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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 103 (11/05/21) 旧真和志村 (1) Kokuba Hamlet 国場集落

2021.05.12 12:10

旧真和志村 国場集落 (こくば、ククバ)


沖縄は先週梅雨入りとなった。これからはしばらくは不安定な天気になりそうなので、天気予報が雨の日は近場の集落巡りに切り替えて、雨が降ればすぐに帰る事ができるようにする。那覇市内の集落は区画整理が他の地域に比較して複雑なので、後回しにしていたのだが、近場となると那覇市なので、琉球王朝時代の真和志間切をその対象にする。晴れ予定の日は今巡っている南城市の集落を巡りとする。

今日は近場の集落巡りとして、今住んでいる国場の集落の文化財を徒歩にてまわる。雨になってもすぐに帰ることができるだろう。


旧真和志村 国場集落 (こくば、ククバ)

国場は、覇市の南部に位置し、旧真和志市時代は集落の南が国場川をはさんで豊見城市真玉橋、嘉数、東側は仲井真、上間、識名、北側が壺屋、西側は与儀、小波蔵に接して、旧市内では最も大きい集落の一つだった。国場は方言でククバと発音され、ククは「窪 (くぼ)」の事で、窪地という意味と考えられる。

那覇市は大きな区分では4つに分けられており、那覇の中心部を本庁、その他、真和志地区、小禄地区、首里地区となっている。国場は真和志地区に属し、琉球王等時代から真和志間切の主要な集落であった。琉球王統時代は、三平等 (ミフィラ) と呼ばれた王家直轄地が行政の中心で、南風之平等 (ハエヌフィラ)、真和志之平等 (マージヌフィラ)、西之平等 (ニシヌフィラ) の3つの平等で構成されていた。これが現在の首里地区で、当時は王家につかえる士族の住居がほとんどだった。商業はかつて花城と呼ばれていた現在の那覇中心地からその周りひろがり、そしてその外側に広範囲に広がる農業を中心とした集落を含む真和志間切があった。国場はその真和志間切の一つの集落だった。

国場や真和志間切 (後に真和志村、真和志市) の人口を調べようとしたのだが、那覇市などインターネットでデジタルデータとして見つかったのはここ10年から15年しかなく、人口をマクロにとらえるデータとしてはほとんど役に立たない。そこで、何度も沖縄県立図書館に通い、統計データを調べて、作成したのが下のグラフ。(これには数日かかったので、集落方mンはなかなか進まない) 那覇市の行政区分は複雑で、現在は4つの行政区に分かれる。本庁、首里、小禄、そして真和志だ。かつての多くの集落は人口が増えると、その地区を分離し、新たな独立行政区を創設したリ、かつての複数の集落の一部を合併させて新たな行政区を造るといった形で進んだために、那覇市以外の集落のように昔ながらの形を残していない。那覇市の集落巡りを後回しにしていたのは、この複雑さで、昔の集落の宇一や範囲、そのなりたち、発展を知るには多くの労力が伴う。このような複雑さについて、スプロール現象 (都市計画がなく、住宅、商業開発、道路などが、広範な地帯に無秩序に拡大する現象) と批判されることがある。確かに那覇を見ると決して美しい街とは感じない。無機質ないびつな古いコンクリート造りの民家が密集している。本土の地方都市のような整然としてゃいないのだ。ただこれには、沖縄の戦後の歩みを現わしていることに気が付く。沖縄戦終結後、住民は捕虜収容所暮しが始まり、半年から1年で出身地に帰村できるようになったのだが、那覇は米軍が広範囲に接収を継続し、帰村はかなわなかった。そこで、那覇の郊外の真和志に人が住み始め、急激に人口が多くなった。当時は焼け野原で、住民が協力して池を建設していた。米軍統治下で、国からの支援もない、後に琉球政府ができるが、これも実際の力は持っていなかった、その中で、物理的に復興を進めたのは住民だった。このような状況で都市開発ン度を行う余裕も資源もなく、生活を立て直すために、いわゆる「無秩序」な復興が行われた。

