本当に辛いのはあなたですか?
「見るのが辛いです」
「知るのが苦しいです」
「心が痛いです」
辛い?
苦しい?
痛い?
本当ですか?
本当に、そうですか?
快適な部屋でエアコンにあたり、
冷たいグラスで美味しいお茶を飲み、
高級な携帯電話を覗きこんでいて?
あなたはいま、本当に辛いですか?
呼吸も出来ないくらい苦しく、
どこかが焼けるように痛いですか?
私も以前、同じ言葉を漏らしていたことがありました。いつだったか、忘れてしまったけど。この言葉を軽率に連呼した時代が実際にあったと記憶しています。
でもいま、本当に残酷な死の画像を見て思います。
辛いのも、
苦しいのも、
痛いのも、
私じゃなかった。
それは私じゃない、この子たちだった、と。
なんの価値もない自己肯定の言い訳を
並べ上げている暇があったら、
その努力の方向を少し変えてみませんか。
何でもいい。
ただ行動すればいい。
行動に移してしまえば、
悲しみは強さに変わり、
共に励ます信頼にかわり、
声をあげる勇気に変わる。
私もそう。
それはあまりにも
超えられない壁のように思えたのに、
実際に超えてみたらそれは、
ちっとも高くない壁でした。
その壁は実は、心の中で作り上げた
自己肯定の壁だった事に気づきます。
出来ない、見たくない、したくない。
出来ないのは面倒だから。
見たくないのは悲しくなるから。
したくないのは自信がないから。
壁の向こうには、
悲しい現実が溢れている。
けれども、
人間が命を破壊できるように、
命を救い出し、命を育み、
命を抱きしめる強さを持つこと、
本来の人間の愛の力の偉大さを、
知ることも出来ます。
知る事には無数の学びがある。
無関心は停滞と退廃です。
1ミリ程度の行動でさえ、
あるとないでは天と地の差ほど違う。
1ミリ程度の行動でさえ、
結集すれば偉大な力になる。
大切なのは、大きさじゃない。
1ミリでも、実際に動き出すこと。
知ることに、見つめることに、
本質の意義があるのです。
見つめることには勇気がいる。
けれども、見つめてください。
辛いって何なのか、
苦しいって何なのか、
痛いって何なのか。
虐待に死んでいった子たちの
その姿が教えてくれます。
あなたはきっと、
すぐに気づくでしょう。
本当に苦しいのは誰だったかを。
あなたが今まで、いかに、
とんでもない思い違いをしてきたかを。