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飼育放棄は"殺害依頼"です。

2021.05.05 02:30


例えば今日び、この国で、動物愛護センターについての認識調査をしたら、そこがどんな場所か知らない人もいるでしょう。


以前ネットで読んだ記事にありましたが、とある街角インタビューで上記について質問したところ、こう言った人がいました。


「動物愛護センターって、捨てられた犬や猫を、飼い主の代わりに育ててくれる場所でしょ?」



「命の期限」「ドリームボックス」

への大衆の認識も同様、

想像よりもずっと浅いかも知れません。

"過去に家族だった"命を持ち込む飼い主でさえも、その命がどれほどに悲惨な末路を辿るのかを殆ど認識していない場合があると言われます。


持ち込んだ飼い主はあくまで、自ら手を下すことなく、「それ」を他人の手に委ねることで罪の意識を抱くことも、罪に問われることもなく、手放した瞬間に解放されるのです。

命の責任から。

殺処分の重罪から。


命をそこへ置き捨てることは、

飼い主がセンターの職員へ「"元家族"の殺害を依頼すること」と同意です。

少なくとも一度は愛し、大切にすることを誓った命。その命が壮絶な恐怖を体感し、悲痛に叫びながら殺害されることを、他者に依頼し、認可するということです。

美しいイメージの「動物愛護センター」と

名付けられたこの場所で、このような殺害依頼が溢れ返っていることを、我が国の住人の多くは、未だ知らずに生きています。


命の大切さを知ることは、

そんなに難しいことでしょうか。


この国では、残念ながら本当に難しいと思います。頑丈に構築された当たり前と習慣と文化の壁の中で私たちが真実を知る機会を得ることは、個人の倫理観の質以前に、とても難しいことです。


今日も殺害依頼をする人間と、

今日もそれを知ることのない人間と、

今日も引き裂かれるような思いの中で

繋ぐ命の選別をしなければならない人間と、

今日もガス注入ボタンを押し続けなければならない人間と。

それらが複雑に混在して生きている国です。


そこにある絶望的な温度差を埋めるには、

真実を知るチャンスを沢山の人々が得なければならない。

真実を知ってしまった人間には、その人自身の意向に関係なく、そこに責任が生じると言うこと。

その認識を自分の中に閉じ込めず、

伝えなければいけないという責任です。

知った人間にしか、繋ぐことが出来ないのです。


私はこれまで、命についての物語を書いて、

それを投稿することで多くの方に読んで頂き、今皆さんの中にある思いと言うものを、

更に強くすることに意義を感じてきました。


しかし、今は少し違います。

それだけでは余りにも不足だと感じます。


なぜなら、思うに、私の投稿を読んで下さる方々と言うのは、すでに命について、深い知識や理解があり、強い志をお持ちだからです。

強い志を持った人間がさらにそれを高めることも勿論必要ですが、その認識が一定の場所でしか機能していない、一定の場所で停滞してしまうと、この国の歩みもまた、滞ってしまう。


重要なのは、その意識を、無知、無関心の層に向けて拡散してゆくことだと思うのです。

自身の認識と他者への伝達は、とにかくセットでなければいけないのだ、と。


また、欠くべきでないのは、真実を伝える際に、その相手にも、伝えることを繋げてもらえるように話すことです。知ることと、伝えることが、チェーンのように繋がっていくこと。それが大切だと思います。


皆さんがお持ちの知識や理解、ぶれることのない強い志を、どなたかに一切合切寄与することはなかなか難しいかも知れませんが、真実を知り、自ら学ぶ機会を、そのきっかけをお渡しすることなら、誰にでも出来るかも知れない。きっかけ作りのバトンを繋ぎ続ける。そんなイメージです。


そうして誰もが願うような形で変化を遂げていくとは限りません。とても長い時間がかかるかも知れない。

でも、歩みを止めないことです。

1人でも2人でも、今日より増えてゆくこと。

そのことを大切にしなければいけないと思うのです。