この国場はその代表的な集落と思える。明治13年の国場集落の人口は723人、沖縄戦が始まる直前の昭和19年では996人と64年間での人口増加は限られている。まだまだ集落の周りはほとんどが農地で、農業が生業の中心だった。それが、戦争終結して数年で、この地に大勢の人たちが住み始め、昭和36年には役3500人にまで膨れてあがっている。 (昭和20から35年までは統計が取られておらずデータはないようだ) その後も那覇が県経済之中心となって、那覇まで4kmのところにあるこの地区は那覇で働く人たちの別途タウンとして発展し、現在も人口は小康状態気味だが微増が続いている。昔、国場はそれほど大きな集落ではなかったが、現在は那覇市真和志支所管轄地区では、最も人口の多い地区となっている。

この百年の国場にの民家の分布を見ると、次第に町が拡大し、現在では国場で農地を見つけることは困難なほど、民家が密集している。

「国場字誌」に少し興味を引くものがあった。他の村史、字誌なのでは見たことがなかったのだが、自治会への加入者のデータだ。データのみでなんの記述もない。各集落を巡ると、すべての集落で公民館、自治会館、土地開発センターなど呼びかたは様々なのだが、昔の村屋 (ムラヤー) がある。このかつての村屋が集落により、その在り方が変わってきている。国場の自治会加入者率がわかるデータは明治から昭和にまでがないので、良くはわからないのだが、明治時代から昭和20年の沖縄戦までは、ほぼ100%の加入率だったと思われる。それまでは昔ながらの集落が住民の生活の場で、12の門中の血縁者がほとんどであっただろう。それが、集落外に人が移り住み始め、人口も明治に比べ15倍にもなっている。その結果、自治会の加入率は15%と沖縄ではかなり低い。那覇の平均は20%ぐらいで、他の沖縄地方では30%-40%という。これは那覇市では共通の現象だ。もともと村屋はその村民の協力の場であり、国場のように人口が1万人を超える地域では元々の村屋の役割と移住してきた住民の希望にはギャップが出ている。その一例としてだが、集落を巡った際に気が付いたのは公民館の重要な役割の一つに、村の祭祀がある。明治時代の半ばまでは各集落にノロがおり、行政から給料を得て、祭祀を執り行っていた。そのノロの制度が廃止され、その役割は公民館に移っている。村によっては毎月、何回も祭祀を行っている。この祭祀はその村固有のものであることが多く、特にその村の門中に強く関連している。他の地域から移住してきた人にとっては、御願の対象ではない。そこで、感じるのは、昔ながらの集落住民とその外の住民との間には、言葉にはならない隔たりがある。人口が増加している沖縄の中で、昔の集落は過疎化が激しい。陸の孤島現象が顕著だ。沖縄の門中は文化の継承者ではあるが、それが同時に社会の閉塞を生み出してもいる。集落住民の中でも、その昔ながらの習慣から逃れるために、村から出ていく人も多いという。特に若者が多い。


琉球国由来記に記載されている拝所 (太字は訪問した拝所)


国場集落で行われている年中祭祀は下記の通り。赤色は村の祭祀となっているもの、それ以外は各門中で御願されている。


今日、徒歩にて巡った文化財のログ


国場川

琉球王統時代は交通の要所で、国場には国場川沿いに船着き場もあり、軍道の真珠道も走っていた。国場川はその下流は漫湖を経て那覇港に流れ込んでおり、水運による那覇への物流には大いに利用されていた。国場の前原 (メーバル) には船着き場 (シンヌチキ) が10か所も置かれていた。前原 (メーバル) はシンヌチキとも呼ばれていた。国場川の上流は長堂川、宮平川、安里又川に繋がり、そこからは小さな船 (クリ船) でここまで運び、ここで大きな船に積み替えて那覇へ運んでいた。国場は那覇への重要な野菜供給地だった。水運輸送は馬車や鉄道が開業するまでは物流手段の中心であった。


龍宮神拝所

川による物流がかつては重要であったので、国場川沿いに海の神である龍宮神を祀った拝所があった。いつ頃からこの拝所があるのかの情報は見つからなかった。この近くの真玉橋集落にも龍宮神が祀られているので、この国場川は当時の生活には非常に重要であったことがわかる。


製糖場跡 (サーターヤー)

