開き続けて。
おはようございます。
このブログを訪れていただきありがとうございます。
今回は、昨日体験したことから、想うところを書いてみます。
昨日は、Gift time セッション で、初めてのペアセッションを体験させていただきました。
楽しい共同創造に感謝いたします。
わたし自身、改めて『開き続ける』ことの大切さを再認識する時間となりました。
以前、
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『(可能性に)開き続ける』ということは、『自分の可能性を狭めない』ということでもありますね。
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と書いた、そのままです。
昨日は、『自己表現』がテーマとなりましたけど、
日本人はとくに、苦手な人が多いですよね。
・あるがままの自分を過不足なく認めて
・あるがままの自分で他者に受け入れられることを信頼して
・内側にあることを ”あるがままに” 表現する。
・自分にそれを許せば、他者が ”あるがままに在る” ことも全てOKにできる。
ということ。
日本人の美徳とされてきた
・「拙者」「小生」という一人称に始まって、自分の存在や行為を「つまらないモノですが・・」と(卑下する感じで)遜ることだったり、
・「自分が選んだ配偶者」や「自分の血を継いだ子供」を「愚妻」「愚息」と表現することだったり、
・(偽りの)調和を目指すあまりに、『本音と建て前』を使い分けることだったり、
『あるがままを表現する』ことを良しとしない風習が、今だ根強く、影響を与え続けています。
ですが・・・・
これらは、もう、今の『偽りが通用しない地球』には、全く合いません。
昨日は、そんな偽りに関連して、
「内側(おおいなる自分)が必死に、『表に出たい』と自我の自分に訴えている」
という話が展開しまして・・・
「かつてのわたしもそうだったな」と、懐かしく想い出されました。↓
ちなみに、
この記事に出てくる『謙虚さ』と、
先に出てきた『(卑下する感じで)遜る』ことは、
似ているようでいて、全く違います。
『謙虚さ』は、卑下はせず、『あるがままに淡々と』(過大に表現することもない)
昨日は、『風の時代』という話から
「個で立つ」
「100%の自分を表現する」
というワードも降りました。
そこに至るには、
『100%の自分を表現することを妨げるブロック(怖れなどの分離データ)を取り去っていく』
ことに尽きますね。
昨日の体験からのシェアでした。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。
愛♡感謝
りかこ&アダム