藤衣
https://costume.iz2.or.jp/color/469.html 【藤】
女房装束「五衣長袴唐衣裳(いつつぎぬながはかまからぎぬも)」のことを、一般的に「十二単(じゅうにひとえ)」と呼びます。よく「本当に十二枚ですか?」と聞かれますが、時代により異なり、二十枚以上重ねた、などという記録も見えます。
「十二単」という単語が出てくる最も古い文章はこれです。
『源平盛衰記』
女院は後奉らじと、御焼石と御硯の箱とを左右の御袂に宿し入、御身を重くしてつゞきて海に入せ給ひけるを、渡辺源次兵衛尉番が子に、源五馬允眤と云者、急飛入て奉潜上けるを、眤が郎等熊手を下て御髪をから巻て御船へ引入奉。弥生の末の事なれば、藤重の十二単の御衣を召れたり。翡翠の御髪より始て、皆塩垂御座ぞ御痛しき。
壇ノ浦で入水する建礼門院の姿を「藤重の十二単」と表現しています。同じ情景を別の文献では、
『吾妻鏡』
二品禅尼持宝劔。按察局奉抱先帝。〔春秋八歳。〕共以没海底。建礼門院〔藤重御衣。〕入水御之処。渡部党源五馬允以熊手奉取之。
「藤重御衣」としていますね。いわゆる「十二単」というのは「偉い人の前に出るときの服装」です。中宮は帝の御前で十二単を着ますが、普段はもう少しラフな服装。中宮にお仕えする女房たちは中宮の前で十二単を着ました。それゆえ「女房装束」なのです。ですから、戦場で建礼門院が本式の「十二単」(女房装束)を着ているはずはありません。あくまでも「たくさん重ねた衣」程度の描写だと思われます。
さて、建礼門院が着ていた「藤重ね」の衣というのは、どういう色目だったのでしょうか。
『胡曹抄』(一條兼良・室町中期)
衣色事、(中略)藤、面薄紫裏青朽葉、三四月。
衣色異説、(中略)白藤、面うすむらさき裏濃紫。
『岷江入楚』(中院通勝・1598)
かざみは童女の上にきる物なり、水干のかみのやうなる物なり、あか色のうはぎに、桜がさねのかざみ、紅の藤がさねはみな衵なり、衵は二も三もかさぬるなり、藤がさねは、面うす紫、裏萌木といふなり。
古い文献を見て参りますと、「藤衣(ふじごろも)」という単語を散見いたします。しかしこれは「藤重ねの衣」のことではなく、藤蔓の粗末な繊維で作った衣、喪服を意味します。
『源氏物語』(橋姫)
母にはべりし人は、やがて病づきて、ほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うたまへしづみ、藤衣たち重ね、悲しきことを思うたまへしほどに……
まったく違う意味になりますので要注意。
画像は藤の花房と、『岷江入楚』の組み合わせ。表が薄紫で、裏が萌木色。なるほど納得の、藤そのものの風情ですね。
http://575.jpn.org/article/174793847.html 【藤衣(橘元任)】 より
藤衣 いみもやすると 棚機に かさぬにつけて ぬるゝ袖かな 橘元任
■ 訳
喪服を着て服喪していると、(今日が七夕であることを気づかされた。)まるで(年に一度しか会えない恋人と、二度と会うことができない父の姿を)七夕に重ねて、袖を(涙で)濡らしてしまう。
■ 解説
「藤衣(ふぢごろも)」は喪服、「いみもやすると(忌みも休ると)」は服喪し滞在していると、「かさぬ(重ぬ)」は重ねる、をそれぞれ意味します。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は金葉和歌集 第三巻(秋歌)に収録されています。
題に「七月七日父のぶくにて侍りける年よめる」(7月7日、父の仏前(仏供)に参った年に詠んだ)とあります。
■ 豆知識
作者は橘元任(たちばなのもととう)で能因法師の息子です。
つまり、この和歌は能因法師の仏前で詠まれたものとなります。
「藤衣」は喪服を指しますが、これは喪服が元々は藤の蔓で編んだ目の粗い服だったためです。
当初の服の色は素材の色そのものだったようですが、平安時代に入り貴族社会においては灰色に染色された服が用いられるようになり、さらに悲しみの度合いによってより色が濃くなるといったルールが制定され、黒に近い色が着られるようになったようです。
ちなみに、喪服の色は白装束という言葉があるように、一般的には白が着られていましたが、明治時代に入って欧米の文化が入ってきたことで黒が着られるようになり、昭和初期には庶民でも汚れの目立たない黒が着られるようになりました。