国場では民家が集まっていた集落地区以外はほとんどが畑で、サトウキビが主力生産物だった。前原 (メーバル) の船着き場があるすぐ近くには7つの製糖場 (サーターヤー) が集まっていた。これもすぐに船で那覇港への輸送を考えての事。製糖場 (サーターヤー) があった場所は「こくばめーばる公園になっている。」国場川の向こうには長嶺グスク跡がある丘陵地が見えている。


軽便鉄道国場駅跡

船着き場の近くに軽便鉄道の国場駅が戦前まであった。1914年 (大正3) 開通の与原線が開通して時に国場駅もでき、駅舎内には売店まであったそうだ。その後、1923年 (大正12) には糸満線が通り、島尻方面の人員、物資のすべてはこの国場を通って那覇に運ばれていた。物流はこの軽便鉄道にとってかわられ、船着き場は次第に姿を消し、戦前には国場川の水運は使われなくなった。3輌編成の車両が20分間隔で走り、製糖期は5輌になったそうだ。軽便鉄道は単線で、この国場駅で上りと下りが交差していた。現在では、国場駅を偲ぶものは残っていないのだが、

国場駅から真玉橋駅に向かう線路が敷かれた場所には二つの遺構が残っている。一つは水路に渡されたレンガ造りの橋脚の一部が残っている。

もう一つはコンクリート製の枕木が残っているが、枕木の向きが違うような気がする。無クラギは線路に対して直角に置かれるはずだが、これだと線路と平行になる。枕木を何かのために利用したのかもしれない。


馬場跡 (ウマィー)

国場駅の国場川沿いには馬場 (ウマィー) があったそうだ。川沿いの馬場は初めてで珍しい。


前道 (メーミチ)

かつての軽便鉄道が走っていた線路沿いに国道507号 (古波蔵大通り) が国場集落の前道 (メーミチ) に当たる。この前道 (メーミチ) から北の丘陵斜面に国場集落がある。現在は住宅で埋め尽くされ、どこまでがかつての集落だったのかは分からないのだが、かつては集落の周りは一面畑だった。国場は戦後、那覇で勤務する人たちのベッドタウンとなり急激に人口が増加した場所で、この国道507号は双方向で2車線づつなのだが、朝と夕方のアッシュアワーには3車線、1車線に変わる程、交通量の多いところ。


前ヌ御嶽 (メーヌウタキ)、火神御井 (ヒヌカンウカー) 、御願小御井 (ウガングヮーウカー)

前道 (メーミチ) 沿い、製糖場 (サータヤー) 跡の隣には前ヌ御嶽 (メーヌウタキ) がある。道路沿いの空き地全体がかつての御嶽で、村行事などが行われていたそうだ。今は空き地の奥にクンクートの祠が建てられている。ここは、国場発祥と地とされおり、13世紀頃に、琉球開闢の祖のアマミキヨの子孫と伝わる国場の国元 (クニムトゥ) の城間 (グスクマ) 門中が玉城ミントン (明東城) から移り住んだといわれる。城間家 (本家) が国場集落の始祖、根家 (ニーヤー) だ。この前ヌ御嶽 (メーヌウタキ) は琉球国由来記の下国場之殿 (神名: ムヂョルキノミ神) に当たるとする説もあるが、確証はないそうだ。殿なのにイベがある。これは元々は御嶽であったのが、殿に変わったのではないかと考えられている。

御嶽への入り口を入った所に、元々この御嶽の敷地内にあり、初水をとっていた火神御井 (ヒヌカンウカー) と御願小御井 (ウガングヮーウカー) が形式保存されている。井戸と御獄の間に自然石を積んだ小さな遥拝所がある。香炉が置かれ、島尻を拝んでいるそうだ。

奥にはコンクリート製の祠が前ヌ御嶽 (メーヌウタキ) で、琉球国由来記の下国場ヌ御嶽 (シチャコクバヌウタキ、神名: カネノ御イベ) に相当する。国場には二つの御獄(ウタキ)があり、その一つがこの御獄だ。通常は「前ヌ御獄」と呼ぶ。毎年3月、8月に4度の祈願をする。


国場公民館、村ヌ御井戸 (ムラヌウカー)

