サルトル「実存主義とは何か」 ②
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/exis22.htm 【1 意識の自由=意味付与(賦与)の自由】 より
意識は、既に何かある対象を持っている。対象は、我々(意識)に対して、何らかの意味を持っている。意味とは、意識が対象に与えるものである。
知・情・意の三分法
- 知・・・知性の働き・判断作用(知覚をもととして、認識を作りあげる精神的諸機能)
意識にとって対象は判断されているもの
例) Aという人物に対してどんな奴だろうと意識するとき、Aは意識によって判断されている。
- 情・・・感情の働き
例) Aさんは私にとって好きな人、好かれている人、嫌いな人。
- 意・・・意志
対象は意識されたものとして、何らかの意味を持っている。しかし対象に、どういう態度で臨むかによって、対象の意味は違ってくる。
例)
・ 知性的に接すれば、Aさんは判断された人
・ 感情的に接すれば、Aさんは大好きな人、大嫌いな人
このように知的な態度、感情的な態度によって、同じAさんが、私にとって変わってくる。意味は、私がAさんに与えたものだ(=態度によるものだ)
どのような態度を取るかは自由だ = どのような意味を与えるかは自由だ
⇒ 意味付与の自由
この意味付与の自由は、意識の志向性による。つまり意識は、その志向性によって対象に自由に意味を与えるのである。対象は、既に何らかの意味を持っているが、その意味は意識が与えるものであり、対象はなんら意味を持っていない。
険しい山が存在するとする。それに対して人間は、色々な態度を取れる。どうしても向こうに用事があり、山を越えなければならない旅人に対して、山は、旅路の重大な障害になる。しかし登山家にとっては、こよなき楽しみを与えてくれるもの。あるいは、景色を眺める観光客にとっては、絶景という意味を持ったもの。観光業者にとっては、絶好の金儲けの手段になる。
⇒ 山は、何の意味も持っていない。意味は意識の態度による。
【コメント】サルトルに対する批判
メルロ・ポンティによれば、今の例に挙げられた山は、意識される以前に「すでに」険しいという性質を持っている。登山家にとっての意味は、険しいという性質がなくてはならない。
⇒ 意味付与の自由は、対象の持つ特性にかなり制約[1]されているのである。
[1]制約:ある条件を課して自由にはさせないこと。物事の成立に必要な規定または条件。
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/exis23.htm 【2 実存の自由】 より
もし神が存在しないとすれば、実存は本質に先立つ。それゆえ各自の実存は、各自で造られなければならない。
⇒ 実存には、自己創造の絶対的自由がある。
☆ 言い換えれば、実存の自由=自己創造の自由
ゆえに実存は本質に先立つことと、実存の自由(自己創造の自由)とは不可分。
L’homme est liberté.:人間は自由だ。
サルトルによれば、実存は、神とか、神により与えられた伝統的な道徳によって、自分が如何に生きるべきか・在るべきかをコントロールされてはならないものである。完全に自由なのである(実存の自由)。
1の意味付与の自由と2の実存の自由との関連付けは二つ可能。
その1:
意味付与の自由が実存のレベルに移されると、「人間は自由に自分を造ることができる」。
その2:
実存の自由というのは、自己を造る自由だ ⇒ 自己変革の自由 ⇒ 自分の現状に満足せず、それとは違う在るべき自己を考える。現に在る自己を越えて、在るべき自己に向かう自由。
∝(比例)
意識は自分の外にある対象に関わっているものだ。意識は自己を越えてゆく運動だ。
いずれにせよ、人間の投企には、一定の障害があって、これを作り出すのは、実存の自由である(その2)。ところで人間は、投企に対して何なかの目的とか理想とかが必要である。ところが人間は絶対的に自由だということになっているから、投企に対して二つの可能性しかない。
- 一つは、伝統的な理想や価値に、自分独自の意味付けをすることによって、自分のものにする。
- 一つは、そうするに値するものが、伝統的なものの中にない場合、自分で造らねばならない(inventer発明する)。
コメント1
サルトルは、『自由への道』という作品の第一部の中で、マチュー教授(サルトルの分身の一人と考えられている)について次のようなことを述べている。
彼は、自分の欲する通りにできた。誰一人、彼に忠告する権利を持たなかった。彼が作り出さなかったならば、彼にとっては善も悪もなかったであろう。何が善であるか悪であるかは、自分でそのつど作り出さなければならない。
コメント2
『実存主義は民主主義か』の中には次のようなことが述べられている。
サルトルの教え子がサルトルのところに来た。父は対独協調者。母は愛国者であった。その教え子は、自由フランス軍に加わろうとした。しかし彼は、母のことが気になって、そのことにためらった。サルトル曰く:
「君は自由なのだ。選びたまえ。すなわち発明したまえ」。ところが選ぶためには、判断基準がいる。しかしその判断基準は、自分で作りたまえ。
人間は寄る辺なき自由と完全な孤独の中で自分の行為の仕方とその判断基準を自分で選ばなければならない。
