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定義をはずす

2021.05.06 22:17

定義を外すということは、物質を対象とする西洋医学には絶対にできない考え方だと思います。


西洋医学の場合、物を観察し続ける観察者の存在が必要不可欠です。つまり観測される物と観測する物の境界がハッキリわかれていなければならないということです。これはこれで、重要な概念です。 しかし、観察者が変態し、概念が変わった場合、詳細な物質としての存在意義は少なくなっていきます。


人間のままの目と他の物の目では違いがあるということと同じです。それでも観測する物とされるものは存在していますが、存在の定義が曖昧で不確かなものになります。 間違えないで欲しいのは不確かが良いとか悪いと言う話しではありません。しかし、不確かにしかできないことと、確かなことでしかできないことがあるということです。 


同じことをしても同じ結果にならないというのは、あきらかに術者側に問題があります。 治療には技術論がありますが、それは西洋も東洋もありません。しかし、治療家という立場で全体を治療するという言葉を発したとするなら、自分自身の目が全体を捉える目に変態していなければならないということになります。 そこには他と個をわけるという考え方がなくなります。


たった一言の「全体」という言葉の意味をわかっていないと成立しない考え方です。


同じものを見ても同じではないという状態になっている必要があるということです。 対象物を変えようとする前に、自分自身が変化しなければなりません。自分自身が変化すれば、対象物も同調して変化していきます。そんなことを今の科学で説明することは不可能です。そうでないとできない技術が東洋医学の本質にはあるということです。そうでなければ脉診なんて考えもつかないと思います。


時間のかかることでも難しいことでもありません。自分自身が変態する見方になれば良いだけです。 

自分自身が変化する時に一番の障害になっているのが常識です。

常識を覆し、自分自身が変態すると決めればできることで、他と個の境が勝手に曖昧になっていきます。そうなってこそできる技術があるということです。

しかし、それを説明する人がいなかった。特に東洋医学の指導者に、それを説明する人がいなかった為に、科学的でないとか眉唾とか言われる羽目になっている訳です。


これはあきらかに武道とスポーツの違いみたいなものです。それにはやり方があり、自分自身を変態させる科学があります。境界が曖昧になり、なくなった時点で何をやっても効果がでるという現象が起こります。やり方ではないと理解できます。

そうでないと辻褄が合わない現象が一杯あります。


ずっとそれを追い求めてきました。 

昔の人が無経無穴と言ったそうです。それを証明したかった。今では普通のことですが、その言葉を聞いた時は、全然意味がわかりませんでした。

しかし、できると思った時点で出来て、できないと思った時点ではできなかったというのが事実でした。自分が変化するか、相手を変化させるかの違いだったということに気づきました。