国場のナカミチ沿いにあり、琉球王国時代からの村屋 (ムラヤー) があった場所。現在の公民館は1995年3月に完成した。戦争中は日本軍の炊事場として使われ、米軍の空襲で消失した。敷地内に重要な井戸があったので、「村の御井戸」という拝所として残されている。公民館ン中に入ると、拝所マップが壁に貼られていた。手持ちの資料以外にも幾つか拝所が書かれていたので、メモを取っていると、係員さんが出てきて暫く話をした。国場についての色々な話を聞かせていただいた。


中道 (ナカミチ)

公民館の前の道は集落を縦断する中道 (ナカミチ) になっている。ここが集落の中心的な道。


城間門中 (グスクマムンチュー) 本家、根屋 (ニーヤ)

丘陵の斜面に広がる集落の上の方に城間門中 (グスクマムンチュー) の本家 (元屋 ムトゥヤー) がある。大体の集落では昔からの有力門中は上の方に位置していることが多く、この集落もそのようになっている。国場集落には12の門中があり、現在でも昔からの門中社会の風習が強く残っているそうだ。城間はこの国場集落の村立ての家で、根屋 (ニーヤ) にあたる。もともとの敷地の半分はマンションになっている。そのマンションの前に住まいがあり、敷地内に根屋が建てられている。ここで村の御願などが行われている。庭の奥には石の祠の村立ち (タチクチ) がある。


安室 (アムル) の神屋

安室は城間門中の一族で分家にあたる。安室も城間と同じく国場集落の中の有力門中のひとつだ。ここは昔ながらの平屋の家は残っておらず、敷地はマンションになって、その片隅に神屋が建てられている。今まで巡った集落で門中の敷地がマンションになっているのは見たことがない。那覇とその他の地域とは集落の形態の変わり方が違うのか....


カナハタガ-

国場集落には3つの共同井戸があった。一つは先ほどの公民館にあった村ヌ御井戸 (ムラヌウカー) で今は残っておらず形式保存されている。この場所のカナハタガ-も共同井戸で、ここは戦火を免れたようで、井戸の周りはコンクリートで囲われ蓋が付いている。井戸の前には香炉が置かれ拝所にもなっている。もう一つの共同井戸は前之井 (メーヌカー) というのだが、これは見つけられなかった。


登野城之御嶽(トヌグスクヌウタキ)

国場集落にある二つの御嶽のうちの一つが登野城之御嶽(トヌグスクヌウタキ) で、琉球国由来記には神名 オシアゲとして記載されている。集落の北東の端の丘陵中腹にある。御嶽は二つに分かれていたようで、下部が仲之御嶽 (ナカヌウタキ)、上部は上之御嶽 (ウィーヌウタキ) となっていた。現在は仲之御嶽と上之御嶽は確認できるようにはなっておらず、階段を上った上に、多くの拝所が合祀されている。

階段を上った所には4つの井戸の拝所が形式保存で移設され祀られている。右から、中之御嶽火神御井(ヒヌカンウカー)、中之御嶽下乃御井 (シチャヌウカー)、登野城西乃御井 (イリヌウカー)、子之方御井(ニヌファウカー) となっている。

その奥に大きな瓦葺きの祠があり、ここが登野城之御嶽 (トヌグスクヌウタキ) で9つの拝所が合祀されている。右から、東世、今帰仁世、百名世、大里世、登野城之世、中之御嶽、火神、唐御殿 (トーウドン)、芋之神 の香炉が置かれている。この拝所が仲之御嶽と上之御嶽にあったのか、集落の別の場所にあったのかは情報がなかった。ただ、唐御殿 (トーウドン) や子の方御井(ニヌファウカー) は丘陵の更に上にあったことは確かだ。


渡嘉敷の神屋

登野城之御嶽(トヌグスクヌウタキ) の隣には渡嘉敷腹の屋敷がある。渡嘉敷は城間門中の分家にあたり、国場集落の中心的な4つの門中の一つだ。敷地の入り口付近に神屋が置かれている。


国場土帝君 (ククバトゥーテークン)、寺小毛 (ティラグヮモー)

