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一号館一○一教室

『エピクロス』

2021.05.07 02:24

二千年余の歳月を貫く
フェイク・ニュースの威力


283時限目◎本



堀間ロクなな


 芥川龍之介の未完の長篇『路上』(1919年)には、エピキュリアンの言い回しが繰り返し登場する。東京帝大の学生、安田俊介が女物の金時計を手にしているのを友人の大井篤夫が見咎めて、「ふんMariusu the Epicureanか」と英国の批評家ウォルター・ペイターの著作を引いてからかい、「俊介ズィ・エピキュリアンの近況はどうだい」と畳みかける。また、後日、ふたりはカフェで出くわした際に、大井が女給に愛想を売っているのを眺めて、俊介が「妙な所が御馴染じゃないか」と冷やかすと、相手はすかさず切り返す。「僕はボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない」――。



 どうやら、エピクロス主義者を表すこの呼称は、大正期の硬派をもって任じる学生にとって軽蔑すべきレッテルだったらしい。いや、かれらだけではない、はるかな後裔のわれわれにしたって、教科書のあいだに避妊具を忍ばせているような快楽至上主義の軟派連中を、やっかみ半分でエピキュリアンと見下す風潮が確かに残存していた。



 しかし、岩波文庫の『エピクロス』(出隆・岩崎允胤訳)をひもとくと、その元祖である古代ギリシアの哲学者、エピクロス(紀元前341~紀元前270年)の所説はまるで異なるどころか、むしろ正反対なのに驚いてしまう。万物の根本原理を原子と見なして、無数の原子が無限の空虚のうちを永遠に運動することにより、宇宙の神羅万象が生じるとの壮大なビジョンは、あたかも現代の量子力学を先取りするかのようだ。しかも、かれの徹底した唯物論はそこにとどまらず、われわれの日々の生き方へと直結していく。人間もまたそうした原子から成り立つ以上、感覚をつかさどる霊魂が死によって離れてしまえば、残りの肉体はもはや感覚を持たないとして、こう論じられる。



 それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。



 これは決して詭弁を弄しているのではない。科学と哲学がひとつのものだった当時にあって、最先端の知見をもとにわれわれが美しく心地よい人生を送るための指針を示そうとしているのだ。



 若いものには、美しく生きるように、また、年老いたものには、美しく生を終えるように、と説き勧める人は、ばかげている。なぜなら、生きるということがそれ自体好ましいものだからであるばかりでなく、美しく生きる習練と美しく死ぬ習練とは、ひっきょう、同じものだからである。(中略)それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。



 ここに見られるとおり、エピキュリアンと言ったら女の尻を追っかけているかのような認識は見当違いもはなはだしいものだった。一体、どうしてこんな突拍子もない事態が生じたのだろうか?



 実は、この岩波文庫にはそれを推測させる手がかりもあった。紀元3世紀のディオゲネス・ラエルティオスの著作『ギリシア哲学者列伝』のなかのエピクロスの伝記も収録されていて、そこにこんな記事が見て取れるのだ。エピクロスはアテナイに開設した学校において、市民ばかりでなく奴隷に対しても分け隔てなく講義して人気を博していたところ、それに対立するストア派の学者たちは執拗な非難中傷を浴びせたという。「ディオティモスは、五十通のみだらな手紙をエピクロスの作として公表したり」「エピクテトスはまた、かれを猥談家と呼び、最もこっぴどく罵倒し」「エピクロスの弟子であったティモクラテスですら、その学校を去ったのち、『面白い話』という書物のなかで、エピクロスは美食のために日に二度嘔吐していた、と言っており」「ティモクラテス自身は、エピクロスのあの夜間の哲学研究とあの秘儀的共同生活とから逃げだすことがほとんどできなかった、と」……。



 いやはや、なんとも凄まじい。これらはまさに現代社会で大問題となっている作為的な虚偽報道、いわゆるフェイク・ニュースの走りだろう。いまだネットなど影も形もなく、しょせんアテナイ内外で流されたに過ぎないはずのデマが、二千年余の歳月を貫いて極東の島国にまで影響を及ぼしていることを知ると、フェイク・ニュースの威力に改めて愕然としないではいられないのである。