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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

アマデウスの旅9-喧噪のパリよさらば

2021.05.05 09:37

その頃パリの音楽界では、グルック=ピッチンニ論争が起きていた。実はどちらもアントワネットが呼んだ作曲家である。実はパリの観客は、あまりイタリアオペラがお好きでない、特に長々とアリアを歌われるのがイヤである。これは、両国の演劇・文化的伝統の違いなのでいたしかたない面がある。

ピッチンニはナポリ派のイタリア人で、グルックはドイツ人だが、イタリア的オペラを改革し、ストーリーと音楽的統一性を重視しようとした。これは宮廷音楽から出発した従来のフランスの嗜好とマッチして、いつの間にかフランス派となってしまっていた。

この二派の論争は、今日のサッカーのレアル=バルセロナ論争のようなもので、マスコミの煽りのタネになり、興行師もその競争を狙った。そして両者に「タリウスのイピゲニア」という同じテーマを与えて競作させようとした。もはや音楽とは関係ないエンタメとしての競争である。

両者ともオペラを仕上げたが、もとより内容抜きの不毛な論争であり、グルックは嫌気がさし、1780年にウィーンに帰ってしまう。ピッチンニはパリに留まったが、味をしめた興行師は、また別の作曲家をけしかけようとした。パリの音楽界は社交の道具のエンタメになっていたのだ。