登野城之御嶽(トヌグスクヌウタキ) から集落の外輪の道を下ると、松の生えた寺小毛 (ティラグヮモー)という丘がある。そこに土帝君 (トゥーテークン) が祀られた半球状の石積の祠がある。祠には左右にシーサーが置かれているが、これは元々は存在しておらず、2003年に改修されたときに、新たに設置されたもの。祠の中には小さな土帝君の石像が置かれている。昔は久米村の国場殿内 (コクバドゥンチ) から拝領した金の仏様が祀られていたのが、いつの間にか赤瓦の像になってしまったそうだ。今まで多くの土帝君を見たが、これほどはっきりとわかる石像が祀られているのは珍しい。さらに顔が壊れ、コンクリートで補修された像が祠を覗くと見られる。土帝君は16世紀頃に中国から伝わったが、国場では土地の神様というだけでなく、農業・漁業・悪魔祓いの神様として崇められている。


地頭火之神 (ジトゥヒヌカン)、御井 (ウッカー)

土帝君之拝所への階段の登り口に、地頭火之神 (ジトゥヒヌカン) と形式保存された御井 (ウッカー) の拝所があった。詳細情報は無かった。


唐御殿 (トーウドン) 、子之方ヌ御嶽 (ニーヌファーヌウタキ)

丘陵の一番高い所 (と言っても標高50m) は上ヌ毛 (ウィーヌモー) と呼ばれ、先ほど訪れた 登野城之御嶽(トヌグスクヌウタキ) に合祀されている唐御殿 (トーウドン) があった場所。この唐御殿 (トーウドン) についての情報は見当たらない。唐と呼ばれているがこれは中国を意味しており、唐の時代の唐の事とは限らない。中国の遙拝所といわれているが、なぜ中国への遙拝所があるのだろうか?国場に住んでいた瓦職人の中国から帰化した渡嘉敷三良が唐大主と呼ばれ尊敬されていたことと関係があるんだろうか? この場所は国場自治会が運営する有料ゲートボール場になっており、柵は施錠されて中には入れない。ただ、拝所駐車場と書かれた看板もあったので、拝所があるのだろう。どこかにその拝所への道があるかと周囲を歩いたが、道は見つからず、柵の外から見ると丘の上に石の祠があった。多分そこが拝所だろう。公民館で話した職員から聞いたところでは、これは子之方ヌ御嶽 (ニーヌファーヌウタキ) だそうだ。子之方 ( ニーヌファー) なので北からの災いを防ぐ拝所だ。集落によっては集落の東西南北を守るため、4つの拝所を置いているところがある。南の午之方 (ウマヌファー)、西の酉之方 (トゥイヌファー)、東の卯之方 (ウヌファー) もあるかと聞いたが、国場集落には無い様だ。この丘陵地の上は台地になっており、後原 (クシバル)、溝原 (ンジュバル)、垣新原 (カチアラバル) で戦前は一面農地だった。


子方御井 (ニヌファウカー)

唐御殿 (トーウドン) 、子之方ヌ御嶽 (ニーヌファーヌウタキ) から丘陵を降り集落の北側に再度入ると、マンションの駐車場の一画に形式保存された井戸がある。香炉は置かれていないので拝所にはなっていないのだが、公民館の拝所マップでは子方御井(ニヌファウカー) となっていた。子方御井(ニヌファウカー) は登野城之御嶽(トヌグスクヌウタキ) に合祀されていたので、ここは合祀される前からあったのだろう。


龕屋跡

子方御井 (ニヌファウカー) の近く、集落の北の端には龕屋があった場所がある。風葬から火葬に変わった時にその役目は終わったので、現在はその面影もなくなっている。


橋のチビーチンジュ井戸

真玉橋の交差点の北側に井戸跡が残っている。香炉が置かれているので拝所になっている。村の共同井戸ではなかったので、この付近に住んでいた人が使っていたのだろう。ここは国場の瓦屋原 (カラヤーバル) という地域で、真玉橋を境に川向うは豊見城の真玉橋集落になる。井戸の名の「橋」とは真玉橋の事で、「橋のチビー」は「真玉橋の尻」という意味で、端っこということだろう。チンジュは班の事で、ここに住んでいた国場の中の班の井戸ということだろう。この瓦屋原 (カラヤーバル) は高麗人陶工の張献功 (チヨウケンコウ) で、帰化し、仲地麗伸の和名で国場村の12の門中の上嘉数門中の始祖という。ここの真玉橋付近に陶舎を建て、瓦器を製造し、湧田窯の創始者となった。資料によってはこの張献功が瓦の製造を始めたとなっていたが、彼は陶工なので、瓦の製造を始めたのは渡嘉敷三良 (トカシキサンラ―)

