組) に住居が離れていたため、住民間の連帯感が薄かったのか、収容所が家族単位で別々であった。これに加え、集落は米軍が使用していたため、元の集落への復帰は他の集落に比べ遅く、1947年 (昭和22年) だった。
喜良原集落の人口のデータについても、1976年から1986年までのデータを追加した。この地区でも、1986年に戸数が67戸も倍増している。人口増加は84人で、子供のいる家族が移動してきている様には思えない。2008年には反対に106戸 (115人) も減っている。どうも自衛隊員の増減のような気がしてならない。その後はコンスタントに人口も戸数も増加し、最盛期のレベルまで戻っている。
この喜良原集落は、元々集落があった所はそれ程拡大はせず、南の方に民家がふえてはいる。
屋取集落ということで、村としての祭祀の少ない。
喜良原集落訪問ログ
喜良原公民館
屋嘉部集落からの坂道を登り切ると標高170mで、屋嘉部集落公民館が標高100mなので、70m登ってきたことになる。上部はほぼ平坦な地形になっている。その道を少し進んだ所、喜良原地区の南側に公民館がある。この辺りは喜良原集落が始まった場所といわれている。多分、公民館はかつてのサーターヤーだと思う。(屋取集落は連帯感のない集落だったので村屋ではないだろう)
割取井泉 (ワイトゥイガ-)
喜良原公民館のすぐ近くに割取井泉 (ワイトゥイガ-) がある。井泉小 (カ―グヮー) とも呼ばれている。屋取がはじまった1800年代に造られた。道路工事に際し、井泉の前にあった大岩を削りり割取ったことから、割取井泉と呼ばれるようになったという。1940年代まで5か所あった組のうち、大屋組が洗濯等で使用していたそうだ。
風水 (フンシ)
公民からも風水 (フンシ) がある小山が見える。ここにはお宮と呼ばれていた拝所がある。公ムラの鎮守という。1916年に糸数二区から喜良原区へと名称を変更した時に造られたので比較的新しい。祠の隣には昭和30年代に造られた簡易水道で使われた水タンクが残っている。
風水 (フンシ) はかつてはこの場所ではなく、少し北西に進んだ所にあるガジュマルが生える三叉路の付近にあったが、1940年頃に写真では少し隠れているのだが、その奥の現在地の小山に移された。
暗川 (クラガ-)
風水 (フンシ) から三叉路の道を北に進むと、谷がある。この谷底に暗川 (クラガ-) ト呼ばれた井戸跡がある。階段で下に降りる。途中に祠がある。井戸は更に石畳の道を降りていくのだが、ほとんどの人はこの祠で御願を済ますのだろう、石畳の下り坂は荒れ放題で蜘蛛の巣だらけだった。ここ数日の雨でまだ道は濡れており、滑らないように気を付けながら下ると、洞窟があり、そこから水の滴る音が聞こえる。この暗川 (クラガ-) は1890年頃に切石で整備された。この井泉は主に照屋組が、1958年頃まで飲料水や生活用水、正月の若水 (ワカミジ) として使用していた。水不足の時は大里からも水汲みに来ていたという。
石座井泉 (イシジャガー)
更に北に進むと下り坂に変わる。向こう側には糸数グスクがある丘陵が見える。ここは集落北部で糸数トのほぼ境になる。この坂はかつては石の多い坂で、そこにある井泉だったことが名前の由来。世利田組、大家小組が使用していたが、各家でつるべ井戸を掘るようになったため、使われなくなった。1972年に道路工事の時に取り壊され、現在は道のそばに香炉が置かれている。
畑の井泉 (ハルヌカー)
石座井泉 (イシジャガー) の坂道を下ると一面畑が広がる。集落の北西の畑で、その隅の畑の中に井泉跡があり、畑の井泉 (ハルヌカー) と呼ばれている。かつては世利田組が使用していた井戸だったが、土地改良事業で埋められて畑になり、その場所には香炉が置かれ拝所となっていた。
喜良原はこのように井戸が点在し、その近くに住んでいた小集団が使用していた。他の集落のように、民家はまとまって区画分けがされ手あったのではなく、耕作していた農地の近くに住居を置いていた。
これで、今日の集落巡りは終了。帰り道に、以前訪れた糸数と前川で見落とした文化財に立ち寄りながら帰ることにした。(その写真や訪問記はもとのレポートに追加する)
家にたどり着くと、ぐったりで、夕食を簡単に済ませ、シャワーを浴びて布団に直行となった。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 玉城村史 (1977 玉城村役場)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)