自分で発明する以前には、正邪善悪はない。そして自分の行為を正当化するものは、自分自身の選択基準だけなのである。
『存在と自由』では、「私の自由が価値の唯一の根拠である」と言われている。
ここで倫理的不安angoisse éthiqueということが出てくる。しかし人間は自由であるかぎり、これに耐えなければならない。しかしサルトルによれば、この不安に耐えられない者は、見下げ果てた奴だということになる。
サルトルはこういうわけで、伝統的な価値を、伝統的だという理由で信じることを拒否する。それを拒否する理由は二つある。
一) 神あるいは先人たちが作り出したものの奴隷となることである。つまりそれは、人間の自由の放棄に他ならない(原則論)。
二) 具体的な状況の中では、伝統的な道徳というのは、行為の選択の役に立たないことが多い(実質的)。
例)コメント2によると、彼は、伝統的な徳目である孝をつくさなければならない。他方では、祖国のために尽くさなければならないという忠がある。伝統的な道徳は、この二つのものを義務としている。しかしコメント2では、この二つの徳目が対立している。この矛盾の解決は、伝統的な道徳の中には示されていない。こういうとき人間は、自分で価値を作らねばならない。
とはいえ私の私見を述べさせてもらえば、サルトルが、伝統的なものを、それが伝統的なものだという理由で拒否するのは、少し行き過ぎであると思う。各人は、各自の自由に基づいて伝統的なものを再評価し、その際評価に基づいて行為すべきではないだろうか。。
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/exis24.htm 【サルトルの実存の特徴】 より
彼の実存の特徴として次の二点を指摘することができる。
- 人生の意味の創造。
- 伝統的な価値へと逃避することなしに、それを再評価しながら、自分の中で生かす。
しかしこの創造とか再評価は、一度限りのものではない。常にそれを繰り返すことが必要である。 というのは、人生の意味・価値というものは、耐久消費財ではないからだ。それは常に再生産されねばならない。
ところで伝統的な価値観というものは、神によって人間に与えられたものであり、しかも普遍的なものであると考えられてきた。
★ 普遍的:
① すべての人に当てはまる。
② どんな場合にも当てはまる。
ところが神が死ぬと同時に、この二つの普遍の意味は消えてしまう。つまり、状況が変わるごとに、以前の通りに行為してよいのか否かをその都度考え直していかねばならない。
したがって、価値の創造や再評価というものは、繰り返さなければならない。そしてこの創造とか、再評価の努力が、人生の意味なのである。
そうすると「誠実」ということが問題になってくる。
一度定めた価値を一貫して守り通すことが、サルトル的な実存の誠実さではない。不変的な価値が崩壊したことを知っている人間は、迫り来る決断を、その都度、敢行する。そうする人こそ、誠実な人なのである。そういうの誠実さが、神なき時代における人間の誠実さということになる。
Bonne foi, Wahrhaftigkeit 「誠実さ」
誠実さということを強調した近代最初の人は、ニーチェである。彼曰く:
キリスト教道徳が人間に誠実の徳を与えてくれた。しかしこれによってキリスト教道徳の虚偽が白日の下に現れた。『道徳の系譜』岩波文庫
※スタン『サルトル論』:
サルトルは、神を信じない人間の中で、最も信心深い人間である。それは、サルトルが徹底的に誠実さというものを追求したからである。
アペレス『20世紀文学の決算』第二部「道徳的冒険」:
20世紀の作家たちにとっては、道徳というものは、人々によって無批判的に受け継がれてきた単なる習慣に過ぎないものであった。それで20世紀の作家たちは、こういう機械的に受け継がれてきた生命を失った道徳を拒否した。そしてそれに代わって一つの新しい道徳的な価値を造り出した。それは、誠実の徳である。しかしこの誠実の徳は、一つの単純な徳目ではない。
たとえばジイドにとっては、誠実の徳は真実の豊かな生を生み出す力であった。サンテグジュペリ、カミュにとっては、それは、行動と人間的同胞愛を生み出す力であった。つまり、誠実というものの目的は、道徳そのものの拒否ではなく、単なる習慣と成り果てて誠実さというものに裏づけられていない道徳に代わって、生きた道徳を造り出そうとすることなのである。
★ コメント:
ジイドにとって云々というのは、『背徳者』『贋金作り』の二つに作品による。
実存の自由というものの主張は、創造や再評価の不断の努力の必要性を伴うもので、非常に厳しい。 実存の自由は、絶えず自分自身を造ること、つまり現にある自分を越えて、在るべき自己へ向かって投企することである。つまり自由な実存と自己自身とは常に一致しない。
人間とは一致の欠如である。
要するに実存は否定を含んでいる。こういうところからサルトルは、自由について、寄る辺なさ、倫理的不安を導き出したのである。このようなことをもとにして、サルトルは、無神論について次のように言っている:
「無神論とは、一つの残酷にして長期にわたる企てである」。
神とは、各人が全生涯を費やして結論を下すべき全体的な問題である。しかもその結論は、各人が自己自身と他の人間とに対して為した態度の反映である。それゆえ神の問題とは、人間の生き方の問題なのである。