沖縄の旅を始めたころ2019年8月12日に那覇の湧田村 (現在の那覇市泉崎) に一六屋敷跡を訪れた。そこに張献功の墓があったのを思い出した。その際のレポートは以下の通り

「緑ヶ丘公園の端にもう一つ墓がある。張献功 (一六 イチロク) は福建人では無いが、琉球に帰化した朝鮮陶工。和名は仲地麗伸 (なかちれいしん ) といい、秀吉が朝鮮を侵略した文禄 慶長の役で朝鮮から連れ帰った。九州の唐津や伊万里にが陶器/磁器が発達するのは滅びた百済国から多くの優秀な職人を連れてきたからだ。彼は薩摩の島津義弘軍に連れて来られた43人の陶工の一人で、琉球王朝の依頼で彼を含め3人の陶工が琉球へ派遣された。張献功はそのまま琉球に残り湧田窯 (上焼きという釉薬をかけた焼物) の創始者となる。後に湧田窯も壺屋に移転し発展して行く。現在も張献功の子孫清明祭を行っているという。」九州を旅した時にも唐津や伊万里、有田なども文禄・慶長の役で九州の大名が朝鮮から連れ帰った陶工が始めたとされていた。沖縄にもその出来事があったとは知らなかった。

緑ヶ丘公園の張献功の墓の近くに、渡嘉敷三良の墓 (1606年没とされる) があったのも思い出したが、この渡嘉敷三良も国場集落の人で、16世紀後半に首里王府の招きで中国から琉球にやってきた瓦工 (ガコウ、瓦職人) 。瓦工の祖として、やはり張献功と同じく、この場所で瓦を焼いていた。国場では唐大主 (とぅうふしゅ) と呼ばれ尊敬されていた。彼の子孫の四世の安次嶺親雲上 (アシミネペーチン) が首里グスクの正殿の瓦葺きを行ったとされる。那覇市の識名に唐大主の現在の墓があるそうだ。当時の瓦は現在の赤瓦ではなく灰色の瓦だった。当時は瓦は王族の特権で、庶民派使用が許されていなかった。戦前までも瓦はその家の格を現わしており、集落を巡ると必ず、この集落には何軒瓦葺きの民家があったという記述がある。その集落の富裕度を測る一つの物差しだった。


おこげ坂

グーグルマップにこの「おこげ坂」が文化財として載っていた。集落から丘陵の上まで登り、沖縄大学を越えたところにある坂で、国場地区の北の端になる。坂は隣の長田と仲井真の地区の境界線になっている。変わった名なので興味を持った。おこげ坂は俗称で地元ではナンチチャービラという。付近の土が鉄分を含み、ご飯のおこげのように茶褐色だったのでこの名がついたそうだ。


名称不明拝所

資料や公民館の拝所マップには出てなかったのだが、集落内でアパートの駐車場の一画に知居sな祠があった。村で御願している拝所ではないのだろう。沖縄の民家には庭にこのような祠を建てているところをよく見かける。その家の先祖を祀ったものや、その家の井戸之神を祀ったもの、家の火の神を祀ったものなどがある。想像では、元々民家之庭にあった祠をアパートを建てた際にここに移したのではないだろうか?


現在住んでいる国場を見て回ったので、随分と落だった。現地に自転車での往復は2~3時間かかるので、その分余裕があった。結局今日は雨が降らなかった。天気予報は全くあてにならない。夕方之天気予報では向こう1週間は晴れだそうだ。先週は梅雨入りだったのだが、それ以降雨が本格的に降ったのは2日間のみ。晴れてくれるのはうれしいのだが、その分気温も上がり、30度を超える日が続くそうだ。


参考文献